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東京国際アニメフェア2005 第3回アニメーション感想文(評論文)コンテスト「日本の感性は観客によって磨かれる!」

 事業名 基盤整備
 団体名 東京財団政策研究所 注目度注目度5


アニメ版『ボボボーボ・ボーボボ』は、カブキである
 
第3回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 一般部門 最優秀賞
立樹 美季(たちき みき)
 
 『ボボボーボ・ボーボボ』は「カブキ」である。この点が理解されていないと、まず大人は内容的についていけないし、子供と一緒に観ることさえも苦痛だろう。多くの人は、単純に『北斗の拳』のパロディー・ギャグ・アニメと思い込んでいるようだが、実態はそれのみにとどまらない。物語の流れとは無関係に、いきなり始まる劇中劇のボーボボ劇場にしろ、パッカリ蓋のように開いた頭のアフロ・ヘアーの中で一家団欒している家族、または唐突に始まるリスのラブ・ストーリー、「今日は店じまい」と鼻の穴にシャッターを下ろすオヤジ、ボーボボ自体を操縦しているコックピットの少年操縦士など、次から次への投入される内容と無関係の要素の混在によって、誰もが訳が判らなくなるのは当然の話だ。
 しかしここには、アニメ化に伴って発生した独特の要素の影響がある。
 原作の澤井哲夫のマンガは当然、「読ませる」ことに主軸をおいて構成されているが、アニメは「動きを見せる」必然がまずある。読み媒体であるマンガには、作品構成がどんなに複雑でもコマ割による一種の地続き感覚があり、読解されていく時間的な速度は完全に読者にゆだねられている。だが、アニメではそれが許されず、否応無く視聴者は時間的に拘束される。マンガなら簡単に読み飛ばせるボーボボ劇場も、始まったら終わるまでつきあうしかない。全体を把握できるコマ割りとは異なり、つねに一定の画面サイズですべてが提示されていくために物語の時系列は寸断され、関連性への信頼が大きく揺さぶられる。連続性が保たれていないために、理屈抜きの面白さとはなりにくいのだが、そこに「カブキ」的なものが生じている。
 「カブキ」といっても、歌舞伎座でやっている伝統芸能演劇である「歌舞伎」だというのではない。演劇「歌舞伎」のもともとの意味としての「カブキ」のことだ。
 「カブキ」という言葉は、本来「傾く」意味の動詞「かぶく」の連用形が名詞化したもので、古くは「傾寄」とも表記されたように非日常的な異様なる風体の者の総称だった。歌舞伎の元祖である出雲のお国の舞台上での誇張された男装姿そのものが「かぶき」であり、その異相な異風さによって「かぶき踊り」と呼ばれた。要するに、日常から逸脱した勝手気ままな振る舞いが「かぶき」なのである。油で髪を固めて大きく結い上げ、異様に長い刀の朱鞘に「生き過ぎたりや、二十三」などと金文字で書いて暴れる「かぶき者」は、現代の暴走族やヤンキーなチーマーに相当する存在だった。
 2002年のNHK大河ドラマ『利家とまつ』の冒頭での、顔に白粉を塗り、女の着物を派羽織った若き日の前田利家が長槍を片手に自由気ままに喧嘩三昧に明け暮れている姿などは、「かぶき者」という存在をよく伝えている。(また、劇場用アニメとして制作されたこともあるジョージ秋山のマンガ『はぐれ雲』なども、「かぶき者」という視点がないと、単なる腕の立つ変な「オカマ」で終わってしまう。)
 世間の厄介者だった「かぶき者」は、その反面で、当たり前の日常の様式から傾斜逸脱できる「はつらつした行動力」の象徴としての意味があり、硬直した社会秩序に活力と変化を呼び込む役割性が密かに期待された。そこに、演劇として「傾き者」をヒーロー化して見せようとする着想が生じ、日本の伝統芸能としての歌舞伎が誕生した。市川団十郎の「荒事」なども、そうした暴神顕現による世の中の建て直し願望が待望され出現したものだ。
 『ボボボーボ・ボーボボ』の作中で「ハジケ」と総称されているのは正に「かぶき」であり、さらには歌舞伎の衣装を身に着けて「さあ、かぶくぞ」と言いながら舞台に上り、歌舞伎をやらない(衣装も変わっている)という確信犯的なシーンさえも登場する。
 日本人の同質性ということがよく言われるが、実態はつねに同質が食い破られて新たに更新されていく自由な自律性が求められている。その生きのいい「はしゃぎ」の活力への要求に呼応して歌舞伎が生まれ、その延長線上に海外から暴力的だと揶揄されがちな日本のアニメが登場した。
 「ボーボボは、カブキである」という着眼点からあらためて見れば、日本的な対応する参照が見えてくる。パッカリ開くアフロ・ヘアーの中に居る小さな住人やリスなどは、落語の『あたま山の花見』を参考にすれば、それほど支離滅裂なオフザケではないことが分かるはずだし、鼻の穴にシャッターを閉めるオヤジにしろ、ボーボボを操縦する本編とは無関係な正体不明の少年パイロットにしたところで、中国道教ゆずりの心臓や肝臓を司る体内の神々「五臓神」を考えれば納得いくはずだ。この神が後に「腹の虫が騒ぐ」や「虫の居所が悪い」と言い回される庚申信仰の体内の監視者「三戸の蟲」となる。
 ボーボボの必殺技・ハナ毛真拳にしても、昔からある女性の髪の毛や老人の髭が伸び出て相手をからめ取るモチーフに連なるもので、アニメ的には『ゲゲゲの鬼太郎』の髪の毛針や、『マジンガーZ』に登場した殺人少女アンドロイドのガミヤQのカッターお下げ髪などの系統に位置づけられる。また、左右の鼻の穴から一本、または数本だけが延び出てくるスタイルは、海外でテンタクル・ポルノと呼ばれたアダルト・アニメの男根触手が暗示している日本的アミニズムとしての植物崇拝や蛇信仰との関連が覗える。このような着想は海外のアニメにはあまり見られない特徴といえる。(胸毛あたりが伸びてもよさそうなものだが、そういうものは存在しない。)
 針になって発射されるゲゲゲの鬼太郎の髪の毛針にしろ、ボーボボの伸び出て鞭に変じるハナ毛にしろ、当たり前のモノが突然まったく別のものになって登場する連続的な同一性への裏切りが、ボーボボの世界には満ちている。リーゼント頭の強敵グンカンは、一瞬でお弁当のウィンナーのタコになるし、ボーボボ自体が何の脈絡も無く、元の姿の片鱗さえない雪男じみた奇怪なキャラクターやドラゴンなどに平然と次々に変身する。相棒の首領パッチとの掛け合い漫才に乗じての男から女への形態の移動などが、ほとんど当たり前と言わぬばかりの状況は、完全に西洋的な一定不変の原則を無視している。
 すでに、「かぶき」傾くということには、本来の自分ではない別の存在になるという変身の意味があり、それは自己身体の更新でもある。歌舞伎にも、「七化」(「七変化」)と呼ばれるものがあり、一人の役者が老人、若衆、女の怨霊、狸狸、藤娘、坊主、武士というように性別を超えて次々と姿を変えていく演目があるが、ボーボボで行われている目まぐるしいキャラクターの変転もまた、基本的に同じ精神性の発生した派生物と言える。
 ここにあるのは、神の作り出した被造物としての確固たる一定不変の存在物ではなく、つねに自在に形を変えていくことが可能な変化する現象物である。
 確かに歌舞伎の「七化」(「七変化」)は、女の幽霊や北斗七星の精霊といった人間ではない存在の必然としての変化ではあるが、たとえ零魂や精霊であっても海外では男から女への自在な変転などはありえない。悪魔が聖母マリアやキリストに化ける話はあるが、悪魔自体の存在が変わるわけではない。つまり、中国の『三国志』や『水滸伝』にあるような夜空の星が英雄豪傑に生まれ変わって人々を救うというような「化身」の思想形式がそこにはない。日本の次々と姿を変え、変化していく存在とは、物体から派生し、存在自体を更新されていく「化身」にほかならない。
 タヌキやキツネのみならず食器や農具までが化けて妖怪化するラフカディオ・ハーンを驚かせた変化の思想は、現在の日本のアニメ・マンガ・特撮にあふれている変身につながる重要な要因であり、それは日本人の身体感覚とも密接に関係している。その秘密は、寒暖の差の激しい四季の変化という環境条件に適合するために自然取得された心身の生活技法にある。
 このような他者の対象化をことごとく裏切り、とらえどころのなく変転していく自由な身体が醸す遠心力こそが「ハジケ」であり、それによってマッチョなバトルの暴力性さえもがズラされ、拡散されてしまう。そこには西洋の一定不変への信頼とは異なる、変化への確信と要求が内在されている。日本人の同質性と言うときも、大切なのは自分が自在に他者の期待に従って変われるという確信にあり、これが日本人の主体性のなさとして非難の対象にされがちな「無私」にもつながっているし、逆説的な意味で逸脱的なヒーロー像が待望されるのだ。「若気の至り」と言って、若者の一時的な逸脱が黙認されるのも、変化していく存在への信頼があるからこそ許される。
 このような自己の自由な存在更新への欲望としての「変化への意志」が、『ボボボーボ・ボーボボ』にとどまらない日本アニメの大きな特徴と言える。
 
 
第3回アニメーション感想文(評論文)コンテスト 一般部門 優秀賞
マリー・タナダ
 
 アメリカの大学では学生たちが自主的に映画祭を開催する。
 昨年末には、アジア特集として上映された中で日本映画の代表はアニメーション映画「火垂るの墓」であった。観賞した学生たちは、アニメーションが打ち出すシーンのリアルさや悲惨な光景に衝撃を受けていた。中には表現の生々しさに正視できない女子学生もいた。
 最初彼らにはタイトルになぜホタルが登場するのか理解できなかった。だが、主人公の清太が高架下の塀にもたれかけてそっと餓死していくシーン、次第に途絶えていく意識の中で、最後まで彼の手に握られていたドロップの空き缶が手から転がり落ち、そのはずみでふたが開く。
 そのとたんに妹の遺骨のかけらが出てきた。
 妹の骨片は、ホタルに変化し兄の黄泉の国への旅立ちを誘うかのように宙に向かってきらびやかな光で羽ばたいていく。
 そこでようやく彼らはうなずき、タイトルの主旨に納得した。
 
 現代の学生といえども中国系の学生たちはかつての日本の苦い歴史を「侵略」として厳しく批判する。だが、驚いたことにこのアニメを選択したのは、中国からの移民を両親に持つ二十歳の青年であった。
 会場のほとんどが中国系学生であったことにもおどろいた。そして、彼らは一様に泣いていた。
 
 映画の翌日、彼らと語りあった。
 
 ある学生は、清太たちが世話になっていたおばさんと衝突して食事を別々にするようになったのを知った娘が「お母ちゃん、またキツイこと言うたんちゃうの?」と確信したように問いかける。その娘が、お汁だけの雑炊を食べている節子を見て、一瞬後ろめたい表情をみせた。そこには、悪人ばかりではなく、わずかにせよ清太たちに申し訳ないと感じる者が一人でもいたことを描いていたとほっとする。
 
 あるいは、彼らが防空壕にすむようになり、いよいよ食料が底をついたとき近くの農家にいく。そこで男性はいった。「あやまって、あの家におかせてもらいなさい」と。だが、何もいわず他をあたると言って立ち去る。心配そうに見送りながらも直接は介入しない男の心理に学生たちはいらだちを示した。これは制作者の強いメッセージのあらわれともとれたという。
 
 あるいは、兄の清太が、節子のために畑から芋を盗もうとして見つかり、さんざん殴り倒された挙げ句、ポリスに突き出されるところで男子学生は鳴咽していた。駐在所のおまわりさんが、「こんなに殴ったのだからいいやろ」と相手を帰すシーン。大人をいさめるわけでもないが、辛うじてそれでも無言でかばったあたりに当時の日本の世相を見る思いがしたと言う。主人公は、おとがめなしではあったが何一つ手にできず絶望のうちに妹のところへ戻っていく、家路が近づくと兄を待つ節子の姿が目に入り抱きしめて大泣きしたシーン。あまりにも節子があわれと感じた男子学生は後方の席から「くそっ!」と叫んでいた。アニメでありながら節子の一言一言に説得力があり、その存在感に圧倒されるシーンであった。
 このようなシーンは戦時下であればどこの国でも現実に起きうるであろうと彼らは考えた。そして、アニメーションゆえに、見る側が切なくなるほどに無邪気な子どもの姿がより鮮明に伝わってくる。
 
 学生たちは、最初これが日本の話だと思えないほどの衝撃をうけたという。確かに日本の戦後はいちじるしく変化した。だが、当時の日本市民が深く関わった日常をリアルに描かれているシーンを通して、自分たちと同世代の若者たちも祖父や親の代からの軌跡を同じように引きずっていることを確信し、素直に受け止めようとした。そして、彼らはこの作品がその時代のありさまを外国人の自分たちにも理解できるような内容で制作された優秀作だとものべている。
 認識しなければならないのは、この作品を通して、それぞれに歴史的認識の違いを持つアジアの若者たちが、民族性や過去の歴史観を越え、一人の人間としての思い、その優しさには違いがないということを改めて知らされたことである。そればかりか、加害者側だけの日本人を捉えていた彼らが、被害者としての日本人のすがたを知ったことから新たな視点で日本、そして日本人を見つめようとする若者たち。そうした彼らの姿勢に、この作品が世代を越えた真の意味での信頼関係を形成する出発点となった意義は大きい。
 
 両親を失い、幼い妹をみとった後、主人公が死んでいくストーリーの展開に、アジアの若者たちがあらためて戦争の悲惨さを考え、親子や兄弟の絆を思い、さらには戦争を引き起こした一部の指導者たちに対する怒りが生まれるなど、あらためて、人間としての内面的な正義や怒りに共通の認識がもたらされたことも価値あるものとしてうけとめたい。
 
 哀しすぎてみんなは泣いたが、結果として、民族や国を越えた人のつながり、やさしさをもたらすきっかけとなり、さわやかな後味を残してくれた作品となった。







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