日本財団 図書館


1999年9月号 アジア時報
アジア研究委員会 報告 討論 中国建国五十年の総括とその将来を読む
中嶋 嶺雄(なかじま みねお)
(東京外国語大学学長)
天安門事件を過去の事件としている限り指導者は挑戦を受ける
中嶋嶺雄氏(東京外国語大学学長) 今日は、アジア調査会としても、「建国五十周年の中国を総括的に振り返って討論してみたい」ということであります。
 今年は「天安門事件十年」でもございます。今の中国にとって内政上の一番の問題は、天安門事件が生み出した政治的、社会的矛盾を、ほとんど何も解決することなく、この十年間を過ごしてしまったことの結果です。形の上では今回、無事平穏に天安門事件十周年が過ぎましたが、これにはかなり力のコントロールが必要であった。
 ご案内のように、天安門事件は中国で初めて近代的な政治意識に目覚めた市民なり知識人が、皇帝型権力構造というか、「人治」に対して「法治」というスローガンを掲げて異議を申し立てた運動でした。それを、あのような形で人民解放軍、つまり、人民の軍隊が人民に銃を向けたという深刻な事態であり、しかもその背景には、趙紫陽のような党権力のトップの座にあった人物が関与していた重大事件であったわけです。
 この天安門事件については、犠牲者への謝罪や補償を求める動きや、真相解明を願う遺族や活動家の声もあるわけですが、それには全く応えなかったばかりか、天安門事件を「反革命暴乱」として徹底的に弾圧したことを、すでに「歴史的な結論である」という形で、完全に過去の事件として天安門事件を扱おうとする姿勢が非常にはっきりしているわけです。
 しかし、一方では人権にせよ、広い意味の民主主義にせよ、永遠の課題でもあるわけで、問題が今回で終わったという形になるわけにはいかない。今のような結論を出している限り、指導者はこの問題に常に挑戦を受けるだろうと思います。
 そうした状況の中で、若干気になるのは、最近の中国社会が、こうした一元的、集中的な指導体制を強化しているにもかかわらず、いろいろな意味で中国社会はますます分裂してきていることです。新しい一種の社会階層も生まれてきていますし、それは改革・開放の当然の流れでもあり、あるいはコンピューター化が進むことによって、ものすごく意識の変化も潜在的に起こっています。そういう中で「新しい階層分化」と言ってもいいかもしれませんが、天安門事件の判決を正当化するのとは違った方向が社会の内部に動いている。そういう隙間を縫って、最近は一種の新興宗教的な色彩を持つと見られる気功集団「法輪功」(編集部注=中国当局は7月22日、非合法化した)の示威運動など、われわれの予想もできなかったような新しい社会現象がかなりのスピードで広がっている。
 表面的な改革・開放体制の前進にもかかわらず、中国社会内部が一種の「拝金主義」というのでしょうか、道徳的な頽廃の中で動いていることとともに、中国の王朝末期にいつも起こっていたような現象を物語っているようにも見られます。
 ですから、こういう不安な動きがどういうふうになるかということも見ていかなければいけない。そうであるだけに、この五月初旬のNATO軍によるユーゴの中国大使館誤爆事件は、まさに中国の指導者にとっては格好の出来事であったわけです。
 最近の中国で一つの流行語に「振興中華」があります。「愛国主義」というナショナリズムの表れなのですが、これを鼓吹する上で誤爆事件は絶好の機会となりました。同じ十年前の北京のデモと違った、明らかに当局によって鼓吹された反米デモ。この反米デモ自身は、青年達の顔がいかにも虚ろであったと思うのですが、中国はああいう形で上から下まで反米運動を組織するのだということになると、なかなか手に負えないという感じをアメリカに対してはっきり植えつけてしまったわけです。そういうマイナス効果をきちんと計算できないような今の中国の体制が問題ではないか。
この五十年間はつまずきの連続
 そこで、今日は「建国五十周年」ということですので、大雑把に五十年間を振り返ってみたいと思います。
 「穏歩と急進の政治的サイクル」と言ってもいいと思いますが、中国政治を分析すると、きれいなサイクルの線を描いています。
 七八年十二月からは「ノーリターン」、つまり、中国内政が一種の循環を繰り返すことが中国の出方の決定要因になるということはこの時期以降なくなってきたということです。
 ただし、中国の対外関係を見る場合に、内政が決定要因であるということは依然として今でも変わっていないのではないか。
 それはなぜかと言うと、中国の意思決定、政策のメカニズムは、官僚モデルでゆけるとか、あるいは民主主義的な体制の枠内で行われるといった土台の変化がないからではないかと思います。
 最近の雰囲気からすると、ある種の保守派の復権、李鵬のことが取り沙汰されたりしています。江沢民に対する支持がどこまであるのかを分析してみると、第三世代のリーダーとして江沢民を毛沢東や小平と並んで讃えるスローガンが出てきたり、出なくなったり、明らかにそういう方向を出そうとしている雰囲気がある半面、それに対するかなり広範な抵抗があって、最近の中国の対外政策が必ずしもうまくいっていないことに対する批判や抵抗もそこにあるらしいということも見え隠れしています。
 それは同時に、李鵬と江沢民というような構造だけではなくて、改革・開放を推進する側においても、朱鎔基と江沢民との間にかなりいろいろ溝があるように思われます。もっと言えば、台湾問題の第一線に形の上では中国側で立っている汪道涵が必ずしも江沢民体制とは同じスタンスではないという問題も依然としてあるような気がします。
 
ポイント
一、建国50周年は天安門事件10年でもある。同事件を完全に過去の事件として扱っているが、人権・民主主義の問題は永遠の課題なので、こういう姿勢を取っている限り、指導者は挑戦を受け続ける。
一、連合的な民族民主革命へのプログラムが朝鮮戦争で達成できなかったこともあり、急激な集団主義へ転換してしまうなど、この50年間はつまずきの連続である。
一、劉少奇、小平が経済調整政策をとり、経済は復調する。これに対する毛沢東の欲求不満が文化大革命悲劇の10年間を引き起こす。
一、脱文革の中で周恩来の果たした役割は大きいと思われているが、彼の脱文革は時流への迎合ではないか、との疑問がある。
一、南巡講和のころから小平と江沢民との間に違和が生まれたようだ。小平がずっと健在だったなら香港返還をあんなに急がず、今のようにガタガタにすることはなかった。
一、台湾や香港などが自主・自律性を確立することを大いに脅威としている。
一、米国の対中関与政策は甘い、とパッテン元香港総督が言っているが、賛成だ。
一、密航せざるを得ないのが中国社会の現実だが、密航者の出ない中国であってほしい。
一、天安門事件のような民主化を求める動きが発生するのは、そう遠い将来ではない。
連合政府的な民族民主革命への道が朝鮮戦争で進まず
 今日はちょうど朝鮮戦争勃発の日(六月二十五日=一九五〇年)です。中国は四九年十月一日の建国。当初はいろいろなプログラムがあったわけです。過渡期のプログラムは、毛沢東が四五年の『連合政府論』以来ずっと構想してきたのですが、そういうものが幸か不幸か朝鮮戦争が起こったことによって、ある種の政治的凝集力というか、緊迫感というか、抗米援朝のものすごい運動が起こりますから、そういう状況の中で当初のプログラムが変更を余儀なくされる。
 しかし、時々日本で間違えられるのは、この過渡期というのは、本来毛沢東の革命の理論、あるいは中国共産党が言ってきたことを忠実にたどれば、約十五年間、三つの五ヵ年計画をやる中で、漸進的に(穏歩前進というのはまさにそうですが)社会主義改造を行うというものでした。ところが、朝鮮戦争が起こったことによって、実際には朝鮮戦争の終結(五三年の七月)までは一種の臨戦体制で、思ったようにプログラムが進まない。
 ところが、過渡期をようやく進めて憲法もつくろうとした五四年ぐらいが、中国にとって一番安定していた時期だと思うのです。ちょうど「平和五原則」外交が行われた時期。バンドン会議は五五年ですが、平和五原則は五四年です。
 そういうふうにようやく連合政府的な民族民主革命が成就しようとしていた矢先に、中国の内部で急激な農業集団化への転換が起こった。これを私は五五年の後半に位置づけているわけです。
 
中国政治のサイクルと時期区分
第1期(改造期) 前期49年10月−53年7月
後期53年7月−55年7月
「穏歩」(専)
第2期(盲進期) 前期55年7月−57年6月
後期57年6月−59年9月
「急進」(紅)
第3期(調整期) 59年9月−65年11月 「穏歩」(専)
第4期(文革期) 65年11月−71年9月 「急進」(紅)
第5期(脱文革期) 71年9月−75年1月 「穏歩」(専)⇔「急進」(紅)
第6期(転換期) 75年1月−78年12月 転換
第7期(No Return) 78年12月−現在 No Return
中嶋嶺雄著「中国」(中公新書)から。(専)は専門的技術や学問修得のこと。(紅)は「毛沢東思想」のこと。
●中国建国50年の歩み
1949 10  中華人民共和国成立
58 5  大躍進運動始まる。その後、3年連続の自然災害発生
66 5  文化大革命始まる
71 10  中国、国連復帰決定
72 2  ニクソン米大統領訪中
    9  日中国交回復、日中共同声明発表
76 9  毛沢東死去
  10  四人組逮捕、文革終わる
78 8  日中平和友好条約締結
    12  小平が指導権回復。改革・開放政策始まる
79 1  米中国交樹立
       一人っ子政策始まる
80 9  農村の家庭生産請負制度を認める
82 12  人民公社の解体決定
89 6  天安門事件。江沢民氏、党総書記に
92 1〜2  小平が南巡講話、改革・開放の加速を呼びかける
    10  天皇訪中
93 3  国営企業を国有企業に改称
96 3  台湾海峡で軍事演習。台湾初の総統直接選挙で李登輝氏当選
97 7  香港返還
98 3  朱鎔基氏が首相に就任、3大改革(国有企業、金融、機構改革)への取り組みを決定
99 10  中国建国50周年
    12  マカオ返還
急激に集団化へ転換、最初のつまずき
 一九四五年の毛沢東の『連合政府論』があり、四九年には『人民民主主義独裁について』という社会主義改造のプログラムがあるわけですが、五五年七月に『農業協同化の問題について』の毛沢東報告があり、これが急激な集団化を呼びかけたことによって「過渡期の総路線」として構想されていたプログラムを全部投げ捨ててしまうのです。ここに一つの最初につまずきがあったような気がします。
 というのは、建国五十周年の中国を省みた時に、今の中国は経済的には確かに急速に発展していると思いますが、一人当たりのGNPをとりますと、ようやく七百米ドルぐらいと考えていいわけで、台湾はもう一万五千ドルぐらいです。つまり、同じ中国社会でも台湾と比べると、どうしてこんなに違ってしまったのか。同じほとんどゼロから戦後出発した日本だってそうです。そう考えると、「この五十年間はつまずきの連続だった」と言わざるを得ない。もうちょっと違う政治のあり方があれば、違った選択をとっていただろうと思えるわけです。もちろん中国は潜在的に大国ですし、人口が多く後進的であったという無理はあるけれども、儒教文化圏としての長い歴史的、文化的背景を持つ国が、そのスタート以来半世紀に達成したものはあまりにも到達度が低いと見ざるを得ないのです。
反右派闘争が次のつまずき
 こうして、今度は農業集団化が急速に行われます。次のつまずきというか、大きな転換は、「反右派対闘争」でした。農業集団化が急速に行われるのですが、一九五六年にソ連のスターリン批判が起こって体制の危機を感ずる中国共産党は反右派闘争の前に、例の「百家争鳴運動」をやる。これをやったところが、党への信頼がいかに希薄であったかということが明らかになる。
毛沢東は政策の失敗で第一線を退く
 そこからの転換が、一九五七年の六月八日『人民日報』が「これはどうしたことか」という社説を出したあたりから急速に、そして「労働者階級は黙ってない」とか、「プロレタリア独裁を忘れるな」とかいう方向にまた行くわけです。これが恐らく毛沢東モデルができていく決定的な大きな転換になっていきます。
 ですから、そのあとはずっと反右派闘争に行き、人民公社、大躍進政策となる。そして、五九年には人民公社、大躍進政策の蹉跌が明らかになって、それを批判した彰徳懐が失脚する代わりに毛沢東も第一線を退く。
毛沢東の欲求不満で文化大革命十年間の悲劇
 そこで前面に出てきたのが劉少奇であり、小平で、彼らが経済調整政策をやる。そして、中国の経済は急速に回復基調に入っていくのですが、そういう事実に対する毛沢東の欲求不満やフラストレーションと敵意が党内の熾烈な権力闘争に大衆を、いや全中国を巻き込んだ文化大革命を発動させるわけです。これについては言うまでもありません。文化大革命十年間の悲劇。
 私が最初に中国を訪れたのは、一九六六年十一月、まさに文革の渦中に飛び込んでいったわけですが、大変な毛沢東崇拝の熱狂と紅衛兵達。江頭数馬さん(元日大教授)は、当時、毎日新聞の北京特派員でしたが、江頭さんが毎日新聞では文革に対して一番批判的で、追放されました。産経新聞の柴田穂氏もそうでした、北京で柴田氏にお会いした時、「僕は明日万里の長城に行ってくる」と言う。「長城の壁は語らないけれども、歴史をずっと見ているよ」と柴田さんが言ったのは今でも忘れられません。
 私が文革について批判的になったのは、じかに接した中国での文革体験でした。のちに李登輝さんと知り合いになったきっかけにもなったのですが、その李登輝さんが読んでくれた私の論文は、『中央公論』の一九六七年三月号に発表した「毛沢東北京脱出の真相」という長い論文です。私は当時『読売新聞』の特別機動特派員になっていたのです。文革中には中国へ各新聞社は特派員一人しか行かれなかったのです。
 ところが、孫文生誕百周年記念代表団に申し込んだら、朝日の吉田実さんとか、毎日の宇佐美滋さんとかも行くという。ところが、私だけは当時東大の大学院から東京外国語大学助手に呼ばれて国家公務員だった。国家公務員は共産圏に渡航してはいけないとされていた。中国でこんなに激動が起こっているし、僕は中国研究者ですし、是非行きたいのに、文部省、つまり人事院が国家公務員は共産圏へ行ってはいけないと言うので、私だけ行かれないでいました。団長は読売新聞の高木健夫さんで、私は人事院の総裁に別のルートからお願いして、ようやく訪中できることになり、私だけ単身で後から出発した。
 まず香港へ行って、翌日深から中国に入った。列車に乗ると車掌も駅員も、毛沢東語録を大声で読んでいて、すごい熱狂なんです。
 そして、北京の人民大会堂へ遅れて行って、十一月十二日の孫文生誕百周年記念の式典に出ました。日本代表団は孫文と非常にゆかりがあるというんで、一番前方のよい席なんですね。周恩来首相なんかと写真も一緒に撮ったりして厚遇を得ました。
周恩来が毛語録を振って「毛沢東主席バンザイ」
 生誕百周年記念の私への招待者は劉少奇国家主席です。そして、いよいよ会が始まるというのに、その劉少奇が出てこない。小平は、当時総書記だった。小平も出てこないのですよ。中国共産党の肝心な人物が出てこない。そうしたら、その二人だけが遅れて、右側の壇から登壇したのです。要人が会場に入るとカメラマンがフラッシュを浴びせるし、みんなすごい拍手をするのに、誰も拍手しないし、フラッシュもたかない。「あっ、これが文革だ」と僕はすぐに直感しました。
 しかも、その時に、周恩来ともあろう人が、毛沢東語録を振って、「いかなる偉大な革命家でも晩節を汚せば、生涯を全うしない。晩年に毛沢東にそむくようなやからには末路はない」とやったんです。そして、ノドを枯らして、「毛沢東主席万歳、万々歳」と最後にはガラガラ声になって毛沢東語録を振った。
 その場面を、私はすぐ近くで見ていました。写真も撮って、それは当時の『アサヒグラフ』にも掲載されたりしたのですが、劉少奇は顔面蒼白。人民大会堂のひな壇は禁煙なのに、煙草を立て続けに吸い始めましてね。吸殻をどうするかと思ったら、中国のお茶の茶碗のフタに入れていました。それが劉少奇が公衆の面前に姿を見せた最後でしたね。小平はものすごい顔をして周恩来をにらみつけていました。その場面も今でも忘れられない。
周恩来は劉少奇や小平を裏切った
 そうすると、周恩来と小平というのは同じ方向で来たというんだけれども、あの時は明らかに周恩来も、劉少奇や小平を裏切ってというか、見捨てて毛沢東に賭けた。これが私の文革についての第一の印象です。
 それから、その後上海に来て、武闘の壁新聞の写真を撮っていたら紅衛兵に追い回されて、あちこち逃げている間に路上に落ちていた「小字報」を私が拾ったんです。半分千切れているんだけれども、今も大切に保存してあります。そこに「劉少奇は第一の実権派で、小平は第二の実権派」と書いてある。当時、まだ日本では劉、が打倒目的だということは報道されていなかったものですから、私はそのことも書いた。
 それは六六年の十一月です。紅衛兵がいっぱい、ワーッと街に出てきて世界を驚かせたのは六六年の八月でした。
 それから、遅れて行った分だけ中国に残り、一人で旅行をさせてもらって、香港に出てきて、四十日ぐらい香港にいたのです。
毛沢東は孤立して北京を脱出
 その時に、僕はある情報を香港で入手しました。それは「毛沢東が北京を脱出したらしい」というのです。そして、「上海で巻き返しをはかる」という。羅瑞卿(当時総参謀長、副総理)が拘束されたころです。
 香港というのは当時非常に大陸とつながっているいろいろな組織があって、大陸から逃げてきた人達を保護する組織があったのです。今だったら民主化運動を助けるアングラ組織みたいな、べ平連の人達がやったイントレピットみたいな、それに近い(性格は違いますが)かなりの人が香港にいて、ある時そういう情報を聞いた。これを僕が大陸で見てきた現実と合わせると大変なことじゃないかと思いました。
 その情報源の人に会って再確認し、裏をとるためにいろいろ文件や記録をたどって検討したら、「これは状況を毛沢東が制覇しているのではなくて、逆に毛沢東は北京で孤立しているのではないか」ということに気づき、読売新聞から特別機動特派員としての渡航費を出してもらったものだから、当時、読売が連載していた「これが中国だ!」に書かなければいけない義務が当然あります。
 その「毛沢東北京脱出」という長文の記事、輪転機の回る直前のゲラを今でも家に保存してあります。そうしたら編集局長か、局次長かからストップがかかった。「あまりにも衝撃的なニュースだから、これは発表するな」という圧力がかかって、水で薄めたような要約的な記事しか出せなかった。それで結局『中央公論』の粕谷一希さんに話したら、「中公に思い切り書いてくれ」と言う。それがあの中公論文なんです。
 そういう経緯がありました。若干手前味噌で手柄話みたいに聞こえたら恐縮ですけれども、そういう生々しいところを私は見てきました。
 だけれども、当時はだいぶ辛い思いもしましたね。中国を批判するとですね。
 『朝日ジャーナル』で六八年の九月「人間復権の巨大な試み」と題する「中国はコミューン国家だ」なんていう座談会に僕は出ていたんです。「とんでもない」という僕の意見はみんな削られてね。多少は出ましたけれども・・・。当時の日本のマスコミやジャーナリズムもすごい雰囲気だったですね。お蔭様で永井陽之助先生にも評価していただいて、私の文革評論を集めた『北京烈烈』(上下、筑摩書房、一九八一年)ではサントリー学芸賞をのちにいただきました。
 しかし、当時はやっぱり辛いことが多かったですね。
 ただ、救いは、廖承志さん(中日友好協会会長)が亡くなる直前に、ある日本人(しかも皮肉にも朝日新聞の記者だったのですが)を通じて、廖承志さんが文革中「中嶋先生の論文や記事を読んで、自分は慰められていたから、中嶋先生によろしく」ということを伝えてくれた。
 彼はその直後に亡くなった。廖承志氏は日中友好のシンボルですけれども、彼は文革の時に批判されていた。だけれども、彼は反論できない立場だった。しかも、李登輝さんと同じで日本語がすごくよく読める。李登輝さんもその時に僕の中公論文を読んで、今から十数年前に東京へ副総統で来た時に、僕に是非会いたいというので、お会いしたら、「中央公論の『毛沢東北京脱出の真相』以来、私は中嶋先生のファンです」と冒頭から言っていただいた思い出があります。
周恩来の脱文革は時流への迎合?
 脱文革の中で周恩来や廖承志が果たした役割、特に周恩来が果たした役割は大きいと思う。だが、周恩来という人は、現代化とか、改革・開放の方に行くことを本当に責任を持ってやっていたのかと言うと、結果的に政治の流れに身を任せた人であって、ある面では時流に迎合したのではないかというのが、周恩来に対する僕の疑問です。
 だけれども、一般には周恩来というのは立派な人で、中国のためにうまくやったという評価が多いのですが、その辺と林彪事件との関連がもう一つあります。
林彪がモンゴルで死んだということには疑問がある
 林彪事件というのは、毛沢東に反逆した林彪の末路というが、結局あれは周恩来、つまり、行政官僚と軍官僚の対立で林彪が追い詰められてああいう結果になったのではないか。僕は依然として林彪がモンゴルで死んだということに疑問を持つと同じように、やっぱりその辺の何かが隠されていると思うのです。
 そういうドラマがあり、「北京政変」があって、今度は華国鋒が出てくる。華国鋒が出てくる時には非常にドラマチックです。ご承知のように、九月九日、重陽節。毛沢東の死んだのはまさに菊の節句。九が二つ重なるのは中国はおめでたい。その日に毛沢東が亡くなるのですが、唐山の大地震があったりして、いろいろ不安な雰囲気の中で毛沢東が亡くなる。
 私はそのころは『人民日報』を毎日のように読んでいて「これはおかしいな」と気がついたのです。「規定方針通りやれ」というスローガンと「あなたがやれば私は安心だ」というスローガンがあったのですけれども、毛沢東が亡くなると、すぐ「規定方針通りやれ」というスローガンがずっと毛沢東語録として出るのです。
 中国の場合はインターネットで検索して記事を見ていくというわけにいかないのは、どういう事件にどういう活字が使われ、どういう紙面になっているかということが非常に大事です。
 九月九日に毛沢東が亡くなって 北京政変は十月の七日、つまり喪が明ける前の日でした。その十月の三日か、四日まで毎日出ていた「規定方針通りやれ」というスローガンが、今度は「あなたがやれば私は安心だ」に変わってくるのです、「あなたがやれば私は安心だ」というのは華国鋒、「規定方針通りやれ」というのが江青グループの勢力だったのです。
 それで「こんな時に急にスローガンが変わった。これはおかしいな」と思っていたら北京政変が起こったのです。
 あれはまさに一種の宮廷クーデターだけれども、文革派の中の毛沢東側近、華国鋒みたいな昔からの秘書とか、鞄持ち、特に公安をやってきたグループと、江青夫人のそれこそお色気の及ぶ範囲で集めていた四人組及びその周辺のグループとの宮廷革命だったわけです。毛沢東の枢をそっちのけにして・・・それが起こります。
 当時は大平政権で、華国鋒が大平さんの葬儀も含めて二回も来日しました。私は武道館でたまたま華国鋒のすぐ後ろにいて大平さんの葬儀に出たのですが、「この人は国へ帰れば失脚するだろうな」と思っていたのです。そうしたら、その通りになって華国鋒は消えていきます。
 だけれども、当時は、「華国鋒こそ毛沢東の後継者だ」と日本でも盛んに言われました。それが消えていって、さっきの「ポイント・オブ・ノーリターン」になる。七八年十二月の三中全会から、いわゆる小平の路線になる。
「南巡講話」の頃から小平と江沢民間に、違和が・・・
 小平は九七年二月に亡くなりますが、小平は九五年ぐらいから「生きているだけの存在」になっていました。
 彼が最後に力を出したのは九二年の「南巡講話」のところだったと思うのです。深や珠海の経済特区に行って、抵抗があった保守派に対して改革・開放路線を再び鼓吹する。
 だけれども、この辺から小平と江沢民とのいろいろな違和があったように思っているのです。僕は、天安門事件さえなければ小平にものすごく高い評価を与えるのですが、この間に天安門事件がありまして、あのような形で民主化を弾圧した。したがって、私の立場からすれば小平を評価するわけにはいかないのです。同時に趙紫陽は政治的には敗北したけれども、立派だったと思うし、胡耀邦も立派だったと思うのです。
 だが、小平がずっと健在であったとしたら、香港の返還前後の対応が違っていたのではないかという気がするのです。江沢民は香港の中国化を急ぎ過ぎたために、たまたまそれがアジア通貨危機とぶつかって香港がガタガタしていった。
 そういうことを考えると、今年は十月一日が建国記念日で、十二月二十七日がマカオの最終的な返還になる。一応建国五十周年が終わるのだけれども、どうもやっぱり最後的には、その辺が自己完結だとしても問題を残しますね。香港があんなにダメになったし、マカオも今は人民解放軍が入ってきて、事前にマカオを制圧しようとしているのだけれども、一方ではそれどころかマカオの治安が非常に悪くなってどうしようもないような状況になっています。
非二十世紀的な中国が周辺諸国に一世紀遅れたまま問題を抱える
 だから、そうなると、やっぱりこの五十年間の人民中国、革命中国への総括としては、かなり厳しい点をつけざるを得ないと私は思います。
 もちろん、どこを物差しとするかによって今の中国についての評価はいろいろあり得ると思うのです。しかし、二十世紀のほぼ後半を新しい革命国家として過ごしてきたにしては、あまりにも二十世紀的でない五十年間だったと思うのです。
 権力闘争といい、天安門事件といい、文化大革命といい、非二十世紀的な中国が、周辺諸国に比べてまた一世紀ぐらい遅れたいろいろな問題を抱えているのではないか。今後改革・開放をいくら進めても、日本や台湾には到底キャッチアップできないのではないかと思いますね。
海峡会談があっても、両岸関係は前進しない
 さて、そこで、その中国と台湾の関係です。
 ご案内のように今年は秋ごろに汪道涵代表が台北に行くことになりそうです。汪道涵は上海市長もやりました。台湾側の辜振甫さんについても私はよく知っていますが、汪道涵は、ある意味では今の中国の持っている対外関係の人材としては非常にいい。ただ、年齢はかなり高い。台湾側も「汪道涵さんだから」という気持ちはあるのですね。一方、辜振甫さんも年齢が高いのです。辜振甫さんが台湾の海峡基金会の代表、汪道涵は海峡協会の会長です。
 辜振甫さんは今の台湾の鹿港を拠点として成長した台湾の大財閥です。奥さんは大陸出身です。厳復の孫。ハーバード大の碩学ベンジャミン・シュワールツが『中国における富と権力』で書いている厳復の孫が台湾の辜振甫さんの奥さんです。もうかなりの年齢で、最近はちょっとお体は悪かったのですが、今はお元気です。
 ただ、辜振甫さんは、大陸に一度も行ったことがなかったのです。「やっぱり一度は大陸へ行ってみたい」という気持ちはありますね。政治的な状況はもちろんあるけれども、それ以上に、そのことが一つの動機としてあることも否めない。
 それから、汪道涵さんも顔色がよくない。最近はお元気ですけれども、もうかなり高齢ということもあって、そういう要因が意外に両岸海峡会談を辛うじて結びつけていると思うのですよ。
 だから、海峡会談が行われるからと言って、今の両岸関係が何か前進するということはほとんどあり得ないと思いますね。特に台湾は内政がこれから総統選挙もあるし、いろいろな問題も残っています。今の中国側の立場からして、譲歩して台湾の主張を取り入れることは全くないと思うのです。一種のセレモニーとして「両方に面子が立てばいいな」というぐらいのことだろうと思うのです。
李登輝総統の著書に中国は「分裂主義者」と大騒ぎ
 李登輝総統が今度『台湾の主張』という本を書かれました。PHP研究所が台北に行って李登輝さんの別荘で集中的に録音をして、それを起こして作ったのです。それが日本語版です。是非お読みいただきたい。
 たまたま私は発売される前に署名入りで総統からいただきました。台湾で同時出版されたこの中文版が非常に面白いのです。これは総統が自分で全部手を加えまして、特にいろいろな神話が独り歩きして困ると言って、自分で年表を全部正確にしました。『李登輝伝』と書いてある本がいろいろがあるのですが、私がいつも李登輝さんに、「全然違うよ」と言われるところがたくさんあるのです。
 例えば李登輝さんは「バイオリンが弾ける」という“神話”。若いころちょっとバイオリンをやったことはあるけれども、実際には弾けない。音楽はものすごく好きですし、奥さんも大変なクラシックファンですが。
 それから、「京都大学卒業」というのも、李登輝さんは徴兵されて京都大学は卒業していないのです。だから、同窓会名簿にもない。昭和十九年に、京都帝大の農学部の「農林経済学科」に在籍したのです。これもよく間違えて「農業経済」というけれども、東大には農業経済学科はあるけれども、京大は「農林」です。そういうこともご自身で随分手を加えています。実際には最後は習志野の高射砲隊で岩里政男という名前の青年兵士としてB29を一生懸命撃っていたのが李登輝さんの当時の姿です。ご承知のようにお兄さんは日本兵として死んでいる。李登輝さんは昭和十八年台北高校を卒業して京都大学に入る。翌年の昭和十九年には徴兵されて終戦を迎えたのち、昭和二十一年に台湾へ帰って台湾大学の農業経済学科へ入ったので、京都大学を卒業しているわけではない。
 若干内輪の話で恐縮ですが、私達夫婦と李登輝ご夫妻との写真もこの中文版に出しているのです。この間、世界新聞大会の会議で招かれて台北へ行きましたら、私のところにいっぱいジャーナリストが来るわけです。
 どういうことかと言ったら、李登輝さんのその本の中に「中国が七つに分かれた方がいい」という説、つまり「七塊論」があるという。それは確かにそう言っているのだけれども、それを「聯合報」という台湾の中の外省人のメディア(台湾のメディアにはまだ外省人の影響が強い)が盛んに取り上げて論じているのです。
 ところが、李登輝さんは、三百三十三ページの本の中に僅か三行、しかも第七章の「台湾、アメリカ、日本がアジアにできる貢献」の中に、こう書いているんです。「最も理想的な状況は・・・中国大陸が大中華主義の束縛から離脱して文化や発展の程度によって、それぞれ異なった地方が自主的な十分な自主権を持ち、例えば、台湾、チベット、新疆、モンゴル、東北など、大体七つの地域に分かれて、それぞれが相互に競争して進歩を求めたら、アジアはもっと安定するのではないか」――そういうことなんですね、非常に一般論として常識的に語っているに過ぎないのです。
 「香港は香港でいいじゃないですか。台湾はもうここまで発展しているのだから台湾でいいじゃないですか」というようなことを、総統はこの本の中国についての章ではなくて、他のところでちょっと触れたに過ぎないけれども、すぐ中国側が取り上げて「李登輝は分裂主義者だ」と大騒ぎなんです。
 その余波が、ここにあるように「李登輝の七区域論は中嶋嶺雄の観点に追随」なんて書いてある。「聯合報」に、大陸学者がこんなに大きく書いた。
 こういうことを勝手に言われて困るんですが、やや理由なきにしもあらずなのは、私が、かつて『VOICE』一九九二年一月号に書いた「“中華連邦共和国”私論」という論文なのです。この論文は、外交問題になって、しかも単なる外交部と日本政府の折衝では済まなくて、中国の国家公安トップに行き、「中嶋論文はけしからん」――小平が読んだのだということが後で分かったのです。
 しかしその内容は、皆さんが一般に言うようなことですよ。そのことをとらえて、いろいろ「聯合報」などが言っているわけです。
 ですから、私は「自由時報」というどっちかと言うと台湾ネイティブの立場の新聞に書いたのが、この『台湾の主張の意味するところ』という論文です。
台湾、香港などのアイデンティティが強まることにはナーバス
 これらだけではなくて、いっぱい記事が台湾で出ていて大騒ぎ。ということは、台湾のアイデンティティが強まる、あるいは香港のアイデンティティが強まることがいかに中国にとって脅威かということの反証なんですね。
 あそこは広東語の世界だから、広東人がもうちょっと香港とか、広東省が一緒になって自主権というか、自律的になったらいいじゃないかと思うのですが、そういう動きに対してものすごくナーバスである。
 だから、今度GITIC(広東省の国際信託投資公司)がデフォルトした時も、中央政府は全く面倒を見なかったわけです。私の聞いているところでは日本の銀行は六〜七億米ドルをトータルで損をしているという。米ドルで六〜七億ドルといったら大変なものです。そのことが日本の銀行の対中国信用をいかに損なうかも考えずにやったということは、やっぱり広東省つぶしと言ってもいいかもしれない。それほど広東省が自立的になることを嫌っているわけです。
 香港はすごく発展していたのだから、あのまま何にもしなければよかった。それが本来は小平さんの約束だったと思います。小平さんは「香港は五十年間現状維持で何もしない」と言ったのに、あすこまでいろいろ介入するところに大きな誤りがあったのではないかと思います。
米国の対中関与政策は甘い、とパッテン元香港総督
 次の問題ですが、香港の元総督のパッテンさんが書いた読売新聞の記事をお読みになったと思いますが、アメリカの対中エンゲージメント・ポリシーに対して、かなり異議を申し立てています。原文はロサンゼルス・タイムスに出たようですが、パッテンさんは香港であれだけ苦労もしたし、香港の民主化に全力を傾けただけあって、鋭くポイントを衝いていますね。
 つまり、「アメリカの対中国関与政策は甘い」と言っています。例えば中国が人権状況を悪化させ「人権は内政問題だ」と言う。それに対して外部世界も「ああ、そうですか」というふうにしてはいけない。やっぱり人権というのはグローバルな問題だから、何回もそれを言うべきだ――と言っている。
 WTO(世界貿易機関)の問題も、政治的思惑とか、中国がWTOに入った方がより安定するであろうとか、考えてはいけないと言うのです。一つの見識だと思います。
 中国と外部世界はマニピュレート(操縦)しにくい構造があります。北朝鮮にやっている「太陽政策」は、北朝鮮は単細胞だからあるいは成功するかもしれない。中国というのは外交政策によって変えることがなかなかできにくい体質を持っているとすると、中国がプリンシプルで言ってきた時には、それに対してキチンとした対策をとらなくてはならない。WTOの問題は政治的にではなくて、あくまでも経済の問題、純粋に貿易上の問題としてやるべきだ。アメリカは中国が何とか世界の舞台にうまく入ってくれないか、そういう期待をする。そこに間違いの元がある――ページというようなことをパッテンさんは非常にうまく言っていました。
 彼は『東と西』という本も書いて、とても素晴らしいと思うのです。僕もお会いしたこともあります。
 もう一つは台湾政策については、武力による台湾統一を認めないことと同時に、西側が台湾の独立を今の状況では認めないということをきちんと中国にもハッキリさせるべきだ――とも言っています。
 中国は敵でもないかもしれないけれども、特に最近の非合法な技術移転、軍事機密の遺漏とか、スパイ事件とかがある。これについても中国に言い続けるべきだ、と言っている。それからチベットの問題も、ダライ・ラマとの対話を始めるべきだということを常に言い続けるべきだ、というようなことをいろいろ言っていまして、私は基本的にパッテンさんの主張が正しいと思います。
 最後に、小渕さんがこの七月に中国に行きます。(編集部注=小渕恵三首相は同八〜十日に訪中、十日〜十一日にモンゴル訪問)
 この時期になぜ小渕さんが行くか。僕自身も「何か提言を」と言われて初めて気がついたぐらいなのだけれども、行く必然性があるのかどうか。けれども、ここ二年間ぐらい、一年に一遍、相互に首脳が行くことになったのです。
 本当は今は行かない方がいいと思うのだけれども、中国は、行けば行ったで「待っていました」とばかり言うわけですからね。ここはやっぱりどうなのかなということをちよっと最後に申し上げたいと思います。
 歴史認識の問題と台湾問題は、日本の立場からすると本当はもう決着したと見ていいと思うのです。だけれども、中国は決してそう見てはいないから、そこに大きな問題がある。昨年の江沢民訪日の時は、日本の新聞論調も外務省も、この問題はもう一つのピリオドを打ったと見ていたわけですから、それから踏み出すべきではないと思うのですね。
 だけれども、恐らく小渕さんが行けばガイドライン(新日米防衛協力の指針)の問題とか、TMD(戦域ミサイル防衛)の問題は、仮に台湾、歴史認識がなくても、今度国会で通ったわけですから、(中国は)手ぐすね引いている。
 ガイドラインにしても、TMDにしても、「あくまでも抑止力なんだ」ということをきちんと言うべきではないかと僕は思います。現に中国は、今年もそうですけれども、ものすごく軍事力を増強している。それから台湾に対する武力統一をあきらめていない以上、私個人としては「周辺事態」には当然台湾が入るべきだと思うのですが、そのことを日本の政治家や外務大臣、政府が言わなくてもいいけれども、そこをどういうふうに説明するのかは非常に難しい課題だと思います。
日本の本当の脅威は不確定要素の多い中国
 本音を言うと、日本にとって本当の脅威は不確定要素の多い中国ではないかと僕は思うのだけれども、それは言ってみれば、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を悪者にして北朝鮮がまた悪者にふさわしいようなことばかりやってくれるものだから、一応そういう形になっているけれども、それはやっぱり違うんですね。そこに大きな問題がある。ここをどういうふうにうまく外交政策として立案するかというのが今後の日本の外交の課題だと思います。
 それから、江沢民訪日以来の日中関係で気づいたことだけれども、石原慎太郎・東京都知事の登場です。この石原知事の対中認識については、最近、石原さん自身少しトーンダウンしたと思うのです。だけれども、ここも本質的には問題は解決しているわけではない。
在日華僑が石原慎太郎都知事の対中認識に圧力?
 どうも石原さんがトーンダウンした背景に、石原さん自身も考えたところがあると思うのですが、最近、在日華僑の動きが非常に顕著です。この在日華僑というのは昔から横浜の中華街にいるような台湾系、中国系があります。香港も多い。しかし、この場合の在日華僑は、言ってみれば、改革・開放になってから日本に来ている中国人で、結構多いのです。これらの人達があちこちで言論活動もやっています。この人達のある種のプレッシャーが石原さんに対してもかなりあったのではないかと思います。
 日本で今出ている中国語の留学生や在日華僑を対象にしている新聞は、三十ぐらい東京にあります。三十ぐらいの新聞がマーケットを持っているということは大変なことです。
 それらの人達が、日本へ来て日本を知り、あるいは日本の民主制度を知れば、中国についても、「台湾は台湾でいいではないか」というようなわれわれが考えるような常識になるかという期待が僕にはあるのです。だから、留学生を僕は一生懸命教育してきたつもりだし、私のゼミの半分ぐらいは中国の留学生で、中国からの留学生も台湾からの留学生も、みな仲良くしているのです。
民主派でも「中国は一つ」には民族的な衝動がある
 ただ、北京の記者で天安門事件の時に追放されて、今台湾で特派員をやっている人もいますが、民主派であるにもかかわらず、こと台湾問題に関する限り、ものすごく外省人的です。つまり、中華思想なのです。民主派であっても、「中国は一つ」ということに関してはものすごく強い民族的な衝動とも言っていいようなものがあります。これはやっぱり日本にとっても長期的にみるとかなり手ごわいのではないかという気がします。
最近、密航者がものすごく多い
 最近中国からの密航者がものすごく多いのです。是非皆さんに読んでいただきたいのは、『ある中国人密航者の犯罪』という本で、草思社から出ています。大変エキサイティングでした。これは筆者も翻訳者も、匿名なのですが、草思社はいい加減な本を作るところではない。
 結局、それらの密航者はパチンコの裏ロムとか、犯罪につながっていくんですね。彼ら密航者は犯罪のことばかり考えて生きている。だから、パスポートの偽造も、うまい。そのことだけに一生を賭けている集団ですからね。
 われわれはアジア、世界から留学生を呼ぼうと十万人計画をやっている。僕が今議長をやっている海外留学生のための試験についての会合には法務省の人達も来ている。これは日本の国公立私立の大学が入学許可を与える。そのうち許可されるのは三分の一なんです。あとの三分の二は法務省段階ではねられる。就学目的がハッキリしないとか、明らかに履歴の偽造であるとか、こういう問題が非常に増えているようです。
 それと最近起こっている領海侵犯です。これはさすがに日本の新聞もこのところかなり詳しく書いています。私の切り抜きの一週間ぐらいの中にたくさんあります。これはご承知のように、九二年に中国が海洋法を定めて以来、中国の領海には尖閣列島も含むことになっていますからね。
密航せざるを得ないのが中国の現実
 密航者が出るのは、やっぱり今の中国の現実なんですね。つまり、日本や台湾から中国に密航していく人はいないわけです。特に沿海の福建省ですが、ことあるごとに密航せざるを得ないというのは、密航者の手記なんかを見ると、それが中国社会の偽らざる現実じゃないか。建国五十周年の中国は密航者が、あれほど規制していても出る。規制自体にもいろいろ問題があるそうです。
 先日、警察関係の担当者だった人から聞いたのですが、「よく新聞に出ているように、ずぶ濡れになっていたとか、どこかのバスで捕まったとか、漁船で捕まって検挙されるのは一割だ。あとの九割は完全に日本社会に入っている」と言う。
 予算もないし、捕まえてもすぐリピーターで帰ってくる。とてもじゃないけれども、今の安全保障の体制は、グラスルーツの密航の取締りということから言うと、完全にお手上げだそうです。警察庁からも「外務省がもっとしっかりしてくれないと困る」なんて言われます。
中国は密航者が出ない社会であってほしい
 確かに池袋周辺に住んでいると非常に中国人が最近多い。ウェートレスとかやっていますね。「あんた、ビザどうした?」とは聞かないけれども、明らかに不法じゃないかという人達がかなりいるのです。先ほどの「手記」を読むと、不法で入ってきて不法じゃないように装うノウハウが実にうまく書かれていましてね。これには愕然とします。これは日中関係の一つの断面ですから、そういう点でも問題を考えないといけないですね。
 いずれにしても中国は密航者が出ない社会であってほしいと思うのです。それを本日の結論にしたいと思います。
中嶋嶺雄(なかじま みねお)
1936年生まれ。
東京大学大学院修了。
東京外国語大学助教授、教授、同大学学長を歴任。現在、国際教養大学学長。
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION