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2002年7月号 Voice
名も恥もない日本外交 チャイナ・スクールに牛耳られた外務省を即解体せよ
中嶋嶺雄(なかじまみねお)
(国際社会学者)
「国家の暴力」のメカニズムが露呈した
 五月八日午後に瀋陽の日本総領事館で発生した北朝鮮家族五人の亡命事件は、二十二日にマニラ経由で五人が韓国へ移送されたことにより当面の決着を見た。
 だが、この事件が与えた衝撃と根の深さは計り知れない。日中関係はもとより、日本という国のありようが根本的に問われたのである。
 瀋陽の事件は第一に、中国という国家の本質をまざまざと露呈させた。亡命を余儀なくさせる独裁国家・北朝鮮の存在以上に、もう一つの独裁国家である中国の真の姿が浮き彫りになったのである。
 近ごろは中国が著しい経済成長を遂げたことから、「二十一世紀は中国の世紀」といった手放しの中国礼賛論や楽観論が語られ、北京や上海の表面の活況を見て日本が中国に投資したり企業進出したりする「中国ブーム」も巻き起こっていた。
 だが、韓国の聯合ニュースと日本の共同通信による、あの生々しい事件映像によって、そんな薔薇色の中国像は打ち砕かれた。今回最も印象深かったのは、中国の人民武装警察部隊による「国家の暴力」行使の赤裸々な現場が映像によってリアルに映し出されたことである。
 われわれは中国社会の表面的な変化に目を奪われず、その内面を冷静に分析し把握しなければならない。APEC(アジア太平洋経済協力会議)やWTO(世界貿易機関)に参加・加盟したからといって、中国が世界と調和しうる国家に変わったわけではけっしてないのだ。
 このたびの事件によって、「世界に開かれた中国」がまったくの虚像にすぎないことも明らかになった。中国政府は北朝鮮からの亡命者を不法越境者として扱い、処罰や強制送還、勾留を繰り返してきた。また亡命者だけではなく、国内の「不法人民」に対しても日常的に人権抑圧を行ない、チベットや新疆ウイグル自治区で独立運動を続ける人々に弾圧を加えているのである。
 そもそも現在のチベット自治区や新疆ウイグル自治区は、漢民族が収奪した地域である。「新疆」とは「(国境を隔てた)新しい地域」という意味だが、漢民族から見れば新開地であっても、ウイグル族にとっては奪われた土地である。
 一九八九年の六・四天安門事件以降も潜在する民主化勢力や、いまや一億人にも達するといわれる法輪功への徹底的弾圧など、中国の国家的暴力は日常茶飯事である。弾圧を行なっているのは人民解放軍や人民武装警察、そして公安(警察)である。
 この暴力の支えがなければ中国はすでに民主化し、各地域で分離独立が多発していただろう。その「国家の暴力」のメカニズムの一端が、瀋陽の事件映像によってはからずも明らかになった。
 天安門事件以来、中国では国防費の増強率が年々二桁に達し、昨年も一七%台の増強を行なっている。いま中国を侵略しようとする国は世界に存在しない。中国は外敵に備えるというより、むしろ国内の治安維持を図っている。むろん中国はアメリカに対する覇権戦略を捨てていないが、ミサイル、ロケット開発などは国防費からではなく、表に出ない軍事費を使っている。
 中国の人民解放軍は、かつて六五〇万人の兵力をもっていた。それが九〇年代に、小平の軍の近代化によって約三五〇万人に削減された。減らした半分、つまり一五〇万人前後の人員を人民武装警察部隊として再編したのである。あの人民武装警察部隊は人民解放軍のなれの果てといってよい。
 人民武装警察が増強されたのは天安門事件以降であり、当時は人民解放軍が直接前面に出て市民と対立し、戦車や銃を使って弾圧したことが問題となった。そこで人民武装警察という、公安(警察)と軍の中間的な存在としての治安維持部隊を増強したのである。人民武装警察は当初一〇〇万人ほどだったが、現在では一五〇万から二〇〇万人に膨れあがったと推定される。
 人民武装警察と人民解放軍の違いは一般には識別しがたいが、専門家が見れば一目瞭然である。最大の相違点は、人民武装警察は重火器による暴力を直接行使せず、催涙弾やピストルなど軽火器を使って治安維持を図ることである。人民武装警察部隊は、人民解放軍が駐留していない地域にもネットワークを張っている。
 中国の人民武装警察は、日本の警察とは異なる。人民武装警察は武力によって治安を維持する集団であり、その下に公安すなわち日本でいう警察が存在する。つまり「人民解放軍―人民武装警察―公安」という三重構造の治安維持装置が、中国人民を日常的にコントロールしているのだ。
 この「国家の暴力」が中国の抱える基本的な体質であることを、われわれはまず理解しておかなければならない。毛沢東の言葉にある「政権は銃口から生まれる」というテーゼは、いまも生きているのである。
 さらに今後、中国という「病める強権大国」が「病める強権小国」の北朝鮮とよりいっそう連携する可能性がある。中国にとって北朝鮮は何といっても同胞である。江沢民と金正日のあいだには日本やアメリカに向ける顔とは違う、親密な関係が結ばれていると見てよい。表面上の外交関係とは異なる二つの共産主義国の協同関係については、今後も警戒する必要があるだろう。
中国を刺激しないことがすべて?
 瀋陽の事件が明らかにした第二の本質は、日本外務省、つまり霞が関外交の驚くべき実態である。一連の不祥事によって外務省に対する内外からの批判がこのところ強まっているが、この三〇年間、さらには戦後の対中外交のスタンスが根本的に問われている。外務省の体質を正すことができなかった日本政府や政治家の責任も大きい。しかし、これほど無残な外交は、日本外交史上もありえなかった。近年の外務省スキャンダルも、今回の事件も、同じ根から生まれたものである。
 最も驚いたのは、事件後の五月二十一日、外務省の竹内行夫事務次官が「今回の事件を教訓として日中両国が再発防止で協力していくのが課題だ」と発言したことである。自由主義国の一員として北朝鮮からの亡命者たちを庇護することは露ほども考えず、この期に及んで中国と共同で再発防止に努めるというのは、もってのほかであろう。だが、図らずもこの発言に、日本外務省の体質が現れている。
 そもそもこの事件の最大の問題は、日本の主権が侵されたことにある。在外公館といえども日本国の明確な許可なく中国の官憲、しかも人民武装警察部隊が入ってきたのは明白な主権侵害で、この事態一つ取っても深刻かつ重大な問題である。
 今年は日中国交正常化三〇周年だというのに、最近の日中関係にはトラブルが多い。日本国民の対中国感情も、今回の事件によって大きく損なわれたことは否めない。そのうえ中国に主権を侵害されても結果的に何もできないとすれば、日本人の心にも傷が残るであろう。しかも日本政府は当初、主権侵害を強調していたにもかかわらず、中国側の「日本の了承を得た」という主張に押されて抗議のトーンを一挙にダウンさせた。それは亡命者への人道上の配慮からだというのは、苦しい口実であった。
 私が事件の第一報を聞いたのは八日の夕方で、『東京新聞』九日付の朝刊に対し、「在外公館に同意なく入ることは、どんな理由でも許されない。中国に毅然とした態度で抗議すべきだ」という談話を寄せた。
 だが、その時点では外務省はもちろん、中国の傲慢さをかなり知るはずの小泉総理でさえ、「このような事件で日中関係が損なわれてはいけない」というニュアンスの発言をしていた。日本の総理でさえ、主権が侵害されたという意識がなかったのである。事件後に副領事が瀋陽の公安局に出頭したが、この程度では抗議にも何にもならなかった。
 ところが翌九日の午前中に亡命失敗の記録映像が映し出されると、マスコミをはじめ日本中が騒然とした。もしもあの映像がなければ、これまでの日本外務省の体質からして、事件が闇から闇へ葬り去られることすらありえたということだ。
 日本の外務省には、中国を刺激しないことが日中外交のすべてだという惰性的体質がある。中国に謝罪外交を繰り返すうちに、日本の政府・外務省および駐中国の在外公館は、中国にすっかり侮られてしまっている。
 私は一九六九年から七一年まで、外務省特別研究員として香港総領事館に在勤したことがある。当時は日中国交樹立の直前、米中接近の時期で、外務省に出向した経験に基づいて「『霞ヶ関外交』の体質〈岐路に立つ日本外交〉」という文章を『日本経済新聞』に寄せた。
 そのなかで、たとえばわが国の中国政策決定過程を見た場合に「外務省の政策決定過程はあまりにも恣意的かつ不透明であるように思われる。そうした不透明さのなかで問題が処理されるだけに、だれがどんな情報をだれに送り、だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するかという政策決定過程における情報とコミュニケーションのチャネルもまた不分明であって、これではとうていあの目敏く執拗で、またテンポの速い中国外交の展開に十分対応できないように思われる」(『日本経済新聞』一九七一年六月八日付)と書いたのだが、三十年以上たった現在も、上記と同じ問題がまさに顕在化しているのである。
 中国側は瀋陽の事件に関し、すべての情報をキャッチしているかのような調査結果を確信犯的に発表してきた。副領事が人民武装警察の帽子を拾ったばかりか中国側に謝意を表したり、亡命者が持参してきた手紙を突き返したことなど、すべて中国側からの情報である。中国は盗聴やスパイ活動を通じて、日本の動静を完全にキャッチしていると見てよい(私にも、北京や上海にいる教え子やジャーナリストから電話がかかってきた際、話の途中で通話音がおかしくなる経騒が何度かあった)。
 ところが日本側は、三〇年前の「だれがどんな情報をだれから受けて責任ある政策を決定するか」という課題がまったく放置されてきたのである。瀋陽の事件は、日本外交の政策決定過程における情報とコミュニケーションの不分明と無責任を、ものの見事に露呈した。
 なぜこのような事態を招いたのか。まず、外務省の思想性の欠如、そしてストラテジー(戦略)の欠如が挙げられる。「中国を刺激しないこと」が唯一の外交思想の国に、中国に「戦略的思考」で当たる意識が生まれるはずがない。だから、今回のような事件が起こりうるという身構えもなかった。
 また、戦後の外務省は、戦時中のリベラルな伝統を引き継いで戦後政治の表舞台にいたために、内務省など他の官庁が解体される一方、その構造が温存されてきた。戦後には幣原喜重郎や吉田茂、重光葵など第一級の外務官僚が政治の第一線を担ってきたため、外務省は戦前的な体質を温存し、かえって自己批判と自己改革を行なう機会を失ったままだったのである。
チャイナ・スクールの罪状
 今回の事件が証明したように、「日中友好」の美名に隠れた「日中癒着」の体質は、じつは国交正常化以前から存在していた。対中国外交では、どこの国の外交官かわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきた。今回の事件の教訓として、その全貌を徹底的に洗い出すことが必要である。
 外務省内のチャイナ・スクールは、アジア局(現アジア大洋州局)中国課の首席事務官−中国課長−(香港総領事)−アジア局長−駐中国大使といったピラミッド構造によって形成されている。
 アジア局中国課はモンゴルや香港・台湾も含む東アジア全域の外交を担当し、その首席事務官は重要なポストになる。首席事務官はやがて前述の中国課長、アジア局長、駐中国大使などになる場合が多く、日本の対中政策を決定するからだ。
 そこで次に歴代の中国課長を見ると、日中国交正常化以前(佐藤栄作内閣時)から対中外交の命運を左右する国交樹立の時期に五年以上も異例の長期にわたって中国課長だった橋本恕(ただし)氏(昭和四十三年就任。のちアジア局長、駐中国大使)という人物が注目される。
 それより前の一九六一三年十月、日本のその後の対中政策を決定づける「周鴻慶亡命事件」が発生した。私は、橋本氏がこの周鴻慶事件を処理して本人を差し戻したのだと得々と語っていたことをよく覚えている。
 この事件は周鴻慶という来日した中華人民共和国代表団の通訳が、当時の中華民国、つまり台湾に亡命するためにホテルを出てタクシーに乗ったところ、中華民国大使館のある場所がわからずソ連大使館に入ってしまい、日本側に留置されたのち、中国側とも面談させた結果、本人の当初の希望とは違って中国に送還された事件である。
 当時の日本は中華人民共和国と国交がなく、ようやく日本輸出入銀行の対中融資が始まり、日中関係がいよいよ形成される最中だった。そんな折、もし周鴻慶を台湾へ亡命させたら日中関係の展開が危ぶまれるという判断から、外務省は周を出入国管理法違反で日本に抑留した。当時の台湾(中華民国)側の大使館が台湾への引き渡しを要求したにもかかわらず、日本の外交官立ち入りのもとで北京に押し戻してしまった。
 亡命者を押し戻すという行為は、「ノン・ルフルマンの原則」すなわち亡命者を意思に反して追い返し逆流させること(ルフルマン)を禁ずる国際常識に反する。そのタブーをまず破ったのが日本外務省である。これが中国を刺激しないよう心がけ、中国当局の意に沿うのが外交だという習慣を日本に植えつけるきっかけとなった。
 ちなみに、橋本氏が中国課長だった当時の首席事務官の一人は、加藤紘一氏である。アメリカと中国を秤にかけるような彼の政治家としての発言の数々は、チャイナ・スクールの伝統に端を発しているのである。
 
歴代アジア局中国課長(昭和40年以降)
就任年月日 氏名
昭和38.4.20 原富士男
同41.7.11 石橋太郎
同43.1.12 橋本恕
同48.3.3 国広道彦
同49.8.15 藤田公郎
同51.12.24〜53.12.15 田島高志
同53.12.19〜55.7.17 谷野作太郎
同55.7.25 池田維
同57.7.1 畠中篤
同58.7.1 浅井基文
同60.8.5 槇田邦彦
同61.8.1 阿南惟茂
平成2.2.1 宮本雄二
同3.8.26 樽井澄夫
同5.8.1 野本佳夫
同7.7.1 佐藤重和
同10.9.14 佐渡島志郎
同12.8.1 横井裕
同14.4.1 堀之内秀久
(平成13年1月6日アジア局はアジア大洋州局となる)
 
 橋本氏の二代前にアジア局長から駐中国大使になった中江要介氏も、歴史認識の問題で中国の言い分が正しいという主張をしばしば展開していた。昭和六十年就任の中国課長・槇田邦彦氏は李登輝・前台湾総統の訪日に絶対反対を表明した人物である。その前の中国課長が浅井基文氏(昭和五十八年就任)で、彼は日本共産党系のメディアで「日米安保は要らない」といった論調をしばしば発表している。昭和五十二年香港総領事に就任し、のちに内閣調査室次長になった野田英二郎氏は当時の文部省の教科書選定役員となり、日本の教科書より中国の教科書の記述が正しいと主張した。
 日本外務省のなかで比較的バランスのとれた中国課長は藤田公郎氏(昭和四十九年)、田島高志氏(昭和五十一年)、池田維氏(昭和五十五年)といった人々で、中国語を研修した狭義の戦後チャイナ・スクール第一号は藤田公郎氏である。彼はJICA(国際協力事業団)総裁を務めたのち、南太平洋でボランティア活動を行なって注目された。
 藤田氏のように当然駐中国大使になるべき人物が、チャイナ・スクールの路線から離れてゆき、北京に忠誠を尽くす人間が出世するという人事が慣例になってしまった。香港総領事のなかでも外務省随一の中国通で、きわめて個性的だった岡田晃氏や欧米的センスも身につけた須磨未千秋氏、温厚な原冨士男氏らは橋本氏らと異なるスタンスを取ったがゆえに、橋本氏ら親中派から疎んじられた。この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における最大の過ちだったといえよう。橋本氏らがそこまで勢力を伸ばしたのには、その体質的な反ソ主義ゆえに従来の親中華民国路線から親中路線に急旋回した外務省のドン・法眼晋作氏(故人)が中ソ対立下の田中−大平時代の事務次官として君臨したことも大きな背景にあった。
 チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪をもたらしたのみならず、政治家たちの「日中癒着」の構造をつくりあげた原因でもある。彼らのバックアップによって、田中、大平、竹下、橋本といった親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきた。いまや利権の温床であることが明白な対中ODAも、中江要介−橋本恕−国広道彦といった親中派の駐中国大使を頂点としたチャイナ・スクールの力によるところが大きい。今回の事件で数々の問題が明らかになった阿南惟茂大使に見られるように、彼らには日本の国益や人権よりも、いかに北京にリップサービスを行なうかが最優先事項だったのである。
 こうした構図を見ると、やはり今回の事件をめぐる日本外交の不手際は起こるべくして起こったといってよい。今年は日中国交正常化三〇周年に当たるけれど、その内実はもはや空しい。中国側に明らかに主権を侵害されたまま、いったいわが国は「日中友好」三〇年をどのように祝賀するというのだろうか。
外務省に代わる新しい外交官庁を
 最後に、日本社会の問題として、亡命者や難民に冷淡な姿勢が問われなければならない。アメリカでは、約二二万人もの政治亡命者を受け入れている。これに対して、日本はわずか二二人。アメリカは解体したソ連や天安門事件による中国からも亡命者を多く受け入れてきた。これほど豊かで自由があり余る日本が、国際法に基づいて亡命者や難民を扱う体制をもたないのは恥ずべきことだ。
 日本は世界人権宣言の精神に基づくウィーン条約に加盟しているにもかかわらず、法務大臣がケースバイケースで入国を認めるという消極的な対応にすぎず、亡命者のための法律すら整備されていない。『六法全書』には「政治亡命」という言葉が存在しないのである。
 政治的庇護を受けざるをえないような人々に対し、自由民主主義国として手を差しのべ人権を保護することこそ、日本の世界に対する貢献となる。国際貢献とは、なにもODAによる資金援助や自衛隊の派遣のみを指すのではない。
 人権は国際社会におけるパブリックな権利であり公共財である。著名な国際政治学者スタンレー・ホフマンの言葉に“Duties beyond borders”(国境を超える義務)という一句がある。日本はG7の先進国、アジアのリーダーとして応分の義務を負うべき責任を果たさなければならない。外務省が亡命者を厄介者扱いし、NGOが政府の間隙を縫って亡命者を助けているようでは、日本の地位はおぼつかない。あくまでも政府の責任で、不法難民との峻別を図りながら亡命者の庇護を行なうよう法律を整備すべきである。
 いまから二〇年近く前、故・高坂正堯氏が「ポリティカル・アサイラム(政治亡命)」に関する論文を京都大学の『法学論叢』(紀要)に発表し、私は彼とこの問題について話し合ったことがある。高坂氏の慧眼は当時から亡命の問題を論じたことにあるが、肝心の政府関係者は、そうした議論に無関心だった。そして二〇〇二年に至り、瀋陽の事件が起こり、ようやく日本人の多くがこの問題に気づきはじめたのは、いかにも時間の空費であろう。わが国の体制側が国際社会への責任を果たすべく、この問題に対して積極的に呼びかけていく必要がある。そのときはじめて、これまでのチャイナ・スクール的「日中友好」が終わりを告げ、汚辱にまみれた従来の外務省に代わる新しい外交官庁が誕生するためにも、それは避けて通れない道だろう。
 一般に、日本と中国を比較する場合、「名」の文化と「恥」の文化という座標軸が意味をもつ場合がある。しかし、いまや日本の外交には「名」もなければ「恥」もなくなってしまったのではないか。今回の事件の教訓として、日本は「中国の呪縛」から早急に解き放たれなければならない。
中嶋嶺雄(なかじま みねお)
1936年生まれ。
東京大学大学院修了。
東京外国語大学助教授、教授、同大学学長を歴任。現在、国際教養大学学長。
 
 
 
 
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