2002年8月号 正論
拙速すぎた日中国交三十年の大きな代償
国際社会学者・前東京外国語大学学長 中嶋嶺雄
国交三十年の現実
一九七二年九月の日中国交樹立から三十年になります。今日、この三十年の日中関係を振り返ってみて非常に顕著なことは、日本国内に一種の嫌中感情、つまり中国はもういいとか、中国は嫌いだ、どうしても中国が好きになれない、あるいは中国は信頼できない、という感情がかなり広く潜在していることだと思います。
一方、中国側にもある種の反日感情が広がっているようで、最近では若い世代にそうした反日感情が根強いと考えていいと思います。日中友好を掲げた三十年間であったにもかかわらず、日中双方にお互いの友好関係を損なう感情が根を張っているということは極めて深刻な問題です。そのルーツを辿ってみると、それは実は日中関係のあり方そのものが、こうした日中両国の悪感情を形成する原点になっている気がします。
日本側の嫌中感情が顕著になったのは、実は江沢民国家主席の訪日、九八年秋の出来事が大きかったと思います。日本と中国との間の戦争責任の問題はすでに外交的には処理されているはずであり、さらに一九八二年の天皇・皇后両陛下の御訪中もあって、更なる決着がついているはずなのに、にもかかわらず、敢えて江沢民主席は日本の宮中において天皇・皇后両陛下を前にして、しかも革命中国の人民服を着たままこれらの問題に触れました。こうした態度が日本国民の対中感情を大きく損なっているのだと思います。このところ増大している滞日中国人の犯罪、中国産食品への不安についても指摘すべきでしょう。
最近の瀋陽で起こった重大事件については、主権侵害の問題が日本人の眼前で起こっていることに、日本側の対中国感情を悪化させた大きな原因があります。つまり日本側の嫌中感情の大きな部分が中国当局の対日政策に起因していると言えるのです。それは、例えば教科書問題や靖国問題とも極めて密接に関係しています。日本国民は、本来、中国文化にかなり親近感を抱いています。もっとも、多くの日本国民には中国を旅行したい、万里の長城に行きたい、中国の歴史的な遺跡を巡りたいという感情が非常に強いにもかかわらず、それは皮肉なことに現在の中華人民共和国とは関係のない歴史的遺産への親近感であって、現在の中国の国家のあり方そのものには、多くの日本国民はかなりの反発ないしは反感を持っていると思います。
一方、中国側の反日感情のルーツを辿ってみると、徹底した反日教育、中国の教科書による日本侵略者像の形成に大きな原因があります。極めてイデオロギー的な反日感情の育成を、国家の教育機関を通じて行なっていると言わざるを得ません。つい最近も中国の小学生が「日本帝国主義反対」を唱えている場面にたまたまぶつかって、私は慄然としました。日本ほど平和な国家はありませんが、それを依然として帝国主義・軍国主義と教えつづける中国の教育に、つまりイデオロギー的な国家主導の反日感情の育成に中国側のルーツがあるのだと言えます。
そうした状況の中で、五月八日に瀋陽総領事館での主権侵害の問題が起こりました。あの生々しいテレビの放映がなければ、おそらく闇から闇に葬られたであろうこの事件が国交三十周年に起こったのは、決して偶然ではないと思います。あの事件は、中国社会の中では日常的に起こっている出来事の一端が、たまたまそれを捉えた映像によって表に出たから知見となったわけで、北朝鮮からの亡命者を不法侵入者として非人間的に扱っているのは日常茶飯事なのです。
一般の中国人も、中国においてはひとたび当局から睨まれれば、すなわち人権・民主・宗教あるいは少数民族等々の問題において当局の政策に反した場合、徹底的に抑圧されます。その抑圧を行っている組織がまさに人民解放軍であり、そして特に最近では人民武装警察部隊という人民解放軍に成り代わった公安=警察との中間的な組織であり、いずれも治安機能を担う国家の暴力装置です。
日常的には、それにプラスしていわゆる公安イコール警察があり、軍・武装警察・公安警察というこの三重の国家の抑圧機能は、今日の中国社会で徹底的に強化されています。そうした中であのような事件が起こったのですから、人権を守ろうとか、亡命者を庇護しようという意識は中国当局にはまったくありません。今回、そうした共産党独裁国家の赤裸々な現実がまさに手に取るように見えたわけです。
しかも今回の事件のもう一つの座標軸は、日中友好の仮面をつけた日中癒着外交の実態です。極めて重大な主権を侵害されたにもかかわらず、日本外交が何もなし得なかったという日中友好外交の本質が図らずも露呈しました。日韓共催のワールドカップで沸きましたが、さる六月十三日、北京の韓国大使館で、亡命を求めた父子を奪い返そうと大使館に侵入した中国の官憲を身体を張って撃退しようとした韓国の外交官との対比も、あまりにも明白でした。ここにも重大な問題点があると言えます。
中国の主権侵害に対して日本政府がこのまま外交的決着を成し得ないとすれば、極めて重大な歴史の汚点になるでしょう。このように国交三十周年の現実は、日中双方にとって当初の予想に反する結果になっており、この現実を直視することから、問題を考えていかなければいけないと思います。
国交三十年の回顧と展望
一九七二年七月に田中内閣が成立しました。それは長く保守本道の政治を担ってきた佐藤栄作政権の崩壊直後の新しい政治的気運の醸成でしたが、同時に日中国交正常化という懸案に連動したものであり、田中首相は大平外相と共に早くも同年九月に中国を訪問し、一挙に国交樹立を実現しました。当時の日本の国内は『産経新聞』以外のマスコミはこぞって無条件で中国との国交を要求していましたし、その前年夏に起こった衝撃的な米中接近以降の国際社会の変動の中で、バスに乗り遅れるなとばかり、雪崩現象的に中国へ傾斜していきました。
東京のホテルで、当時の三木武夫氏、田中角栄氏、大平正芳氏など自民党の領袖たちが、参事官クラスにしかすぎない肖向前・中日備忘録貿易弁事処代表と共に壇上に並んでスクラムを組んでいた姿が、今でも目に浮かびます。それほどまでに日本は中国に傾斜してしまい、いっさいの対中外交の戦略・戦術、シナリオを欠いていたのです。その大きなツケが今日の三十周年にまさに表れていると言っても過言ではありません。冒頭に述べた日中関係の現実は、まさにそうした国交樹立のあり方の大きな代価として甘受せざるを得ないものであると言えます。
私は当時、官房長官の私的諮問機関としてできた国際関係懇談会の委員として、佐藤政権の時代から日中関係についての政策形成に関わるという巡り合わせにありました。その私どもの学者を中心とする国際関係懇談会のメンバーは梅棹忠夫さんとか、石川忠雄さん、衛藤瀋吉さん、永井陽之助さん、神谷不二さんら、若手では山崎正和さん、亡き江藤淳さん、同じく高坂正堯さん、そして私、特に高坂さんと私が一番若いということで幹事を務めさせられました。
その辺の経緯については『佐藤栄作日記』や『楠田實日記』にもしばしば出ておりますが、私たちは中華人民共和国を正統政府として認めることにおいては意見が一致していたものの、台湾、つまり中華民国との関係は日本にとって極めて重大なので、台湾との関係も十分に調整しながら中国との国交樹立を実現したいと考えていました。
そのことは七一年一月の国会における佐藤首相の施政方針演説にも、初めて中華人民共和国という言葉を使って表現されていました。その前後にはいわゆる保利書簡問題があり、自民党幹事長の保利茂さんの周恩来首相宛の書簡を美濃部都知事(当時)が訪中に際して携えていったという問題もありました。佐藤首相の首席秘書官の楠田實氏に依頼されて保利書簡の原案は私が執筆しましたが、当時、周恩来首相は保利書簡を突き返したにもかかわらず、それを見ているわけです。その中では台湾問題に関する、“日中復交三原則”にはふれていなかったために、周恩来首相としては受け取るわけにはいかなかったのだと思います。
しかしながら佐藤政権の日中国交回復に懸ける熱意、その決意というものは十分読み取れたはずで、そこに保利書簡の大きな意味があったと思います。当時の国際環境は米中接近という大きな動きがあったものの、一方では中ソが激しく対立していました。日本との接近が必要だったのはむしろ中国の方だったのです。
そのような状況を考えると、日本側はもう少し余裕を持って中国と渡り合うべきでした。少なくとも何らのシナリオも持たずに九月に訪中して、マスコミに煽られて一挙に共同声明を発表して来るという方策とは違ったシナリオが実はあったわけです。それは九月に田中・大平氏は中国を訪問して毛沢東・周恩来と会談する。中国側の意向も十分聞き、いったん帰国して、翌年春に国交正常化に持って行くべきだというのが、私どものシナリオでした。その間に台湾問題を十分練っておいて、台湾にも根回しをすべきだというものでした。
しかし、当時は外務省も、またマスコミも、そして結局は佐藤政権を引き継いだ田中、大平政権下の内閣官房も、ほとんど聞く耳を持たずに日中国交樹立を一挙に実現する方向に雪崩込んでいきました。
これ以来、中国側は日本を「飛んで火に入る夏の虫」のように扱う、そうした優先権を得てしまいました。あのときに毛沢東が田中角栄氏に献じた書『楚辞集注』はまさにそのような日中関係を彷彿させるものでした。そして台湾問題の大きなツケを今日まで残してしまったわけです。
この点はアメリカの対中国政策と根本的に違っています。アメリカは七一年二月にニクソン=キッシンジャーのドラマティックな訪中があったとはいえ、国交を樹立したのは七九年一月で、八年近い歳月を要しています。その八年近い歳月に中ソ関係も大きく変化し、米ソ冷戦に勝利する布石を次々に打ちながら対中外交を考えていったと言っていいでしょう。しかも七九年の米中国交樹立に際しては、台湾関係法という台湾と米国との関係を特別扱いする国内法を圧倒的多数で可決しており、これが今日の米台関係を築いている基礎です。
ところが日本の場合、アメリカ以上に台湾と密接な関係にあり、歴史的にも深い関わりあいがあったにもかかわらず、そしてまた今後の日本の将来や安全保障を考えたときに台湾問題の重要性を無視することはできないにもかかわらず、いっさい台湾との間の法的関係は断絶したまま、民間レベルの関係しかない現状をつくってしまいました。このため、急ぎ過ぎたシナリオなき国交樹立の大きな代償を支払わなければいけないという現状になったのです。
それだけではありません。日中平和友好条約が締結された一九七八年当時を振り返ってみると、ここにもさまざまな問題がありました。この平和友好条約は単なる友好協力を内容としたものではなく、いわゆる覇権条項入りの平和友好条約だったわけです。この覇権条項には中国が当時、ソ連と決定的に対立していて、ソ連の脅威を全面的に感じていたがゆえに、日本を反ソ同盟に巻き込んで、ソ連を覇権国家と見なして協力するという中国の世界戦略が含まれていたのです。
当時の福田政権の中では、福田赳夫首相自身はかなり慎重でしたが、これまたシナリオを持たずに日中外交を担うことになった園田直外務大臣の一気呵成の外交姿勢も災いし、日中平和友好条約をほとんど無条件で締結したのです。中国がそれほど反ソ外交を必要としているならば、日本は中国にいろいろな要求を出していいにもかかわらず、何ら得ることなくすっかり日本は手の裏を見せてしまったと言っていいでしょう。
その結果、ソ連は日本に対してまったく何も提供することなく、今日問題になっている北方領土の問題もこのときにソ連に要求すれば四島返還もあり得たのではないかと私は思います。少なくとも二島はこのときにすでに返還され、あとの二島についてはその後の領有権を日本が主張して共同利用するというような選択肢も当然あり得たにもかかわらず、それさえも実現せずに今日に至っているのです。
これらのプロセスを考えると日本の政府・外務省当局の対中国外交はほとんど戦略・戦術というものを持たずに、無手勝流で、時の流れ、あるいはマスコミなどが煽る情緒にほだされて行なわれてきたと言っていいのではないでしょうか。
九二年秋の宮沢内閣のときに天皇・皇后両陛下の御訪中もありました。この時も当時の橋本恕大使は天皇・皇后両陛下の御訪中を中国側の意向に沿って実現しようとしたことがあったように記憶しています。たまたま私自身は天皇・皇后両陛下の御訪中に対して、紫禁城つまり故旧博物院を正面から訪れないでいただきたい、それはいくつかの門を潜って内裏に辿り着くという朝貢外交そのものになるのではないかということを申し上げ、また中国に対する戦争責任に触れる場合には中華人民共和国という言葉を用いずに、「中国の国民に」というような表現にすべきことを主張し、そのことが叶えられたことは大変良かったと思います。ただ、これも非常に危ない橋を渡っていたという気がします。
中国は中華世界を内臣と外臣に分けて、遠近親疎の関係を測り、さらにその周辺に朝貢国を配して、どれだけ貢ぎ物を持って来たかによって朝貢国をランクづけするという、秦・漢の時代からの朝貢外交の伝統があるだけに、日本の天皇・皇后両陛下が初めて訪中するときのセレモニーには、十分気をつけなければいけなかったのです。
さて、このようなことをみると、日中国交三十年は果たして本当の日中友好の時代であったのか。日中友好とは何なのか。それは日中外交の問題としてみるとまさに日中癒着ではなかったか。日中友好に尽くそうとする日本政府・外務省の姿勢ができるだけ中国を刺激しない、少しでも難しい問題を中国に突きつけることは避けようという対応ばかりをもたらし、その結果、日中間の癒着関係が深まる反面、日中関係の固有の問題は何ら解決することなく、そのツケが大きく溜まったまま今日を迎えていると言えるのではないでしょうか。
日中関係の宿痾
日中関係には、本質を解決せずに棚上げされたまま時間が経っている問題が多々あります。もちろん日中友好関係が進んで、これらの問題が自ずから日本にとって有利な形で解決するならば棚上げされてもいいけれども、休火山のように時々爆発し噴出します。
靖国神社の問題も、かつて歴代の日本の首相が靖国神社を参拝することが恒例で日常的な行事の一つになっていましたが、中曽根康弘首相が敢えて公式参拝に踏み切り、それに対する中国の激しい反発があって、翌年これを中止したことによって、以降毎年夏になると中国はこの問題を日本に持ち出してきています。
もちろん靖国神社は日本の神社です。中国にあるわけじゃない。そこにA級戦犯が合祀されていようとも、日本国民の感情としては戦争のいわば犠牲者としてお祀りし、お参りする。年間六百万人の人たちがお参りすることは、それ自体が日本の一つの大きな現実です。A級戦犯を靖国神社から引き剥がせというような主張は中国の論理であり、その中国の論理は中国共産党の諭理です。つまり一握りの悪者に対して常に多数の大衆がいる、その大衆の味方が共産党だというまさに階級闘争史観なのです。
日本の戦争は、戦争体験を振り返ってみると明らかなように、A級戦犯だけのものではなく、当時の日本国民挙げての言ってみれば総動員体制としての歴史的現実がありました。そしてそのことを日本人自身が反省したがゆえに日本は戦後、国家の力によって一人の命も奪っていません。そういう平和国家なのです。中国の人民解放軍と比べてみてください。また毛沢東政治のために文化大革命でどれだけの命が犠牲になったのか。その前の大躍進政策も国家の政策の犠牲であり、近くはわれわれの見ている前で六・四天安門事件では人民の軍隊が人民を銃撃していました。また、中ソ戦争、中越戦争等で常に多くの命を犠牲にしているのみならず、中国国内の少数民族、新疆ウィグル自治区やチベット自治区などでは日常的に徹底的な抑圧を加えています。些細な事件でも処刑しているわけで、そのような中国に対し、日本は戦争責任の問題で中国にいまさら頭を下げる必要はありません。
にもかかわらずそれらのパターンをつくってしまったところに、もちろん日本自身の問題もありますが、日中友好関係、といってもかっこ付きの「日本友好」関係イコール日中癒着関係の無粋な構造が露呈しているように思われます。
これらの未解決の問題の中に、例えば、もうほとんど言忘れられていますけれど、京都の光華寮問題−中国人留学生寮を巡る中台間の紛争に基づく光華寮問題もありました。これもいまだに決着していません。さらに尖閣諸島の問題は中国が領有権を主張したまま、未解決になっています。特に中国は一九九二年の海洋法の制定以来、尖閣諸島を含む日本の近海に対しても極めてアグレッシブな態度を見せており、日本国内を侵害した例の北朝鮮の不審船と思われる船舶の引き揚げさえ、ようやく条件付きで実現しようとしているのが現実です。
そして教科書問題です。教科書問題は日本国内の問題であって、しかも日本は言論の自由、多様性があるだけにいろんな形の教科書があり得るわけですが、新しい歴史教科書をつくる会編纂の教科書をはじめとして、常に中国側からの内政干渉に近い要求の提起があります。
教科書問題に対して中国側は極めて不当な要求を日本に突きつけているにもかかわらず、日本側は中国の教科書についてクレームを申し込んだことはほとんどありません。靖国問題はすでに述べたとおりで、あるいは中国が毎年二桁の軍事力を増強していることについても、日本はほとんど何も言うことができない状況です。
これらの問題を考えると、もちろん中国側に問題の一端がありますが、そのお先棒を担ぐかのようにかっこ付きの「日中友好」を掲げて中国に靡く、いってみれば無国籍な政治家や官僚、マスコミなどが日本の側に多く存在していることも、さらに重要な問題だと言え、私たちが今後十分検討しなければならない課題だと思われます。
台湾問題と日中関係
日中国交の三十年は、台湾問題に対するいっさいの措置を行なわないまま、台湾との断交をもたらした三十年間でもありました。そうした中でここ一、二年極めて刺激的な問題として起こってきたのが李登輝前台湾総統の訪日問題です。一昨年秋の李登輝訪日問題は当初、私が主宰する「アジア・オープン・フォーラム」最終回の松本会議への李登輝総統の参加問題として話題になりましたが、結果的には昨年春に倉敷中央病院で李登輝前総統の心臓診断を行なうという形で訪日が実現しました。しかし、そこに至る経緯は日中関係を、あるいは日本と台湾との関係を考えさせる絶好のケーススタディになりました。
李登輝前総統は政治の世界から公的には退場しています。今でも台湾の政治に対する李登輝前総統の影響力は極めて大きいとはいえ、現在は身分上は一市民です。しかも健康問題で来日するというにもかかわらず、中国は全面的に反対し、その中国に同調するような動きが日本国内にもありました。関西空港―倉敷―大阪という条件つきで李登輝前総統の来日は実現しましたが、本来なら李登輝前総統は日本に来てどこへ行っても、どのような会議に出ても、どのような講演をしても許されてしかるべきだと思います。日本は自由と民主主義の国であり、言論の自由は国際的にも保証されなければなりません。だとすると李登輝前総統が日本で知的・文化的な交流の会に出たり、学識豊かな、しかも極めて親日的なお話を聴く機会は当然設けられてしかるべきですが、依然として実現していないという現実があります。
この秋にはかねてから懸案の「奥の細道」を巡ってみたいという前総統の強い要望もありますので、これを認めることができるかどうかが日中国交三十年の現実の中で試されます。因みにアメリカはすでに数次ビザを発行していますから、李登輝前総統はいつでもアメリカへ行くことができます。現職の総統としてさえもコーネル大学で歴史的なスピーチを行ないました。また、近くアメリカを訪れ、ワシントンのナショナル・プレスクラブで講演をされるでしょう。それなのにまたもや日本が李登輝前総統の「奥の細道」を巡りたいという旅行さえも認めないとなると、日本は今回の瀋陽事件に次いで国際社会の笑い者になることは目に見えています。
いずれにせよ、台湾問題の重要性は今後ますます大きくなるでしょう。台湾の人々が日に日に台湾人としてのアイデンティティを強化しているからです。台湾の大多数の本土派の人々は、中国人という意識よりも台湾人という意識を持っています。そしてこの意識は北京語を使うことよりも福建語=台湾語を使うことによって、言語学的には 南語を使うことによって、言語によるアイデンティティを強めていますので、いかなる政治的圧力よりも強靱なのです。それは同時に台湾ナショナリズム、あるいは台湾人としての同朋意識の強化です。こういう台湾の人たち、中国に一度も統治されたことのない台湾の人たちがどのような将来を選択するかは今後の大きな課題であり、おそらく「台湾共和国」への道がますます開けていくのではないかと思います。
そうなると中国にとっては「一つの中国」の立場から、武力を用いてでも台湾を吸収合併しなければいけないとなります。日本にとっては、そうした中国の台湾への軍事的あるいは政治的威圧の中で、日本と極めて関係の深い二千三百万人の国民の存在する台湾をどのように扱っていくのかという日本自身の大きな課題です。おそらく中国にとっての台湾と日本にとっての台湾は根本的に異なります。その異なっている理由を、中国側に常に説得し、主張しなければいけない。
こうして考えると、台湾が公的にはまったく存在しないかのように扱った三十年前の国交樹立でしたが、アジアの中で最も信頼し得る、最も知的水準の高い、経済的にも社会的にも成熟した台湾が依然として存在している現実は否めません。その台湾は三十年前と根本的に異なって完全に民主化され、台湾人が主人公になっている台湾ですので、国際社会でますます大きな意味を持って来ていることにおいても、日本は大きな問いを突きつけられているといっていいでしょう。
日中関係と日本外交
これらの極めて重要な、アジア全体あるいは世界全体とも関わるような外交を担うべき能力を日本外務省は持っているでしょうか。私はかつて、一九七一年に香港総領事館特別研究員として一年半の在外勤務を終えた後、帰国して、「霞ヶ関外交の体質」という文章を書きました(『日本経済新聞』一九七一年六月八日)。その中で、日本外務省の体質、総領事館の中の体質、日中外交のあり方があまりにも非常識的であり、その非常識が支配する外務省の内実を知って唖然としたことを記しました。そのような体質の中で、誰が責任を持って、どのような情報を、どのような形で受け止め、どのように政策化していくかということがまったく不透明であるばかりか、まったくできていないことを問うた一文でした。その外務省の体質は三十余年後の今日もまったく変わっていないと思います。それが露呈したのが今回の瀋陽事件でした。
さて、そのような日中外交を特色づけると、一つは日本が中国に対して侵略をしたことを償わなければいけないという一種の贖罪の意識が座標軸にあったと思います。しかし、この贖罪外交は中国の体質や日中国交樹立の際の声明によってすでに解消されていなければいけません。日中は常に平等な関係でなければいけません。ところが、贖罪外交という名の癒着外交を続けている外務省の体質からすれば、中国に対しては、できるだけ中国当局を刺激しないことを外交の原則にしているため、中国側に侮られ、軽く見られる結果になっています。
日本側が、唐家外相のしばしば内政干渉まがいの言葉に右往左往する様は、まさに対中国位負け外交以外の何ものでもありません。しかも唐家 外相は、中国の政治的なランキングないしは政治装置全体の中ではほとんど影響力を持たない人物です。例えば銭其 前外相と比べた場合、歴然としますが、それらの人物からさえも日本は侮られていると言わざるを得ません。
こうした体質を自ら作ってきた日本の外務省の責任は極めて重大だと思います。その大部分を形成したのがいわゆるチャイナ・スクールなのです。瀋陽事件によってチャイナ・スクールが取り上げられ、批判されましたが、そもそもチャイナ・スクールとは何なのか。そしてチャイナ・スクールのどのような功罪があったのかという問題は、今後も追及されなければなりません。なぜならば現在チャイナ・スクールのトップに立つ阿南惟茂駐中国大使は、瀋陽事件の責任を何ら取ることなく依然として存在しているからでもあります。
もちろんこのチャイナ・スクールの功罪を問うといっても外務省だけを責めるわけにはいきません。田中・大平政権の日中国交樹立以来、多くの政治家がチャイナ・スクールに助けられ、あるいはチャイナ・スクールを育成する形で、政官の癒着がありました。特にチャイナ・スクールの形成というと国交正常化前の、佐藤政権末期から田中政権に至るまで、普通二、三年間で交代する中国課長を五年以上も続けた橋本恕氏、後の駐中国大使がチャイナ・スクールの元凶だといってもいいと思います。話題の加藤紘一氏も当時は橋本氏の下で中国課首席事務官を務めていたことがありました。
中国課首席事務官、中国課長、アジア局長、時には香港総領事、そして駐中国大使というピラミッドで形成されているチャイナ・スクールは、戦後の初代のチャイナ・スクールである藤田公郎・JICA前総裁のようなバランスの取れた人材は例外であって、むしろ多くが極めてプロ中国的な無国籍外交官、どこの国の大使であり、外交官かと疑われるような人たちが多かったのも事実です。
例えば中国課長の一人であった浅井基文氏はしばしば日本共産党系のメディアに執筆し、『赤旗』にも常連として寄稿して日米安保体制批判を行なっていることがよく知られています。これらの人たちが対中外交のような重要事項を担い、外務省の中枢に巣くえるような体質をつくってきたと言わざるを得ません。
もう一人、二人挙げるならば新しい歴史教科書をつくる会の教科書を採択しないように文部省の中の委員としてあちこちで働いたといわれる野田英二郎氏も香港総領事を務めたという意味でチャイナ・スクールの一人です。李登輝前総統の来日に反対した槙田邦彦中国課長は、その後香港総領事やアジア局長となり、現在は駐シンガポール大使ですが、ここにもチャイナ・スクールの一つの傾向性が歴然としています。
言ってみれば外務省のチャイナ・スクールは、駐中国大使を務めた中江要介氏や橋本氏のように、元々は中国語研修スクールではなく、かなりリベテルな立場であった人でも、こと中国にかかわると極めて親中国的になってしまうという体質をもっているのです。國廣道彦氏もそういえるかもしれませんが、こういう立場と、先程の浅井氏や野田氏などに見られるような、極めてイデオロギー的な反国家的思想性を持つ人たちが一体となって、外務省の中枢を乗っ取ってしまっていたと言えましょう。私はこのような外務省は即刻解体して、新しい国際関係省庁に生まれ変わるべきだと思っています。
最近の一連の不祥事、その中でも一際目立ったロシア・スクールの、あの体質を見たときに、ロシア・スクールだけが悪くてチャイナ・スクールは正しいなどということはあり得ません。ロシア・スクールはまだ可愛らしいといってもいいほどで、それを上回る体質的な問題点をチャイナ・スクールの方が持っています。たまたまロシア・スクールが鈴木宗男議員との関連で暴かれたにすぎません。その大きな黒い影を背負っているのが、対中国「ODA外交」だといえます。
すでに三兆円近くにも上る対中国ODA外交、その大部分が円借款であるとはいえ、実際に長期的なインフレ傾向などをみるとほとんど無償供与に近い。それだけの巨額のODAを中国に供与して、いっさい中国に感謝されることなく、また中国はそのようなことを表に出さないことに努めています。反日教育は盛んにしますが、ODAによって例えば北京首都空港や上海浦東国際空港や多くの高速道路が建設されていることには、いっさい中国当局は触れようとしません。
堪りかねた谷野作太郎・前駐中国大使がそのことに言及して、ようやく中国側は小さく目立たないようにその意思を表示しましたが、谷野氏のようなバランスの取れた外交官はチャイナ・スクールの中では少数派だといってもいいかもしれません。その谷野氏でも私の対中国観からすれば隔たりはありますが、チャイナ・スクールの人たちはもっと親中国的であり、橋本氏や中江氏をはじめ、どこの国の外交官か分からない人たちが多く存在したことを日本国民は知らなければいけないと思います。
また、チャイナ・スクールを育ててきたのが、田中派以来の自民党政権でした。特に竹下派から今日の橋本派につながる親中国派の有力議員たちは、例えば靖国問題で小泉首相が八月十五日に参拝しようとするとさまざまな圧力をかけ、日本の意思を中国に迎合する方向で働いているといってもいいでしょう。明らかにODA原則から違反している対中国ODAの根本的な削減を求めようとすると、即座にさまざまな圧力がかかってきているのが現実だと思います。ここに対中国ODA外交の利権にまつわる大きな黒い影があるのだと言えましょう。
日中関係と日本の対中国外交はまさに三十年の試行錯誤を経て、今回の瀋陽事件を契機に過去の三十年間と決定的に訣別する必要があると思います。
中国の将来と日本
中国の将来が日本にとって極めて望ましい方向で推移するならば、日本も日中友好外交に懸けてもいいのですが、その前途は極めて厳しいと言わざるを得ません。中国が経済大国になって二十一世紀の巨大なマーケットになるというのはおそらく幻想に終わるでしょう。日本の自動車産業なども最近のトヨタのように相次いで進出しています。しかし、中国は最終的に自らの手で国民車を造ろうとします。それを十分覚悟した上で中国に出ていく必要があると思います。対照的に新幹線を日本から導入したり、ホンダの自動車を現地生産するような信頼できる台湾とは根本的に違うことを、十分承知しておく必要があります。
共産党独裁国家ですから、資本家から収奪しても当然だと基本的には考えています。それはあのヤオハンの悲劇に明白に表れていました。ヤオハンの和田一夫氏にとっては不幸なことに、中国マーケットに目が眩み、出ていくタイミングを十分見計らなかったため、結局アジア最大のデパートといわれたネクストエイジ21は失敗しました。しかし、その建物は今日でも中国側が使っています。しかも上海第一ヤオハン(八百伴)という看板だけは依然として掲げているのです。これはその方が日本製品が売れるということで掲げているのであって、骨の髄まで吸われて捨てられて、本体が倒産しても見向きもされなくなるという悲劇を忘れてはなりません。ここに共産中国の本質があります。
また、最近の中国は乱開発など、凄まじいばかりの環境破壊をしています。こうした中で果たして二〇〇八年のオリンピックを成功裏に安定的に成し遂げることができるかどうかさえ危ぶまれています。もちろん国威発揚の絶好のチャンスであるため、中国は北京オリンピックに向けて一瀉千里に突っ走るでしょう。しかし、それは社会の内面を充実させることではなく、軍事力を増強し、さまざまな脅威を撒き散らす形での中国なのです。その脅威は単に軍事的な脅威のみならず、環境破壊の影響で黄砂の到来が年々極めて深刻になっている日本にとっても大きな影響がある脅威でもあります。中国からの不法難民が潜在的に極めて膨大な予備軍として存在していることも脅威です。
中国社会の中には、一人当たりGDPで百倍近い恐るべき格差が存在します。中国の経済成長があれほど言われているにもかかわらず、中国はまだ一人当たりGDP一〇〇〇米ドルにもなりません。全世界のGDPに占める中国の比率はわずか三%程です。日中を比較しても、平均すると三十数倍の経済格差があります。その貧困大国でもある中国、病める大国でもある中国に日本の不況を救済してもらおうなどと、日本の経営者が考えているとしたら大きな間違いです。その点はアメリカはきちんと見極めています。最近のブッシュ政権は中国へ行っても堂々と中国の問題点を指摘しています。九・一一以来の国際的なテロへの予防策を米中共同で講ずることは必要であっても、それが中国国内の少数民族抑圧の口実になってはならないことを、二度にわたってブッシュ大統領は江沢民主席と並んで現地で表明していました。
日本の政治家にそれだけの勇気と度量があるのかどうか。アメリカはおそらく中国が共産主義を放棄するまで、かつてのソ連に打ち勝ったように対中国政策を極めて戦略的に行なっていくと思われます。特にブッシュ政権は台湾との軍事協力の関係を急速にレベルアップしていますし、ここ当分は少なくとも中国が共産党支配を脱するまで米中新冷戦が続くと思います。そうしたときに日本は今のような日中関係であっていいのか。わが国は日米関係を基軸にした自由と民主主義の国家として、また百年以上にわたってアジアをリードしてきた先進国としての品位を忘れてはなりません。瀋陽事件を起こすような中国といっしょになって国際政治の舞台に立つことは基本的に無理です。
そうした現実を認識した上で日本の針路を考えていかなければならないと思います。日中国交三十周年の現在、日本の国民の一人一人が中国とこの日中関係の在り方にもう一度目を向けることを期待したいと思います。
中嶋嶺雄(なかじま みねお)
1936年生まれ。
東京大学大学院修了。
東京外国語大学助教授、教授、同大学学長を歴任。現在、国際教養大学学長。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|