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第99回 ユートピアは終わった
――トーマス・モアからブッシュまで PART 1
(二〇〇四年九月九日)
日本は現実主義になりつつある
 今日からの新しいテーマは、「理想主義は終わった、現実主義に日本はなりつつある」です。
 わかりやすく言えば社会党や共産党は流行らない。あるいは進歩的文化人とか、日教組、朝日新聞、毎日新聞、NHK、中央公論というのはみんな流行らない。そんな思いつきですが、今まで何度かした話ですから、それをもうちょっとさかのぼって理想主義の淵源をトーマス・モアから行ってみようかと思います。
 トーマス・モアは、実は法律家です。私は経済学部で、法律の人が議論しているのを横で聞いていて、感心したりしなかったりしているのですが(笑)、法律家の偉いところは「アクション(action)」をすることなんですね。人間のすることはレーバー(labor)、その上がワーク(work)、もっと上がアクト、アクション。これはギリシャ人が発見していたらしいと中世のヨーロッパで書いている人がいます。
 この三つの区別を日本人は知らないから、さんざん騙されて損をするんです。
 ギリシャは一番下に奴隷がいた。それから一般市民がいて、その上にリーダーというか貴族がいて、社会が三層になっていました。だから働くというのも三種類あったわけですね。レーバーは奴隷が言いつけられてする働き。ワークは中流階級の市民が自分で好きなことをするもの。ライフワークという言葉がありますが、「自分がやりたいことだからやる、必ずしも儲けのためではないし、人に言いつけられてやることでもない」という意味ですね。
 ではその上の貴族は何をするかというと、アクションをする。これは「人にやらせる」という意味なのです。自分がやるのではない。他人がやることを見下している考えです。ですから、法律のことをアクトというわけですね。人にやらせるからアクトです。
 だからアメリカから「アクションプラン」というのを突きつけられたときには、即座に「ふざけるな」と言わなければいけないのです。ところが日本人は「アクションプランの通りにやれ」と言われたら、単に条件闘争をする。大筋において飲んでしまって、部分的に「日本ではすぐには無理です」などと主張するのが、外務省をはじめとする官庁です。もう完全に負けていますね。教養がないからこういうことになってしまう。アクトをつくって人に押しつける人のことを「アクティブな人」と言うでしょう。つまり活動家とか、人にやらせる人のことを言うわけです。
 日本の場合は、上に立った人は「よきにはからえ」と言って、自分はアクションしない。アクティブでない人は評判がいい。中流階級がワークとして自分からやってくれますからね。
 「自分がやる」ことが自慢な国は、世界中で日本しかないとかねてより思っています。ありますか? 自分がやることを自慢するなんて、何千年のあいだ世界中にいません。強いて探すとトーマス・ジェファーソンぐらい。あのときのアメリカは「どんどん自分でやれ。そうすると豊かになれる、成功できる。これは神の教えである」という国でした。あるいはベンジャミン・フランクリンですね。あのときのアメリカにだけワークの精神があるのかな、と思いついたことを言っておりますが、違っていたら教えてください。
 
 さて、トーマス・モアは法律の専門家で、王様にかわいがられて、最高法律顧問になりました。最高裁判所長官みたいなものですが、最後は死刑になってしまう。
 というのは王様が「離婚したい」と言ったとき、「だめです、それは違法です。離婚は認められません」と言った。王様も引きません。「その考えを直せ。直さなければ死刑にする」と言ったわけです。そういうところが不思議といえば不思議で、王様なのだから離婚ぐらいしたければできるだろうし、トーマス・モアが気に入らないならさっさと遠島の刑でも死刑にでもすればいいのに、「おまえの口から言え」と言わそうとする。この辺はまだ理性的ではありますけれども、トーマス・モアもまた自説を守って殺されても言いません。アクトをつくって人にやらせるからには、自分も守らなければいけないということですね。貴族たるものは、自分も守らなければいけない。そういう精神がないと人が尊敬してくれない。
 などという話がありますが、この人が『ユートピア』という小説を一五一六年にラテン語で書きました。中身は君主制批判なのですが、ちょうど君主制には、みんなうんざりしてきたときでした。それで紙の上で、「理想の国があればこうではない」と君主制批判を書いた。
 ユートピアというのはさかのぼるとギリシャ語に由来するようですが、どこにもない場所という意味です。英語で言えば「Nowhere」ですね。ちょうど岡田英弘・東京外国語大学名誉教授がいらっしゃるので、間違っていたら指摘してください。
【岡田】 「ユー」は「ない」です。「ピア」は「場所」です。
【日下】 ありがとうございます。
【宮脇】 ウクライナ――ユークライナも同じで、「人がいないところ」です。もともとが「ユー」です。
【日下】 昔はほんとうに無人地帯だったのですか?
【宮脇】 いえ、遊牧民はいたんですけど。
【日下】 定住していないから。
【宮脇】 そうです。所有地ではないということで。
【日下】 なるほど。農耕民族から見ると、羊が歩いているだけの無人地域ですね(笑)。それでウクライナ(=人がいない)。いまご発言くださったのは宮脇淳子さんです。モンゴルの専門家でいらっしゃいます。ありがとうございます。
 さて、ユートピアというのはノーホエアー(どこにもない場所)、こんな国はどこにもないと断った上で自分の理想とする国の姿を描き出したわけです。生きているその時代で自分の理想を語ると、それは王様に対する当てこすりになります。命が危ないからノーホエアーと書いた。それはイギリスに限らずフランスでもドイツでも事情は一緒です。それで『ユートピア』を読んで賛成する人は、自分もそういうことは考えていたと書くんですね。その題名は『アルカディア』とか『理想郷』とかいろいろ出てきます。
 それを読んで「なるほど、自分がそれを実行する」という人が出る。それは同志を集めてボランティアでやるのもあるし、会社の社長が「この会社だけはユートピアにするぞ」とやるのもある。それが長続きしたかというと、あんまりしていないと思います。その人が生きている間はいいのですが、やがてダメになることが多い。
 つまり性悪説と性善説です。ユートピアを言う人はみんな性善説ですね。ほんとうに性善の人だけ集めてやればユートピアはできます。しかしだんだん便乗する人が集まってきて、ぶら下がる人が出てくる。自分だけ得しようという人が集まってきて、結局ダメになってしまうようです。
 
 そういう点で言うと、日本国というのは実に成功しています。国全体がユートピアになっている。千何百年間いろいろやってみて、あまりぶら下がる人がいない。みんなきちんきちんとワークして、言いつけられても「これが自分のワークだ」と思ってレーバーを果たす人がたくさんいた。それが急にいなくなったのはなぜかということです。それはヨーロッパ伝来の理想主義が入ってきたからですね。そこで社会思想史の話になってしまうのですが、それはまたこれからだんだんやることにいたします。
 今日は、その根本が言いたいのです。
 つまりヨーロッパ人がそのとき何を理想と考えたか。そのときのヨーロッパ人は理想の国を考えるに際して、性善説のほうへ行かなかった。人間不信を根底にして知性とか理性に望みをかけた。それがキリスト教の考えです。
 そうなる理由は簡単で、旧約聖書に「神様は万物をつくりたもうて、一番最後に人間をつくって息を吹き込んだ。土でつくった人形のようなアダムに自分の息を吹き込んだ。するとアダムは人間になった」ということが書いてある。中世ヨーロッパのキリスト教社会の解釈は、知性と理性を神様からもらった、だから動物とは違うんだというわけです。人間と動物の根本的な違いは、人間は神様から知性と理性をもらった。しかし動物にはそれがないという思い込みがあって、だから動物は道具を使わないはずだ、言語がないはずだとなる。
 これは全部思い込みなのです。このごろ調べてみると、動物もちゃんと言語をしゃべっているし、道具も使っているし、群れごとに文化があってちゃんと伝承している。その点では人間と変わらない。つまり、そうとう非科学的なことを科学の名において、ヨーロッパ人は何百年も信じていたということになります。
 
 それに対して日本では、日本書紀でも、古事記でも、神話でも何でもいいのですが、神様から理性をもらったなどとはどこにも書いていない。神様より先に人間がいた。人間のいるところへ神様が「天下り」で来た。これが日本の神話で、人間のほうが「もと」なのです。神様からもらわなくても、理性も知性ももともと我々は持っている。
 日本人の考えは人間中心主義ですね。決して神がかりではない。欧米のほうがずっと神がかりです。私たちはちゃんと地に足がついていて、現実主義です。けれども、明治維新以来いっとき向こうにかぶれた人がいまして、向こうの雰囲気をそのまま信じてしまった。人間の人間たるゆえんは知性にある、理性にある。それは神からもらったものであって貴いものである、というのが伝染してしまった。
 これを専門にやるところは教会ではないのです。最初は教会が一生懸命努力して、しかし投げ出すんですね。人間には知性、理性があって、これは何のために役立つかというと、神様を見るために使える。知性と理性がある人は神様のことがわかる。神を見るためにこういう能力が我々に備わっているのである。動物には神様は見えない。だから動物はとって食ってもいいんだ、と。肉食中心の文化の人たちはそうでも考えなければやれませんからね。「動物は食べてもかまわない」という教えです。
 人間が知性と理性で神を見ようではないか、というのが神学になる。ヨーロッパ中世の教会、あるいは修道院は、一生懸命「神学」を考えた。そして知性と理性を駆使して、理屈で固めた。論理学とか、その後は哲学とか、神の存在を言葉で証明するという努力を何百年もやる。が、結局だめでした。最後にヨーロッパ中世の神学は、「神様は感ずるものだ。天からの啓示がくだってきて、ハッと思うものであって、いくら理屈で固めてもだめだ」となる。では、どうすればいいのかとなるのですが、「それは神様の恩寵によってくだってくる。神様がこの人に啓示を与えようと思わなければしようがない。だからこちらはひたすら待つしかない。心を清め、瞑想して、啓示がくだるのを待つのが修行である」となる。この辺になると仏教とも似ているのですが、そんなわけで、「知性や理性で神をわかろうとする努力は、もうやめた」になる。
 それからもう一つ、キリスト教には「原罪」の考えがある。「人間は生れながらにして罪人だから神の許しを乞う」というのが出発点です。そこで原罪プラス理性イコール人間だから、性善説の日本人の人間観とはまるで違っています。
 そのころトーマス・モアが出てきて、「人間の頭脳で理想の国をこの地上に考えてみよう」と『ユートピア』を書いた。神様が与えてくれるのを待つのではない、我々自身がこの社会、この国を設計してみよう、と。
 かくして人間中心の思想哲学がトーマス・モアに始まりました。







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