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2005年2月号 東亜
「信訪条例」改正で直訴規制
慶應義塾大学教授
小島朋之
 
 二〇〇五年は趙紫陽の死去ではじまった。一九八九年六月の天安門事件の責任をすべて背負わされて、趙紫陽は党総書記から解任された。自己批判をせず、そのまま十五年がすぎ、一月十七日に死去したのである。
 天安門事件のきっかけは一九八九年四月十五日の胡耀邦の死去であり、八七年一月に民主化を求めた学生たちの運動、「学潮」に対する融和的な姿勢ゆえに事実上総書記を解任された彼の名誉回復を要求した学生たちの動きの連鎖拡大が天安門事件につながった。胡耀邦の後任の総書記となった趙紫陽も学生や市民の民主化運動を「愛国的」と肯定することで、失脚した。その彼の追悼をきっかけに、新たな政治的動きが再現されるのか。
 そうした可能性は、一九八九年から十五年がすぎたいま、そう大きくはない。しかし、経済発展がもたらした歪みは格差拡大に集中的に現われ、民衆による共産党政権への支持・同意も階層の多元化によって一様ではなくなっている。それゆえに胡錦濤政権は中間階層の支持取り込みとともに、「弱勢群体(弱者集団)」への配慮にも注意を払う。そして均衡ある発展を指向する「科学発展観」を「重要な指導思想」と位置づけて、「和諧(調和のとれた)社会」の構築を目指すのである。
 しかし、こうした方針がいますぐ効果を発揮するというわけにはいかない。地方では民衆による騒乱が頻発し、ときには政権に批判の矛先が向かうのである。そうした事態の深刻化を懸念し、政権は民衆による「上訪(陳情)」など「信訪(直訴)」案件の増加に神経を尖らせる。
 もちろん、政権も政治改革にまったく手を付けなかったわけではない。政権は「執政能力建設の強化」とともに、「党内監督条例(試行)」や「党員権利保障条例」などを制定し、官僚の行動規制のための「官員任用記録制」などを策定してきた。しかし、直接選挙など「包括的な決定への参加」や共産党批判など「異論の自由」といった政治的民主化の基本条件について、政権には国民にいますぐ付与する用意はない。直接選挙は基層単位の村民委員会や居民委員会にのみ適用され、なお郷鎮や街道レベルでは実験に止まっている。人民代表大会に共産党が承認して提出された人事や法案なども、圧倒的多数を占める党員の代表たちへの党議拘束で否決されることはほとんどない。中国も多党制であるが、あくまで「共産党が指導し多党派が協力し、共産党が執政を行って多党派が参政する」制度である。その「制度レベルの向上、さらに一層の優勢と潜在能力を発揮させる」ことをめざして、新たに文献が公布される。ただし、これが共産党指導の否定を許容することはない1
 ただし、郷鎮レベルの直接選挙の実験は急速に広がり、党議拘束にもかかわらず政府提案の法令や案件の否決事例が地方人代では急速に増加している。党内民主化の措置とともに、こうした新しい政治改革の方向を予感させる動きについては、別稿で詳しく分析したい。本稿では以下において、趙紫陽の死去直後の情勢、胡錦濤政権の動向、「信訪(直訴)条例」の改正などについて検討しておこう。
 

1 甄小英「政党制度新特色」『人民日報』二〇〇五年一月四日。
趙紫陽の死去でも再評価せず
 一九八九年六月の天安門事件で総書記から解任された趙紫陽が、一月十七日に死去した。新華社通信はその日のうちに、彼の死去を報じた1
 趙紫陽は一九八〇年代に、当時の中国の最大実力者であった小平によって胡耀邦とともに後継者に指名され、改革・開放政策を推進した。党の総書記であった胡耀邦が一九八七年一月に、「学潮」と呼ばれた民主化を求める学生たちの運動への融和的な対応を批判されて失脚した後、総理から総書記に任命された。しかし、一九八九年四月十五日に死去した胡耀邦の追悼をきっかけに盛りあがった学生や市民の一部による民主化運動に対して、「愛国的熱情」と肯定的評価を表明し、共産党の指導を否定する「動乱」であると決めつける小平たちと対立した。六月四日に人民解放軍が天安門広場に突入して、民主化運動は鎮圧された。これが「六四風波」であり、天安門事件といわれる。六月二十三日から二十四日に開かれた第十三期党中央委員会第四回全体会議において、事件は「反革命暴乱」と断定され、趙紫陽は「厳重錯誤」を理由に総書記を含めてすべての職務から解任されたのである。
 天安門事件の再評価そして趙紫陽の名誉回復を求める声は、政権の外で消えていない。しかし、趙紫陽の解任を受けて発足した江沢民の政権にとって、事件再評価や名誉回復は自らの正当性を揺るがしにしかねない。天安門事件のきっかけが胡耀邦の死去であったことから、政権は趙紫陽の動静についても神経質にならざるをえなかった。江沢民を引き継いだ胡錦濤の政権も、こうした事情に大きな違いはない。それゆえに、彼の死去報道が香港で流されたとき、一月十二日に外交部の報道官が否定し、さらには十六日には新華社が「容体は安定している」と英文記事で報じて否定してみせたのであろう。
 しかし、胡錦濤政権は江沢民政権ほどに事件に直接かかわりがなく、事件鎮圧に陣頭指揮をとった李鵬などの指導者たちも退き、趙紫陽の死去を完全に非公開にする理由もない。趙紫陽は解任されたが、処分は「党内」に限定され、党籍は保留であり、「同志」の呼称は残されたままであった。それゆえに、新華社は短い記事であったが、「趙紫陽同志は呼吸器系統と心臓血管系統のさまざまな疾病を患い、たびたび入院治療したが、最近になって病状が悪化し、治療の効果なく、北京で逝去した。享年は八十五歳であった」と報じたのであろう。
 中国国内のメディアは、彼の死去とその後の状況についてほとんど報道しない。しかし『文匯報』や『大公報』など、香港の親中国系の新聞は北京の富強胡同にある彼の自宅付近の弔問客の出入りなどを報道し、祭壇の設置などについても「政府の支援」があることを伝えている2。弔問や花輪などについても、厳しい規制はかけていない。死去直前には曾慶紅国家副主席が見舞いに訪れたともいわれ、万里や田紀雲など引退した長老指導者以外にも、楊尚昆元国家主席の遺族、葉剣英(元中央軍委副主席)の長男である葉選平(前全国政治協商会議副主席)、趙紫陽とともに事件後に中央書記処書記を解任された杏文の夫人などが弔問に訪れた。胡耀邦、陶鑄、陳毅、陸定一など長老指導者の遺族も花輪を送った。外交部報道官によれば、胡耀邦の死去の際のような大規模な追悼大会は挙行されることはないが、北京郊外の革命烈士や指導者が葬られる八宝山公墓で告別式が行われ、「老党員」として党旗に包まれて葬られる。
 こうした対応は、政権が天安門事件のような事態が趙紫陽追悼で再燃する可能性を、そう大きくはないとみているからであろう。「最近では皆は金儲けに忙しく、政治に対してますます冷淡になり、趙の死去も社会の動揺を引き起こすはずがない」との学者の発言が報じられる3。しかし、胡錦濤政権も事件の再評価や彼の名誉回復する意図はまだないようだ。外交部報道官は、「すでに結論が出ている」として否定するのである4
 

1 「趙紫陽同志逝世」『人民日報』二〇〇五年一月十八日。
2 「趙紫陽告別式中国政治開明度指標」二〇〇五年一月二十日、「富強胡同平靜依旧」『『文匯報』二〇〇五年一月二十一日、「趙紫陽遺体告別定八宝山」『文匯報』二〇〇五年一月二十一日、「楊尚昆葉劍英後人致祭」『明報』二〇〇五年一月二十二日および「楊尚昆葉剣英後人致祭趙紫陽」『明報』二〇〇五年一月二十二日。
3 「趙紫陽去世不會影響中国政局」『大公報』二〇〇五年一月十七日。
4 「喪事將会妥善処理」『文匯報』二〇〇五年一月十九日および「中央対趙紫陽早有結論」『文匯報』二〇〇五年一月十九日。
胡錦濤色を明確に打ち出した
 胡錦濤政権のこうした対応は、二〇〇二年十一月の政権発足から二年間にわたる政局運営に対する自信に裏打ちされているのであろう。
 胡錦濤国家主席は海外に向けた二〇〇五年の新年挨拶、元旦の政治協商会議主催の新年茶話会での挨拶、いずれでも彼自身が提起して新しい「指導思想」といわれるようになった「科学発展観」を強調し、その学習を指示するのである。
 新年挨拶では二〇〇四年の活動状況を総括し、「中国の人民が全面的な小康社会(いくらかゆとりのある社会)を建設し、社会主義現代化プロセスの推進の中で開拓・前進を速める一年になった」と評価する中で、「人間本位(以人為本)で、全面的協調で持続を可能とする科学発展観を樹立・定着した」ことを強調した1。二〇〇五年について第十次五カ年計画の「最後の一年」で、「全面的な小康社会を建設するプロセスを推進する重要な一年」であることを指摘する中でも、「科学発展観を真剣に定着させる」ことを強調したのである。
 茶話会の挨拶でも、胡主席は二〇〇四年の「豊かな成果」として「科学発展観を真剣に定着させた」ことを強調し、二〇〇五年についてもまず「科学発展観」で「経済社会の発展全体を統御する」ことを最初に指示したのである2
 「科学発展観で経済社会の発展全体を統御し、“五つの統籌(統一的配置)”の要求にそって、ひきつづきマクロコントロールを強化・改善し、改革・開放を着実に推進し、“三農”に対する支持の度合いを拡大し、経済構造の調整を加速し、経済成長の方式を転換し、経済社会がさらに快速で良好に発展することを推進しなければならない」。
 二〇〇四年の新年挨拶と茶話会挨拶では、江沢民が提起した「“三個代表”重要思想」を「学習する新しい高潮の活動を不断に深める」ことをなお強調し、「全面的で、協調的で、持続可能な発展観」の「堅持」に言及しても、「科学発展観」とはいわなかった。茶話会で言及した「全面的で、協調的で、持続可能な発展観」はまさに「科学発展観」であるが、そう言い切るにはなお遠慮があったのであろう3
 『人民日報』の元旦社説は、もっと顕著な差異をみせている。
 二〇〇四年元旦の社説では「全面的で協調的で持続可能な発展観を堅持する」ことを強調し、「物質文明、政治文明と精神文明の協調的発展を促進し、経済発展の基礎の上に社会の全面的進歩と人の全面的発展の推進を堅持し、自然の開発利用の中で人と自然の調和のとれた共存の推進を堅持する」といった「科学発展観」の主要な内容を列挙しながらも、「科学発展観」に言及するのを避けていた4
 ところが、二〇〇五年の社説は過去一年の「新たな成果」の一つとして「科学発展観における樹立と定着」をあげ、「新世紀の新段階における党と国家の事業の発展の全体から出発して提起された重大な戦略思想・指導方針であり、小康社会の全面建設と現代化建設の推進において終始一貫堅持しなければならない重要な指導思想である」と定義するのである。そして二〇〇五年についても、まず「科学発展観を貫徹する」ことを最初にあげて、「マクロコントロールの成果を固め、経済社会の良好な発展態勢を保持するカギとなる一年」と位置づけるのである5
 胡錦濤政権は、政局運営に自信をつけてきたといえるであろう。そうした自信を反映しているのが、上海の『第一財経日報』紙の記事である。同紙は、ジョンズホプキンス大学のデビット・ランプトン教授などアメリカの中国研究者による胡錦濤政権に対する高い評価を報じた。同紙によれば、ランプトン教授は「三つの想像できなかったこと」として、第一に胡錦濤政権の「執政能力建設の強化速度は想像以上に速く」、第二に「威信の高まりは想像以上に大きく」、そして第三に「中国の外交政策がますます全面的で、ますます自信に満ちている」ことを認めた。こうした胡錦濤政権に対する高い評価が、香港の親中国系紙である『文匯報』や『大公報』にも転載されるのである6
 たしかに行政区レベルの地方指導部人事でも、胡錦濤色が顕著になりはじめている7。二〇〇四年十二月には遼寧、河南、福建の省党委書記の交替が実施された。その中で注目されるのが、河南省党委書記から遼寧省の書記に異動した、最年少でしかも最初の博士(経済学)号をもった省長(河南)であった李克強である。李克強は共産主義青年団の第一書記を五年間にわたって務め、第四世代の胡錦濤に次ぐ第五世代の指導者候補の一人である。福建省の書記は宋徳福が退き、省長の盧展工(五十二歳)に交替した。宋は胡錦濤主席の後任として共青団の第一書記を務め、二〇〇三年から病気治療中であるにもかかわらず引退せずに別のポストにつくとみられる。
 

1 「国家主席胡錦濤発表二〇〇四年新年賀詞:創造世界和平繁栄的美好明」『人民日報』二〇〇五年一月一日。
2 胡錦濤「在全国政協新年茶話会上的講話」『人民日報』二〇〇五年一月二日。
3 「国家主席胡錦濤発表二〇〇四年新年賀詞:創造世界和平繁栄的美好明天」『人民日報』二〇〇四年一月一日および胡錦濤「在全国政協新年茶話会上的講話」『人民日報』二〇〇四年一月二日。
4 「社論:奮進在全面建設小康社会征程上」『人民日報』二〇〇四年一月一日。
5 「社論:邁出全面建設小康社会的新歩伐」『人民日報』二〇〇五年一月一日。
6 「美学者:胡温威望日増」『文匯報』二〇〇五年一月一日および「美専家:胡温執政能力超想像」『大公報』二〇〇五年一月一日。
7 藤田洋毅「中国『地方幹部』大異動の正しい読みかた」『フォーサイト』二〇〇五年二月号八十八頁。
全国各地で民衆の騒乱が多発
 しかしながら、磐石といえるまでにはまだまだである。
 たとえば経済についても問題がなお多い。二〇〇四年は九%の経済成長率に収まったが、国家発展改革委員会の馬凱主任によれば、「マクロコントロールは顕著な成果をあげたとはいえ、経済発展を制約する一部の突出した矛盾はなお完全に除去されず、一部の新しい問題も出現しはじめ、経済発展に影響する深層レベルの矛盾問題はなお解決を待っている」1。たとえば「投資需要の圧力がかなり大きく、建設中あるいは新規のプロジェクトが多すぎ、投資膨張の衝動はなお強烈である」。また「物価上昇の圧力もかなり顕著で」、電力など「ボトルネック」の解決過程で「発電所プロジェクトなど無秩序な建設の現象が出現している」のである。
 温家宝総理は一月二十一日に国務院の第五回全体会議を開き、二〇〇五年の第一・四半期の政府活動について「七つの面の工作をしっかり着実にすすめる」ことを指示した2。その中で、「三農」工作を強化し、「固定資産投資規模をひきつづき抑制」し、「大衆、とくに困難な大衆の生産生活に関心を寄せる」ことなどを強調した。これらの問題はいずれも、これまで重点的に取り組まれてきたはずである。それがなお解決されていない、ということである。
 社会科学院の社会学研究所の李培林副所長によれば、いくつかの問題が「中国の発展を揺るがせかねない」3。たとえば「農民の失地」であり、いま中国は四千万人の農民が土地を失い、収入格差が「さらに拡大している」。失業問題も「長期的に困難に直面している」。毎年の都市就業人口は二千四百万人であるが、新規の就職先は九百万前後にすぎない。さらに幹部の「腐敗」問題、「エネルギー供給と環境受容能力」の矛盾、さらには「長期的な快速成長による社会心理の変化」を指摘し、とくに「拡大する貧富の格差が彼ら(低収入集団)の社会に対する態度と信頼にさらに影響すること」に懸念を表明するのである。
 こうした問題の解決に向けた「重要な指導思想」が「科学発展観」であり、その中で強調されるのが「和諧(調和のとれた)社会」である。経済発展は成果をあげたが、「発展の中で少なくない問題に遭遇した」のである。中国社会科学院社会学研究所副研究員で社会政策研究中心の副主任である唐鈞によれば、こうした問題の中心は「社会面での発展が早いところもあれば、発展が緩慢なところもあるが、その距離がさらに拡大する趨勢にある」点である。「中央は“和諧社会”の構築によって発展の中で不均衡、不調和の面を解決しようとしている」4
 しかしながら、「和諧社会」の取り組みはなおはじまったばかりで、社会に対する態度、政権に対する信頼が損なわれるとき、社会的不安や、政治的混乱も惹起されかねない。事実、二〇〇四年十月以後に、農民、「民工(出稼ぎ農民)」や少数民族など「弱勢群体」の騒乱が地方で多発していた5
 十月六日には深で「民工(出稼ぎ農民)」が幹線道路を封鎖し、十月十八日には重慶市万州で市民同士の衝突をきっかけに、批判が政府に向かって、区政府の庁舎を五万人が取り囲む事態に発展した。二十二日には安徽省蚌埠で退職労働者たちが年金引き上げを要求して、一万人以上のデモや道路封鎖の騒動を起こした。二十七日には河南省中牟で交通事故をめぐって回族と漢人が衝突して、七人が死亡した。十月下旬には四川省漢源で水力発電所の建設にともなって立ち退かされた農民たちが補償金の引き上げを求めて、十万以上のデモをくり返し、十日以上も騒乱がつづいた。十月末には内モンゴル自治区で、チンギス・ハーン廟の漢族への売却計画に反対するモンゴル族の学生が拘束された。十一月にも六日に広東省広州でウイグル族の露天商が店の撤去を求められ、騒動が発生した。十日には同省掲陽で橋の交通料の支払いをめぐる口論が住民三万人の騒乱に発展した。同日には雲南省硯山県で農民と警官の言い争いが騒乱に発展し、警官が発砲して二人が死亡した。十二月にも四日に広西チワン族自治区の欽州で大道芸人を役人が殴打したことをきっかけに、住民数百人が集まって派出所が襲撃された。五日には山西省万栄で、ひき逃げ事件の捜査を発端に「民工」が警察署を襲撃した。二十三日には広東省東莞で交通事故の処理をめぐって、「民工」が抗議のために一万人規模で終結する騒動に発展したのである。
 政権は漢源県のダム建設の中止を指示し、責任者の処分を行ったが、ほとんどの場合は報道を抑えている東莞市の騒動では首謀者を逮捕し、有罪判決を下したのである。
 

1 「発改委:宏調仍処関鍵期」『文匯報』二〇〇五年一月三日。
2 「国務院召開第五次全体会議」『人民日報』二〇〇五年一月二十二日。
3 「中国社会科学院副所長李培林:六大問題困擾中国」『中国青年報』二〇〇四年十二月十四日。
4 「“和諧社会”五問」『新華網』二〇〇四年十二月十六日。
5 たとえば重慶市万州区と東莞市の騒動については、『亜洲時報』二〇〇四年十二月十七日および「中国西部騒乱調査(五)・・・移民対政府長期不満」『多維郵報』二〇〇四年十二月十八日を参照されたい。
直訴は千万件で、解決は二万
 「和諧社会」といいながら、胡錦濤政権も民衆の抗議活動には極度の警戒感を示し、抑圧的な措置をとりがちである。香港の『太陽報』紙は二〇〇五年元旦にも、天安門広場で「上訪(直訴)」のデモ騒ぎが多発し、数百人が拘束されたと報じた1
 国務院は一月十日に、民衆による直訴にかんする規定である「信訪条令」を公布し、五月一日から施行することになった。これは一九九五年に公布された条令を改正したものである2
 国務院の法制弁公室と国家信訪局の責任者は、改正の理由として「信訪工作を制約する当面の問題」をあげる。第一が「信訪ルートが十分に通じておらず、ある地方や部門では信訪人が訴える問題に責任をとらない」、第二が「信訪問題の処理があちこちに転送され、転送されるだけで処理されず、責任も不透明で、効率が低下している」、第三が「信訪事項を処理する機関に対する監督レベルが不十分である」、第四が「大衆の利益を侵すような信訪問題を引き起こす違法な行政行為に対して、明確な責任追及のメカニズムが欠けている」、そして第五が「信訪秩序を破壊する行為に対して、現行条例には必要な規範が欠けている」ことである。
 改正条例は「信訪」の権利保護を明記し、行政機関の真摯な対応と「処理能力の向上」を求めてはいる。しかし、条例の改正点をみるかぎり、「信訪」への規制が目立っている。「近年、少数の人びとは上訪するとき、過激な方式を取り、国家機関を包囲したり、公用車を壊したり、公道や鉄道・交通を封鎖し、広範な信訪大衆の正常な信訪活動にすでに影響している。地元の社会公共秩序を乱し、地元大衆の工作や生活に不便を与えている」ことを重視し、こうした行為を禁止するとともに、「治安管理処罰」をあたえ、「犯罪」として刑事責任を問うことを明文化したのである。また「信訪」事項の提出先について「信訪人」の所属するレベルあるいは一級上の機関に限定し、集団での「信訪」については五人以内の「代表」による提出に限定したのである。さらに「信訪」事項について「客観的真実」であることを示す資料の提出を要求し、「捏造、事実の歪曲、誣告」などに対する「法律的責任」を明記したのである。
 国家信訪局の周占順局長は、『半月談』誌とのインタビューで、一九九三年以来一貫して信訪活動の「上昇現象が十年間つづいている」と認めた3。二〇〇三年の「信訪」件数は一千万件を超えた。とくに中央の国家信訪局が受理した民衆の「信訪」件数は、前年比で一四%も増加している。ところが一級行政区レベルでの増加は〇・一%にすぎず、地区級でも〇・三%で、県級では逆にマイナス二・四%であった。地元の政府機関への直訴では解決できない、との失望感が庶民を遠い北京の国家信訪局に行かせるのであろう。
 しかし、北京でも問題は簡単には解決してもらえない。「実際に信訪で解決した問題はわずか〇・〇二%にすぎない」。直訴しても、徒労に終わることが多いのである。農民問題の研究者である于建が率いる六人の社会科学院課題組は、二〇〇四年五月から十月にかけて最大規模の「上訪グループ」の調査を行った。課題組が六百三十二人の直訴のために北京に来た農民たちに実施した調査によれば、彼らが訪問した機関は平均で六カ所以上で、最多は十八カ所であった。国家信訪局、全国人民代表大会常務委員会、最高法院、党中央規律検査委員会、公安部、最高検察院、資源部、農業部、民政部などである。「信訪者は北京のあちらこちらに訴えに行くが、問題が実際には解決できない。この結果、かえって中央の権威に対する信頼が減退することになる」。
 于建は「信訪制度には重大な制度的欠陥が存在しており、きわめて深刻な政治的影響をもたらしかねず、徹底的な改革が行われなければならない」と主張した。国家信訪局も「現行の信訪制度には大きな問題がたしかに存在する」ことを認め、「信訪部門の権力が限定されていることもその一つだ」と指摘した。社会科学院の課題組による調査結果を受けて、国家信訪局は十一月四日に小規模の会議の開催を準備し、条例改正に動くことになったのである。しかし、その結果が今回の改正条例であり、庶民が訴える「信訪」問題の効果的、効率的な解決につながりそうにない。なお「和諧社会」の構築には程遠い。
 

1 「北京天安門元旦有数百上訪者被警方拘捕」『多維新聞』二〇〇五年一月二日。
2 「就《信訪条例》有関問題、国務院法制弁、国家信訪局負責人答記者問」『人民日報』二〇〇五年一月十八日および「信訪条例」『人民日報』二〇〇五年一月十八日。
3 趙凌「中国信訪制度実行五十多年走到制度変遷関口」『南方周末』二〇〇四年十一月十四日。
●12月の動向日誌
12月3日
*北京で中央経済工作会議開催。二〇〇四年の経済情勢の総括、来年の経済政策を協議。5日閉会。
6日
*粤海鉄道が開通。海南省・海口〜広東省・広州を結ぶ。*シュレーダー・ドイツ首相が訪中。北京で温家宝総理と会談。温総理、国連安保理常任理事国入りに賛意表明。
7日
*中国・聯想集団、IBMのパソコン事業を買収。
8日
*オランダ・ハーグでEUと中国の首脳会議。中国から温家宝総理が出席。EUの対中武器禁輸措置解除には至らず。
10日
*章啓月・外交部副報道局長、日本の「新防衛大綱」での中国脅威論に対し、強い不満を表明。
11日
*第六期立法委員選挙投開票。野党陣営が過半数を獲得。
13日
*イワノフ・ロシア国防相、北京で曹剛川・中国国防相と会談。二〇〇五年、初の中露合同軍事演習を中国領内で実施へ。具体的な時期等は明示せず。
15日
*李維一・中国国務院台湾事務弁公室報道官が記者会見。陳水扁総統の「脱中国化」路線を「人心を得られていない」と強く批判。
16日
*日本政府、李登輝・前台湾総統にビザ発給の方針を決定。武大偉・中国外交部副部長、阿南惟茂・日本駐中国大使を呼んで抗議。
20日
*マカオ中国復帰五周年。胡錦濤主席がマカオでの式典に出席。
24日
*温家宝総理、李肇星外交部長が訪中のジバリ・イラク外相と会談。復興支援に二千五百万ドル。
27日
*26日に発生したスマトラ沖地震に関連し、中国政府は総額二千百六十三万元の物資と現金の緊急援助を決定。
*中国国務院新聞弁公室、国防白書を発表。二年ぶり五回目。台湾独立の動きに関し、「一切の代償を惜しまず、徹底的にたくらみを粉砕する」と強く警告。
29日
*中国全人代常務委員会、「反国家分裂法」案を採択。来年3月の全人代第三回会議に上程へ。
小島朋之(こじま ともゆき)
1943年生まれ。
慶応義塾大学法学部卒業。慶應義塾大学大学院修了。
京都産業大学教授を経て現在、慶應義塾大学教授。同大学総合政策学部長。
 
 
 
 
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