【研究論文4】
最近の北朝鮮社会経済情勢と難民問題の動向
李 英和(関西大学助教授)
1. 問題の所在
北朝鮮で2002年7月より施行された新経済政策をめぐり評価が分かれている。「後戻りしていない、本物だ」(ジョン・メリル米国務省情報調査官)という肯定的評価から、複雑で制御不能な社会的混乱を生んでいると否定的に評価する筆者まで、多様な分析と評価がなされている。筆者は前回のプロジェクト報告で新経済政策の所期段階での評価を試みた。そこで得られた暫定的評価の結論は以下のようなものであった。
「『第4経済』の『第1経済』への吸収という最大の政策目標の達成にほぼ完全に失敗」し、「新政策実施後、わずか6か月で闇市場の全面的復活を公認せざるをえない事態となった。「7.1措置」の失敗は、現在小康状態にある難民流出を今後本格化させる契機になるものと考えられる」と。
新政策実施から2年ほどが経過した現在、上記のような評価に大きな変更を加える基本的要因は存在しない。ただし、RENK(救え!北朝鮮の民衆/緊急行動ネットワーク)が継続実施している北朝鮮内外での調査によれば、大別すれば次の2点で注目すべき現象が見られる。ひとつは予想に反して本格的な難民流出が起きていないこと。もうひとつは、北朝鮮国民の生活難は改善されていないものの、貧窮状態に新たな変化(態様)生じていることである。後者は、市場経済的要素の導入による貧富格差の拡大に加え、顕著な地域間格差の発生が見られる。垂直方向だけでなく、水平方向での経済格差の拡大である。
北朝鮮の社会経済状態が難民問題の動向と密接に関連することは論を待たない。両者の関連を正確に把握することは、北朝鮮の核問題解決をめぐり経済制裁実施を検討したり、米国の「北朝鮮自由化法案」のように脱北者問題を機軸にして体制変換を図る際に不可欠となる。そこで以下では、社会経済状態と脱北者問題の最新動向を報告する。
2. 最近の北朝鮮国内状況
(1)食糧事情および諸物価の動向
北朝鮮では新経済政策の実施以降、食料品をはじめ諸物価の高騰が著しいことはよく知られている。今年1月の咸鏡北道清津市での1か月の平均的な生活費(4人家族)は3〜4万北朝鮮ウォン程度である。内訳は主食(韓国産米40kg)が 8,800北朝鮮ウォン、副食品10,000 ウォン、被服費 10,000 〜20,000ウォンとなっている。なお住宅価格は清津市中心部のアパートが250万ウォン程度、郊外の住宅地は1坪当たり1万ウォン程度となっている。同市での労働者の平均月収が3,500ウォン程度だから、夫婦共稼ぎでも生活費の5分の1程度しか月収で賄えないことになる。
ちなみに、労働党当局は新経済政策の導入に際し、各種商品の公定価格を固定せずに商品需給の変動に応じて「能動的に継続して調整する」ことをうたっていた。ヤミ市場を廃止して国営商店に一元化した新政策導入当初、公定価格はおよそ以下の通りであった。白米1kg:40ウォン、豚肉1kg:110 ウォン、化粧石鹸1個:20ウォン、運動靴1足:180ウォンである。前回報告で指摘したとおり、ヤミ市場の廃止措置によって指標が失われ、能動的な価格調整が事実上不可能となる事態を招来した。この難問を克服するために、結局はヤミ市場が再度公認され、公定価格調整の指標とされている。実際、昨年12月16日に公布された人民委員会価格制定処第33号によれば、各種商品の公定価格は以下の通りとなっている。白米1kg:250 ウォン(国産)、トウモロコシ1kg:139 ウォン、豚肉1kg:800ウォン、化粧石鹸1個:100ウォン(国産)、運動靴1足:300 ウォン(国産)である。なお、公定為替レートは1米ドル=1,100ウォンに変更された。
一般国民の生活が一向に改善されない反面、地域間の格差を度外視すれば、全体的には90年代飢饉の状態からは脱し、懸念された大規模な餓死者発生は免れている。その基本的要因は、新経済政策の施行直後に再度の方針転換を行いヤミ市場を公認化したことにある。ヤミ市場公認に伴って労働者の各種商業行為も一定の条件付きで認可されることになった。具体的には、全労働者は形式上、職場に在籍しなければならないが、一定金額(1か月の給料相当分=約4千ウォン)を勤務先の企業所に納付すれば各種商売ができるようになった。在籍する職場に出勤して職場で各種副業(内職)を行う場合には納付金は免除される。
このような商行為容認による都市部での飢饉防止策は、産業配置やインフラ整備など居住地域の特性に応じて住民の食糧危機回避能力に差異を生じさせる。黄海道地域の農業地帯は例外として、1級企業所(戦略企業所)の所在地では、電力の優先供給などにより、本業のみならず副業の発展にも有利となる(咸鏡北道の清津市や茂山郡など)。商・工業的副業以外にも、自家菜園用の可耕作地の多寡も影響する。これ以外にも、外国からの人道援助を継続的に獲得すべく「ショーウィンドー」に設定された地域(黄海北道沙里院市など)では相対的に生活水準は良い。もちろん、人道援助物資が住民に直接配分されるという意味ではなく、各種腐敗現象を通して援助物資が市場に供給され、その結果として住民の食糧入手機会が増えるという意味合いにおいてである。
ただし、あくまで最悪の飢饉時代と比較しての生活水準好転であり、咸鏡北道茂山郡では住民の70%はトウモロコシ粉と白菜の葉を主食にする状態にある。一方で、咸鏡南道の内陸部などでは餓死者が発生し、同渭原郡の駅では死体が多数見られる。また経済特区新設騒動で揺れた平安北道の新義州では住民生活の悪化が著しい。
以上のような垂直方向と水平方向での食糧調達能力の両極分解を背景に、一部報道にもあるように、今年になって北朝鮮当局は中国への親族訪問許可を緩和した。許可条件は中国に「8寸」以内の親戚がいる50歳以上の北朝鮮住民とされる。同措置により、金銭援助を求める目的での中国への親戚訪問者が増加している。
(2)北朝鮮当局の脱北者政策の動向
一部報道は北朝鮮当局による脱北者処遇の改善が報じられる。この種の報道は多分に誤導的である。強制送還された脱北者への「処罰緩和」と、脱北者の発生防止措置の強化とを混同しているからである。北朝鮮当局は昨年より脱北者の発生防止策を一段と強化している。これが現在のところ脱北者の大量発生を抑制している最大の要因である。北朝鮮住民の脱北圧力が減少したからではないことに十分留意する必要がある。
脱北者処罰については、単純越境者に関して処罰が緩和されたのは事実のようである。昨年末から通常は2〜3か月間の監禁の後に釈放されるようになった。ただし監房での給食は水分の多いトウモロコシ粥が1日1食で相変わらず劣悪である。数年間の脱北生活を経て強制送還された母子は保衛部での20日間の取り調べの後に道集結所(労働鍛練隊)に送られたが、1千中国元(1万3千円程度)の賄賂を支払って1か月足らずで釈放された。単純越境者の処罰緩和の理由は定かでないが、近年の中国当局の猛烈な脱北者狩りによって強制送還者が急増した物理的理由によるものと思われる。
その一方で北朝鮮当局による脱北者発生防止策は強化されている。最大の脱北ルートであった咸鏡北道茂山郡では警戒が厳しい。警戒線は4重になっている。最前線の第一線は国境警備隊、第2線は人民保安省(一般警察)、第3線は保衛部(秘密警察)、そして第4線は各職場で選抜された自衛隊が受け持つ。これとは別に人民班(隣組組織)の班長と保安省の保安員が共同で随時宿泊検閲を実施している。幾重もの警戒線を突破して第一線まで到達し、顔見知りの国境警備隊員にまで辿り着けば50〜100 中国元を支払えば越境が可能となる。しかし、第2線と第3線で引っ掛かれば逮捕は免れない。
このような北朝鮮国境警備隊の腐敗現象を監視するため、昨年12月から金正日の指示により人民軍内の労働党組織部を中心にして「国境封鎖指導員」が新たに編成され、国境警備隊員を監視している。さらに軍党委員会の初級書記以上で別途の検閲隊を組織して、国境封鎖指導員を監視するという文字通り「2重3重の監視体制」を敷いている。
このような警備体制強化の背景には、深刻な脱北事件の発生があったようである。昨年11月に咸鏡北道穏城郡で7世帯21名が集団脱北する事件が発生した。その大半が行政機関や治安機関傘下の住民であった。これに激怒した金正日が12月に穏城郡の軍党書記や治安機関長および国境旅団長を即刻解任して国境封鎖を命じた。
以上のように、北朝鮮住民の脱北圧力は決して減少しておらず、独裁機関による究極的な治安体制強化がかろうじて大量脱北を水際で食い止めていることがわかる。
3. 最近の中国側の脱北者取り締まり状況について
昨年来、中国当局による脱北者取り締まりは厳重さを増している。これには流入防止策の強化と、脱北者救援関係者の摘発を含む潜伏定住型脱北者の摘発強化の両面がある。
国境での水際作戦はハイテク化(暗視装置等)を含めて格段に強化され、北朝鮮警備兵を買収して越境に成功しても中国側の辺境防衛隊に摘発される事例が多い。この警備強化は確実に新規の脱北者数を減少させている。この点では中国政府の明確な政策的意図が看て取れる。
他方、潜伏定住型脱北者の摘発に関しては、逮捕・強制送還者数の急増が確かに見られるものの、中央政府の次元での明確な意思決定による全面摘発(新政策)の発動であるのかどうかは不明である。むしろ、黒龍江省での摘発件数の激増状況を見ると、指示命令事項が例年通りであるにもかかわらず、各省および市町村単位で治安機関が実績向上を目指してノルマ超過達成を図っている可能性がある。その一貫として設けられた密告謝礼金(脱北者1名につき200中国元)が目標の超過達成を加速させる側面もある。しかし、脱北者のメッカと称される吉林省延吉市では特段の摘発強化は見られない。中央政府の意思決定とは別次元で脱北者摘発が進んでいる可能性を示す傍証である。ちなみに毎年3月に強制送還者数が増加するのは、北朝鮮当局が毎年2月末に吉林省政府に対して脱北者の逮捕・送還を要請するためである。
一方で、中国当局が脱北者の第3国亡命を援助する救援団体やブローカーの一網打尽を目指していることは疑いがない。その摘発件数は確実に増加している。その際には当然のことながら脱北者も同時に多数摘発される。その結果として強制送還者数が増加することになる。
ともあれ中国当局は現在のところ、国際機関および国際世論の批判にもかかわらず、旧態依然の脱北者政策を採っており、脱北者保護へと舵を切る気配を見せていない。脱北者政策の転換を迫るには、中国政府に対する国際社会の強い圧力が必要とされる。
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