2005年3月号 東亜
格差拡大に歯止めはかからず
慶應義塾大学教授
小島朋之
一九八九年六月の天安門事件の責任を問われて党総書記から解任された趙紫陽が、一月十七日に逝去した。趙紫陽をどう処遇するのかについて、政権はかなり神経質になったようだ。
神経質となったのは、天安門事件のきっかけとなったのが一九八六年末の「学潮」への同情的な対処を批判されて総書記を、事実上解任された胡耀邦の逝去であったからである。胡耀邦の逝去は八九年四月十五日で、その一週間後の二十二日に追悼大会が開かれたが、学生たちが彼の名誉回復を理由にして座り込みやデモ行進を繰り返し、それが民主化を求めて共産党政権を批判する運動につながったのである。当時の政権はこの運動を最終的に「反革命暴乱」と認定して、解放軍を動員して鎮圧しなければならなくなったのである。
時代状況は異なり、そうなる可能性は大きくないとはいえ、胡錦濤政権は趙紫陽逝去に際し、きわめて慎重に対処した。公式の追悼式は開かれず、もちろん彼の名誉を回復することもなかった。胡耀邦の場合、死去から一週間後に国家主席の楊尚昆が主宰して、 小平をはじめとして四千人が参列する大規模な追悼大会が開かれた。趙紫陽の場合は公式の追悼式はなく、逝去から十二日後の一月二十九日に多くの指導者たちが葬られる北京郊外の八宝山革命公墓で火葬されたことが報じられただけである。
火葬の際には「党中央の指導者同志を代表して」、党内序列第四位で政治協商会議主席の賈慶林、政治局委員で組織部長の賀国強、政治局候補委員で党中央弁公庁主任の王剛、副総理で国務院秘書長の華建敏が遺体の送別と親族への慰問のために公墓に赴いた。党中央の弁公庁と組織部、国務院や全国政治協商会議の弁公庁も花輪を送った。これを報じた新華社通信は、趙紫陽を「同志」と呼び、「党中央と国家の重要な指導職務を歴任し、党と人民の事業のために有益な貢献を行った」と肯定的に評価した。しかし、「貢献」を評価するのは「改革・開放の前期」に限定された。従来の評価を踏襲して、天安門事件を意味する「一九八九年春夏の政治風波の中で厳重な錯誤を犯した」ことを確認したのである1。
胡錦濤政権は発足当初は国民の「知情権(知る権利)」を尊重し、ニュース報道が「三貼近(実際に近付き、生活に近付き、大衆に近づく)」に努力することを強調していた2。ところが、解任されて表舞台から十六年間も姿を消したままの八十五歳の老人が逝去しても、功績に見合った追悼活動さえ規制する。「知情権」や「三貼近」を無視して、逝去の報道さえも抑制してしまうのである。それほどに、政権の安定性に自信がもてず、政権に対する国民の支持に確信を抱けないのかもしれない。
本稿では以下において、「過熱」の抑制が難しい経済情勢、格差拡大の縮小が難しい農業、農村、農民の「三農」問題の現状、政権が支持拡大をめざす中産階層の政治的地位などについて検討しておこう。
1 「趙紫陽同志遺体在京火化」『人民日報』二〇〇五年一月三十日。
2 「胡錦濤総書記主持召開中共中央政治局会議」『人民日報』二〇〇三年三月二十九日。
経済過熱はなお抑え込まれず
自信をもてないのは、これまで政権への国民の支持を確保してきた経済発展の先行きに政権も不安を感じていることが一因であろう。
二〇〇四年の経済成長率は九・五%で、食糧生産も一九九九年以後五年間連続の減少傾向を転じて、九%アップの四億六千九百五十万トンを記録した。対外貿易も好調で、輸出が三五・四%(五千九百三十四億ドル)、輸入は三六%(五千六百十四億ドル)の伸びであり、三百二十億ドル(昨年は二百五十五億ドル)の黒字となった。直接投資も実行額が六百六億ドルで、前年比で一三・三%増となった。
こうした速報値を発表した国家統計局の李徳水局長は、「マクロコントロールの強化と改善は顕著な成果をあげ、経済運営中の不安定で不健全な要素は抑制され、国民経済は安定的で比較的快速の発展の良好な勢いを保持した」と総括した。こうした「良好な勢い」を維持すれば、二〇〇五年も八・五%前後の成長率を達成できる。国家発展研究センターの王夢奎主任によれば、二〇〇六年からはじまる「十一五(第十一次五カ年)計画」期間も八%前後を存続でき、計画最終年の二〇一〇年にGDPは二兆六千億ドル、一人当たり一千九百ドルを達成できる。そして二〇二〇年にはGDPが五兆ドル以上で、一人当たりで三千五百ドルになると予想する。二〇〇二年十一月の十六全大会で示された二〇二〇年の中期目標値は一人当たり三千ドル程度であり、目標値が上方修正されたことになる。そしてこれで中国も「中等収入国ライン」に加わり、「さらに高い水準の小康社会」を実現することになるといわれるのである1。
しかし、二〇〇四年に「マクロコントロールの強化と改善は顕著な成果をあげ、経済運営中の不安定で不健全な要素は抑制され、国民経済は安定的で比較的快速の発展の良好な勢いを保持した」といえるのであろうか。
二〇〇三年の成長率は速報値段階で九・一%と発表されたのが、二〇〇四年七月になって九・三%に上方修正されていた。二〇〇四年の成長率の九・五%アップは、それを上回る伸びであった。第一・四半期(一月−三月)が九・八%で「過熱」傾向が警戒され、引き締めのためにマクロコントロールが強化された。その結果、第二・四半期(四月−六月)に九・六%、第三・四半期(七月−九月)に九・一%に低下した。しかし、第四・四半期(十月−十二月)にはまた九・五%に上昇したのである。経済「過熱」はなお抑え込まれていないのである2。
「過熱」をもたらした最大要因はいぜんとして投資にあり、固定資産投資額は前年の二六・七%を一・九ポイントほど下回ったとはいえ、なお二五・八%の伸びであり、名目GDPの六〇%近くを占めている。「過熱」は物価にも影響し、消費者物価は前年の一・二%から三・九%に急上昇した。住宅など不動産価格も九・九%に上昇していたのである。
1 「央行料今年経済増長八・五%」『文匯報』二〇〇五年一月十五日および「王夢奎在全国政策諮詢工作会議上説二〇一〇年人均GDP将達一九〇〇美元」『人民日報』二〇〇五年一月十九日。
2 「国家統計局:二〇〇四年中国経済保持平穏較快発展」『新華網』二〇〇五年一月二十五日。
格差拡大の縮小はなお難しい
いま胡錦濤政権が「科学発展観」を掲げて、社会安定の確保に向けてもっとも力を入れて取り組んでいる格差拡大の縮小についても、なお顕著な効果はあがっていない。たとえば都市と農村の収入格差の拡大である。農民の収入は一九九七年以来、連続して「低位を徘徊してき」ており、二〇〇三年には都市と農村の収入格差は史上最大幅を記録していた1。
政権は「三農問題」を党・政府工作の「重中之重」と位置づけ、二〇〇四年には一九八六年以来久しぶりに農業問題での第一号文件を通知した。一号文件は農民の収入増に向けた政策措置、農業税率の引き下げ、煙草を除く農業特産税の取り消し、食糧作付け農民への直接補助や農機具購入への補助、耕作地の保護、農業投資の増加などの実施を指示した。
これらの新しい政策と措置は、「農業発展と農民増収」を促進したといわれる。統計によれば、「両税」減免だけで農民負担が三百二億元も減らされ、食糧作付け農民への直接補助は二十九省の六億人の農民に百十六億元の直接利益をあたえた。農機具購入に対して中央財政は七千万元を、地方各地の財政も四億元の補助金を支出した。通年では、財政による農業支援は前年比で三百億元ほど増加した。土地収用補償費で百四十七億七千万元、民工賃金の未払いの清算についても三百二十五億元が支出されたのである2。
その結果、二〇〇四年の農村の一人当たり純収入は二千九百三十六元となり、伸び率は二〇〇三年の四・三%から六・八%に急上昇した。一九九七年以来、最高の伸び率を記録したのである。しかしながら、都市は住民の可処分所得の伸び率が前年の実質九・三%から低下したとはいえ、七・七%(九千四百二十二元)もあった。格差はいぜんとして縮小せず、拡大傾向になお歯止めはかかってはいないのである。
「天下第一村」といわれる江蘇省の華西村は二〇〇四年に販売収入が前年比で倍増して二百六十億元となり、中国最初の販売収入二百億元突破の村になった。一千五百人の村民一人当たりの収入も倍増し、一人当たり平均で八万元である。ただし、これは例外中の例外である3。したがって、「二〇〇四年に『三農』の成果は人びとを鼓舞したが、二〇〇五年の『三農』情勢はいぜんとして厳しく」、「わが国の食糧総合生産能力はなお向上を待たなければならず、農民増収を制約する体制的な障害はいまだに除去されず、資源と市場の二重の束縛は激化し、農業全体の効益の向上はなお遠く、食糧の安定的増産、農民の持続的増収を実現する難度はなお大きい」と報じられるのである。
したがって、二〇〇五年も、また一号文件は「三農」問題である。「三農」問題について、基本的な厳しい状況に変わりがないことが確認されるのである4。
「農業はいぜんとして国民経済発展の脆弱なキーポイントの一つであり、投入が不足し、基礎が脆弱な状況は改善されておらず、食糧増産、農民増収の長期的な効果的メカニズムが構築されておらず、農業と農村発展の深層レベルの矛盾は除去されず、農村経済社会の発展が明確に停滞の局面は根本的に改善されず、農村の改革と発展はいぜんとして難しい境界と難関段階にあり、農村発展の良好な傾向を保持する任務はまことに厳しい」。
1 「農業和農村経済発展呈現新気象」『人民日報』二〇〇四年一月六日。
2 江夏「二〇〇五:農民増収何処着力?」『人民日報』二〇〇五年一月五日および「国務院召開清理建設領域施欠農民工工資和施欠工程款座談会」『人民日報』二〇〇五年一月七日。
3 「華西村銷售收入超二〇〇億元」『人民日報』二〇〇五年一月九日。もちろん、格差は都市と農村の間だけでなく、都市の内部でも拡大している。都市内部でも格差は拡大している。たとえば北京では一人当たりの収入格差は二〇〇〇年の三・一対一から二〇〇三年には四・七対一に拡大している(「北京報告:貧富差距拉大人均住房十八・七平方米」『新京報』二〇〇五年一月九日)。
4 「二〇〇五年中央一号文件:提高農業総合生産能力」『新華網』二〇〇五年一月三十日。
私営企業家の三分の一が党員
労働者とともに農民は中国共産党を支持してきた中心的な階級であり、それゆえに共産党は労農階級の「先鋒隊」であった。その労農階級の多くが経済発展から取り残され、「弱勢群体」となり、共産党政権への信頼と支持を失っていくことはなんとしても回避されなければならない。それゆえに「三農問題」への真剣な取り組みが強調されるのであろう。しかし同時に経済発展を至上命題とする共産党政権にとって、経済発展から生まれ、経済発展を推進してきた中産階層の支持も取り込まなければならない。江沢民が二〇〇〇年に提起した「三個代表」論はまさにそうした意図をもち、共産党を労農階級の利益を代表する階級政党から、中産階層をも包摂した「もっとも広範な中国人民の根本的利益を代表する」国民政党に変身することを正当化する理論的試みといってよい。
問題はそれがどこまで功を奏しているかである。たとえば、私営企業家は中産階層を構成する有力な存在である。二〇〇四年前半段階で、私営企業はすでに三百三十四万社で、資本金は四兆元あまりで、従業員も四千七百十四万人を上回っている。一九九三年から二〇〇三年の十年間で私営企業数は三十三倍、従業員数は十一倍以上も増加し、生産総額は一九八九年と比較して四十八倍も増加している1。私営企業の一社当たりの従業員数は百四十三人で、二〇〇一年から六・八八%増である。私営企業の資本金の平均も百十七万元で、二〇〇一年から二四%増である。
この私営企業家に対して、党中央の統一戦線部、全国工商連合会と中国民(私)営企業研究会は共同で「中国私営企業研究」課題組を組織し、一九九三年から抽出調査を開始している。その後、九五年、九七年、二〇〇〇年と二〇〇二年にも実施し、二〇〇四年に第六回目の調査を行った。今回は質問票を三千六百七十人に配布し、有効回収率は八二・一%であった2。
調査によれば、平均年収が二十万元(約三百万円)の私営企業家の最大関心はもちろん本業の「企業の発展」であり、「政治への訴求は明瞭ではない」。しかし同時に「日常生活の中でよき個人で企業というイメージを確立し、社会的エリート(賢達)となる」ことを希望する回答が七五・五%に達している。
私営企業家が共産党に入党する割合も「近年になって素早く上昇し」、私営企業家全体の三三・九%に達している。ただしこの十数年来で、大量の党員幹部や党員知識分子が「下海(国有企業や国家機関などを辞職)」して私営企業家に転進するようになっていたのであり、非党員の新たな入党者がどの程度であるのかは分からない。むしろ、政権が期待するほどには、私営企業家からの新規入党者の割合は多くないかもしれない。
今回の調査結果によれば、私営企業家の多くは政治への関与について慎重で、「党・政指導との良好な関係」の確保に注意する。しかし同時に、「統一戦線を主とした参政方式」を中心としながら、「人民代表大会の代表や政治協商会議の委員になる」選択を「かなり重視している」。調査対象の三三・六%が各レベルの政治協商会議委員である。
ところが、政策決定に直接関与できるポストに到達する私営企業家は、党員を含めてまだまだ少ない。党や政府など指導機構で指導的なポストを兼職している事例はきわめて少数である。郷鎮クラスで〇・八%(二十八人)、県クラスで〇・三%(十一人)、地区クラスで〇・三%(十人)、一級行政区クラスでは〇・一%(三人)にとどまっている。
1 「我国私営企業発展迅速」『新華網』二〇〇五年二月十三日。私営企業はとくに東部沿海地域で発展しており、たとえば広東省では個体工商戸と私営企業は過去最高を記録し、個体戸はひきつづき全国第一位、私営企業も全国第二位である。二〇〇四年末で個体戸は百九十六万、私営企業は三十八万九千八百社で、それぞれ二〇・六%、二三・六%増である(「広東個体私営経済発展迅」『新華網』二〇〇五年二月十二日)。
2 「中国私営企業調査報告人均年収入二十万」『人民網』二〇〇五年二月三日および「調査顕示:1/3私営企業主是中共党員」『新華網』二〇〇五年二月十二日。
3 2に同じ。
政府提案も人代で否決される
なお、彼らの「社会的エリート」としての政治的意欲は十分には満たされていないのである。彼らの支持を確保するには、政権はこうした意欲にも応えなければならない。
対応が国民の意向を反映したものでなければ、政権に対する批判も強まりかねない。すでにそうした動きは「弱勢群体」による抗議活動となり、そしてそれが一部地方では騒乱にまで発展している。また共産党政権の意向が徹底的に貫徹しているはずの人民代表大会での審議にまで波及している。
二〇〇一年二月に瀋陽市の人民代表大会(第十二期第四回会議)で、中級民人民法院が提出した工作報告が過半数の賛成票をえられず、人代常務委員会で継続審議されることになってしまった1。憲法学者は「これは中国民主政治のモデルとなる事件」で、「好ましい現象」であると肯定的に評価した。しかし、こうした現象は人代で圧倒的多数を占める党員代表への党議拘束さえも効かなくなっているということを意味し、共産党政権にとっては深刻である。政権の統治能力の低下といえなくもないからである。
こうした現象が地方各地の人代でみられるようになっている。二〇〇三年六月には湖北省の襄樊市南 県の人代常務委員会で副県長による政府報告が会議に出席した十八名の委員のうちで、わずか三名の委員の賛成しかえられずに否決されてしまった。湖北省では、史上はじめての否決であった2 2。二〇〇四年十二月には、杭州市の人代は、政府が年初に提出した消費者物価上昇率の「二%以内」を「三%」に変更するとの提案を否決してしまっていたのである 3。
1 「専家称瀋陽人大不通過是民主政治的標志性事件」『中国青年報』二〇〇一年二月十六日。
2 陳峰「湖北襄樊市南県人大否決政府報告引起輿論関注」『南方都市報』二〇〇三年七月二十六日および陳峰「南県:人大否決政府報告」『浙江人大』二〇〇三年第九期。
3 李甘林「一个得称道的人大否決先例」『中国経済時報』二〇〇四年十二月二十一日。
●1月の動向日誌
1月2日
*年末年始を日本で過ごした李登輝・前台湾総統が離日。日本滞在中、政治的発言を控える。
6日
*スマトラ沖大地震と津波被害の復興支援策緊急首脳会議開催。中国から温家宝総理が出席。温家宝総理、小泉総理が会場で立ち話。救援・復旧に向けた協力強化で一致。
11日
*中国商務省、〇四年の貿易収支速報を発表。年間輸出入総額、前年比三五・七%増、約一兆一千五百四十七億ドル。米国、ドイツに次ぎ三位へ。
15日
*マカオで中台航空当局者が実務協議。春節休暇時の直行チャーター航空便運航で合意。中国航空機の台湾乗り入れは(ハイジャックを除き)中台分断後初。
17日
*趙紫陽・元総書記が死去。新華社が速報、『人民日報』等で報道されるが、テレビ・ラジエオでは触れられず。
18日
*孔泉・中国外交部報道局長が会見。趙紫陽元総書記と八九年の天安門事件に対する再評価は行わないとの見解。
*中国人八人、イラク国内で武装グループに拉致、拘束される。
20日
*新疆ウイグル自治区でバスが爆発、乗客十二人死亡。*韓国・ソウル市庁が中国語表記を「漢城」から「首爾」に変更。中国側は認めず。*中国とグレナダが国交回復。李肇星・中国外交部長とニムロド・グレナダ外相が共同コミュニケに調印。中国、グレナダに経済援助実施へ。
24日
*福岡一家殺害事件の元留学生の楊寧被告、共謀の元日本語学校生の王亮被告に対し、それぞれ死刑と無期懲役の判決。遼寧省遼陽市中級人民法院(地裁に相当)。
25日
*〇四年の中国GDP成長率は前年比九・五%国家統計局が発表。*北京で中国主催の地震国際会議開催。地震津波警報システム構築などを議論。ASEAN、日米韓の防災担当者等が参加。26日閉幕。
26日
*財務省、〇四年貿易統計速報を発表。中国(香港を含む)が日本の最大の貿易相手国に。米国を抜く。
29日
*春節期間中の中台直行チャーター便が運航開始。*故・趙紫陽元総書記の葬儀。北京・八宝山で。 小島朋之(こじま ともゆき)
1943年生まれ。
慶応義塾大学法学部卒業。慶應義塾大学大学院修了。
京都産業大学教授を経て現在、慶應義塾大学教授。同大学総合政策学部長。
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|