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2002年10月号 外交フォーラム
国交正常化三〇年─「一九七二年体制」を超えた日中関係を求めて
国分良成
慶應義塾大学教授
情念型の関係に終止符を
 本年九月二九日、日中両国は国交正常化三〇年を迎える。今年日本は「中国年」でもある。各方面でこれを記念する行事が数多く開催され、空前の規模の相互訪問団もあると聞く。かなりの人と資金が投入されているにちがいない。しかし新聞やテレビなどがこれらをニュースとして報道することはあまりない。一般の関心はきわめて低いとの判断がメディアの側にあるのだろう。逆に、瀋陽総領事館や不審船引き揚げ、もしくは靖国など、日中間を揺るがす問題群の報道のほうがはるかにわれわれの目を引く。また、中国あるいは日本の対中姿勢に対する攻撃的な記事の見出しばかりが躍るようになった。残念だが、これが日中国交正常化三〇年の現実である。
 もちろん過去の一〇年刻みの記念事業が、必ずしも平坦であったわけではなかった。一〇周年を迎えた一九八二年夏には最初の教科書問題が巻き起こり、その数カ月前にあった趙紫陽首相訪日後の友好ムードが一挙に崩れたが、秋の鈴木首相訪中でどうにか関係を修復することで雰囲気を改善した。天安門事件の余熱がまだ完全に冷め切らない二〇周年の一九九二年には、記念事業の柱であった天皇訪中の是非をめぐって日本国内で議論が吹き荒れたが、どうにか実現へとこぎつけることで乗り切った。ただ過去においては、こうした問題が発生しても、記念行事を活用することでこれらを乗り切る力がまだあったことも事実である。
 ところが今回の三〇周年は、いまのところ型どおりの行事だけが淡々と予算消化されているようだが、日中間のさまざまな軋轢を解消するための有効な力とはなりえていないし、そのための斬新な発想や仕掛けがちりばめられているわけでもなさそうだ。小泉首相の公式訪中は現段階では延期ということだけが決まっており、宙に浮いたかたちである。たしかに三〇周年は一つの区切りとして重要だが、三一年目が三〇年目より重要でない理由もない。日中関係もそろそろ何周年記念から卒業した、より日常的な関係の構築に専心しなければならないときにきているのだろう。言い換えれば、日中関係は「量」から「質」の時代に入ったのであり、より成熟した大人の関係に脱皮しなければならない。
 思えば一九七二年以来の日中関係は「一衣帯水」の「善隣友好」として位置づけられてきた。たしかに両国間にはさまざまな思いや障害が存在したが、戦争という不幸を繰り返すまいとする暗黙の了解からか、「日中友好」の合言葉の前に諸問題に対する必要以上の追求を抑えてきた。だが「日中友好」のスローガンが圧倒的な威力を発揮した時代は終わった。無条件的に「友好」を合言葉に乾杯を重ね、酒とともに胸のつかえを押し流す、いわば情念型の日中関係は終わりにしなければならない。
 一九七二年から現在にいたるまで、日本では中国に対する楽観的なブームが何度となく巻き起こっては、その後一挙に悲観論へと転換するというパターンを繰り返してきた。まずこのあたりの歴史的軌跡を振り返ることで、日中の底流にある情念型関係のひ弱さの問題性について浮き彫りにしてみたい。
「中国ブーム」の陥穽
 この数年、日本では中国に対する異常といえる投資熱が起きている。特に製造業中心に、中国への移転を考える企業が非常に増えている。企業によっては現地工場を東南アジアやその他の地域から中国に移すケースも増えている。筆者は一九七二年の日中国交正常化以来、日本においては過去に四回の中国ブームがあり、今回が第五回目であると考えている。
 第一回目は一九七二年の日中国交正常化である。これは七二年二月のニクソン訪中のあと、日本国内で中国との「国交回復」の気運が異常なほどに盛り上がり、佐藤栄作首相退陣のあとをうけて行なわれた自民党の総裁選では、対中国交正常化を第一政策課題として掲げた田中角栄がそれにやや慎重であった福田赳夫に完勝し、首相の座に就いた。そして首相就任直後の九月二五日、田中角栄は中国を訪問し、世論をバックに一挙に国交を正常化させ、台湾の中華民国との外交関係を断絶した。このあとパンダ・ブームが到来するなど、中国に対するブームはしばらくつづいた。しかし七四年に田中首相が金権スキャンダルで辞任したことに歩調を合わせるように、ブームも下火となっていった。
 第二回目のブームは一九七八年の日中平和友好条約の締結後である。これに先駆けて日中の民間レベルでは、同年二月に両国の経済関係の方向性を盛り込んだ長期貿易取り決めが締結されていた。そこでは中国は日本に石油を輸出することで外貨を獲得し、日本は中国に先進的プラントを輸出するという方向での合意ができあがっていた。七八年は中国の経済近代化路線が定着した年でもあり、日本企業は一挙に中国への進出を開始した。そのときの友好のシンボルとされた宝山製鉄所に対して、両国政府の肝いりで新日本製鉄が全面援助を行なったのもこのときであった。ところが石油の減産や財政赤字・インフレなどを理由に、一九八〇年末から八一年初頭にかけて中国はこれらのプラント契約を中断する旨を日本はじめ関係国に通達することで、ブームは一挙に中国悲観論へと変わった。その後中断された契約の復活のため、円借款(政府開発援助:ODA)が大幅に導入されることとなった。
 第三回目のブームは一九八四年に中国で経済改革が急速に進むと同時に、沿海諸都市の大幅な対外開放を決定したことで、中国に海外からテレビ、冷蔵庫、洗濯機などの耐久消費財が流れ込み、日本製品が中国の一般家庭で売れはじめたときである。ただこのブームも、日本製品の過度の流入と一九八五年の中曽根首相の靖国神社公式参拝が重なって日本製品の不買運動などが起こり、徐々に立ち消えとなっていった。
 第四回目は一九九二年の小平による南巡講話と社会主義市場経済宣言のあとである。これは天安門事件とソ連解体をうけて小平が中国の生き残りをかけて市場経済への扉を決定的に開けることで経済の活性化をねらったものだが、その効果は絶大で日本だけでなく世界の多くの企業が中国市場への進出を急いだ。日本の場合は円高がこの勢いに拍車をかけた。結果として九〇年代前半に年率一〇%を超える経済成長がもたらされ、国際通貨基金(IMF)や世界銀行などは、中国が二一世紀世界を陵駕するであろう可能性を示唆した報告書をつぎつぎと発表した。ところが九〇年代後半にいたると、中国における投資環境の問題露呈やアジア金融危機あるいは台湾海峡危機などによって、日本企業も含めて海外企業が撤退を開始し、ブームは消え中国に対する悲観論が漂った。
現在の対中投資ブームとその背景
 第五回目となる中国ブームがいま日本で起きている。多くの日本企業が中国進出を考え、実際にこの動きが加速しつつある。ただこうした中国ブームの反面、日本では「中国脅威論」も根強い。今回の「脅威論」は軍事・安全保障面というよりむしろ経済面である。中国から安価な製品が日本市場に流入して、日本国内の製品が駆逐されてしまうとの不安感である。中国への産業移転と中国製品の日本国内への流入から、日本の産業空洞化に対する懸念も強まっている。
 つまり中国ブームといっても、今回のそれは中国市場に対する強い期待からというより、別の要因が働いている。それは一言でいえば、日本の不況が企業を中国へ向かわせているということである。一般的に、日本企業の急激な中国進出は世界貿易機関(WTO)加盟との関連で論じられることが多い。しかしこれには綿密な検証が必要である。筆者はこれがWTO加盟よりも、むしろ日本の深刻な不況との相関のほうが強いと見ている。
 日本企業の中国投資は一九九九年まで大幅に減少したあと、二〇〇〇年に契約べースで三六・八億ドル、前年度比四二%増加し、二〇〇一年にも五四・二億ドルで前年度比四七%伸びている。これをアメリカやヨーロッパと比べると、アメリカは二〇〇〇年に契約額で八〇億ドル、前年度比三三%伸びたが、二〇〇一年にはそれが七五・一億ドルで前年度比六%と減少しはじめた(各数字は三菱総合研究所編『中国情報ハンドブック』二〇〇二年版、蒼蒼社、などの資料を参照)。ヨーロッパでも、ドイツが二〇〇〇年に二九億ドルで前年度比二〇九%の異常な伸びを示したあとをうけてか、二〇〇一年には前年度比約六〇%も減少している。フランスも二〇〇〇年に前年度比三五%の伸びを示したあと、二〇〇一年には約一一%減少している。つまり日本の場合、二〇〇〇年から急激な伸びを示しはじめたのに対して、欧米は二〇〇〇年をピークに二〇〇一年にはそれまでの過剰投資もあってか慎重姿勢に入りはじめた。
 進出した産業の構成を見ると、その違いはさらに明白となる。欧米企業の場合、二〇〇〇年までにさまざまな企業が中国進出しているが、多くは先進的産業であるIT関連、自動車、金融、保険、サービス業などである。それはつまりWTO加盟後の中国経済をにらんでの先行投資である。そして二〇〇〇年にはそうした先行投資は基本的に終わり、二〇〇一年には投資控えがはじまったといえる。ところが日本の場合、こうした先進的部門は少なく、ようやく最近はじまったばかりである。とくに日本の多くの銀行が不良債権被害にあったGITIC(広東国際信託投資公司)事件の余波からか、金融関連が少ない。というより、欧米にやや遅れて勢いづきはじめた日本の投資の場合は、そのほとんどがありとあらゆる分野の製造業であり、その多くが中小企業である。
 要するに日本の場合の中国進出は圧倒的に製造業であり、それは中国のWTO加盟を射程に入れての綿密な分析に基づくものというより、ひたすら日本の構造不況が安い労働力を求めて製造業を中心に中国に移動させているのが現実である。こうした中小企業の多くが日本でこのまま縮小か倒産するより、厳しいのはわかっているが中国へ行って挑戦するほうがよいと考えている。欧米の投資は上海などの高層ビルでの洗練されたホワイトカラーの仕事が多いが、日本をはじめ韓国や台湾の企業の投資はその多くが製造業である。ただし、これはより多くの雇用を創出している点で、中国経済の基礎部分の安定化と技術移転に貢献しているといえる。
 日本の産業空洞化の問題についても簡単に触れておきたい。これに関連して去年、日中関係ではいわゆる農産品のセーフガード問題が起きた。これは中国から輸入される安い長ネギ、生シイタケ、畳表の三品目が日本の生産者を圧迫しており、国内産業を守るために保護措置としてセーフガードを発動すべきだとして、農林族の政治家たちが圧力をかけた事例である。族議員たちは、来るべき参議院選挙をにらんでこの問題を取り上げたのであった。そしてこうした圧力のもと、政府は二〇〇一年四月、この三品目についてセーフガード暫定措置を発動した。ところが六月には、中国が報復措置として、日本からの自動車、携帯電話、空調の輸入に対して一〇〇%の輸入特別関税を課すこととなった。最終的には、日本側がセーフガードの確定措置に移行しないことで、中国も報復措置を取り下げ、このケースは一件落着した。
 これは一見すると、日中関係の問題であるが、現実には日日関係の側面も大きい。というのも、こうした農産品にせよ、日本の総合商社や流通業界が中国の農家で日本式の技術指導をすることで安価な生産を実現し、それを日本に輸出するケースが多いからである。つまりこの問題は、日本国内のどの産業を育成し、どの産業を淘汰させるかの問題であり、結局は国内の政治的イニシアティブの問題でもある。いずれにせよ、これもまた日本の深刻な不況に関連した問題であった。
相互依存下の微妙な関係
 日中関係の現在の様相をどのように理解したらよいのであろうか。もちろん両国の間には、決定的に対立するような要素や可能性が眼前に広がっているわけではない。それにたとえ摩擦が発生しても、依然として関係修復へ向けての危機バネが両国間にはある程度効いている。
 しかし最大の問題は、「嫌日感」と「嫌中感」つまり両国民に広がる相互イメージの悪化である。これは将来の関係を占う一つのバロメーターだからである。日本のアニメやゲームソフト、自動車や耐久消費財、日常の生活用品から高級品まで、そして回転寿司をはじめとした食生活、それにファッションにいたるまで、中国の都市では日本のあらゆる文化が溢れている。ところが中国の街で市販される情報誌やインターネットの書き込みには、反日言論が溢れている。つまり日本の製品や文化の拡散にもかかわらず、一般の中国人の日本イメージは一向に好転しないどころか、ときとして強い反日意識が剥き出しとなる。
 日本でも対中イメージがなかなか好転しない。政府の世論調査によれば、中国イメージの低下は一九八九年の天安門事件以来のことであり、近年にいたると「親しみを感じる」と「感じない」の割合がほぼ拮抗している。ちなみに二〇〇一年秋の調査では「親しみを感じる」が四七・五%、「親しみを感じない」が四八・一%であった(内閣府大臣官房政府広報室『外交に関する世論調査』〈平成一三年一〇月〉参照)。
 これらのデータを過去と比較すると面白いことに気づく。過去に中国に対して「親しみを感じる」割合が最高だったのは一九八〇年で七八・六%、その年の「親しみを感じない」は一四・七%であった。冷静に考えれば、一九八〇年といえば日本と中国の接触はまだ微々たるものであった。この年の日本人の中国訪問者数は約七万人、中国からも二万人に満たなかった。それが最近では日本からの中国訪問者が約一五〇万人、中国からも四〇万人を超えている。日本の対中直接投資を見ると、一九七九年から八三年までの五年間で契約が二七件、九・五億ドルにしかすぎなかったものが、二〇〇一年の一年間だけで二〇〇〇件、五四億ドルを超えている(各数字については前掲『中国情報ハンドブック』二〇〇二年版、などを参照)。つまり相互依存が飛躍的に増大した結果、イメージの複雑化を招いている面があると考えられるのである。皮肉な言い方をすれば、かつては直接の接触が比較的少なかったために「日中友好」が成り立っていたともいえる。
 日本の中国研究の各分野ではすでに中国人研究者によってかなりの部分が支えられており、それ以外の理工系を中心としたさまざまな分野や大学の研究職や教職においても中国人の存在感が急速に拡大している。こうしたプラスの効果ばかりでなく、このところ来日外国人の犯罪者数が増大して毎年一万六〇〇〇人を超えているが、そのうちの四〇%以上が中国人であるなど、マイナスのトランスナショナル現象も存在する。こうしたことが連日ニュースで報道されれば、一般の日本人の中国イメージに与える影響も無視できない。
 相互依存が拡大すると、一般に協調関係も増大すると思われるが、日中の場合なぜ摩擦の側面が際立つのであろうか。そこにはより構造的な問題が潜んでいるように思われる。筆者はそれが国交正常化以来形成されたいわば「一九七二年体制」の構造転換であり、新たな関係の体制が成立しえない不安定な状態であると考える。「七二年体制」を支えていた要素とその変化はつぎのようにまとめられよう(「七二年体制」に関して、筆者は別に詳しく論じたことがある〈『国際問題』二〇〇一年一月号〉)。
「一九七二年体制」の構造転換
 第一に国際秩序の変化である。一九七二年の日中国交正常化はその直前の米中和解を背景に実現した。米中デタントはソ連に対抗するものとなり、日中関係の確立は実質的にこの連携に日本も加わることを意味した。つまりこれはソ連に対抗した日米中の連携となった。しかし一九八九年の冷戦終結と天安門事件の発生により、三国を結びつけていた共通の対抗目標が失われたことでこの構図は無効となった。前提の変化は日中関係の基礎にまで影響を与えることとなった。
 第二にそれとの関連で中国の位置づけについての変化である。冷戦終結まで、日米両国は中国の現代化がこの地域の安定と繁栄にとって不可欠と考え、国際社会への参入を積極的に支援するという点においてコンセンサスを有してきた。それはソ連を主要敵とする冷戦という外的構造と、中国の将来的不透明という内的構造の結びつきによって可能となった政策選択であった。日本の対中円借款もこの枠のなかで考えられたものであった。しかし冷戦が終結し、WTOに加盟し台頭をつづけ自己主張を強める中国の前に、日本の世論も迷いはじめている。巨大な中国が国としては発展途上であることを認めても、上海をはじめ沿海の諸地域はすでにそうではなくなりつつある。このあたりの微妙な変化をどうとらえるかわれわれの中国観の新たな確立が迫られている。
 第三に世代の交代である。日中国交正常化は米中和解という外的要素だけでなく、日本国内に根強くあった国交回復運動の結果でもあった。自民党のなかにすら、こうした運動に深く関わった政治家がかなりいた。かれらの多くは、過去の日本の侵略と戦争に対する贖罪の意識から出発し、中華人民共和国成立後、大陸との関係が断絶したことに無念の想いを抱いていた人たちであった。七二年以後も、かれらは日中間で問題が発生すると、さまざまなネットワークを駆使して関係の正常化に奔走した。中国側にもこうした人々につながる日本通がかなりいた。ところが現在七〇代以上となったこの世代の多くはすでに一線を退いたか、あるいは他界している。若い世代はお互いにそうした特殊な感情を抱いていないため、関係構築のために身を粉にして働く人材も少ないし、ネットワークも弱い。
 第四にそれとの関連で両国の国内政治の及ぼす影響の大きさである。日本の場合、日中関係を中心的に支えてきたのは、自民党の田中角栄派であった。かれの引退後、日中関係を支えてきたのは田中派出身の竹下登であった。それ以後も野中広務のような橋本派につながる旧田中派の幹部を中心に日中関係の基礎が支えられてきたが、現在では「日中友好」のために身を挺して動くような強い政治的結集力はなくなりつつある。
 中国側も同様である。毛沢東、周恩来、小平の時代でも数多くの問題が日中間で発生したが、最後にはこうしたリーダーたちが関係の悪化を防ぐための最後の決断を行なってきた。ところが九〇年代以後の江沢民時代に入り、社会の多元化と共産党の指導力低下に合わせるように日本の歴史問題を過度に取り上げることで愛国主義を鼓舞することがしばしばあった。江沢民自身も日本に対して特別な個人的思いがあるともいわれ、一九九八年の訪日では歴史問題を前面に振りかざした。だがこれが日本で非常に不興を買うと、中国当局は対日関係の見直しをはかりはじめ、徐々に柔軟姿勢を取るようになった。だが国内の政治権力や政策過程の現実からいえば、「親日」は少なくともプラスにはならない。この点は対米姿勢と根本的に異なる。江沢民からして明確に「親米」である。
 第五に台湾問題がある。一九七二年に日本が中華民国と断交したさい、国内でそれに強く反対したのは一部の保守勢力だけであった。このとき日本人のほとんどが中華人民共和国との国交正常化を熱狂的に支持し、台湾の中華民国という存在が脳裏から消えていた。ところが現在、状況は大きく変わった。もちろん日本が台湾の中華民国と外交関係を回復することは現状ではありえない。だが日本人の台湾に対する親近感は増大しつづけているし、台湾においても親日感情がいたるところに見られる。それは単純に李登輝前総統が熱狂的な親日派であったというだけでなく、かれの時代に確立された台湾における民主主義の発展が大きい。いまや日本と台湾の間では自由にサブカルチャーが行き交い、あらゆる情報が自由に飛び交うようになり、さまざまな交流が拡大深化している。しかしこうした日本と台湾の相互の親近感から、中国は過度に双方の歴史的紐帯を意識し、それを危機としてしか受け取らない。ここに台湾問題をめぐる日中関係の微妙な変化が存在している。
現実に根ざした関係の構築を
 「沈む日本、昇る中国」、アジアに関する世界の国際会議でこれがしばしば話題となっている。「世界の耳目は日本から中国へ」、率直にいえばこの流れは加速している。そうした雰囲気を反映してか、自虐的な自信喪失論か、または世界の視点をもたない日本唯我独尊論がこの国の空気を覆っている。その脇ではさらに中国の台頭が叫ばれ、「中国大国論」と「日本空洞化論」がメディアをにぎわせる。それが日本のナイーブな状態と心理を刺激して「嫌中感情」をかもし出す。
 中国の対日世論もどこか歪んでいる。一般の中国人の日本像は一九四五年八月一五日以前の「日本軍国主義」で止まったままだ。戦後の日本の経済成長については賛美するが、それが民主主義体制のもとでの成果であった点についての認識は欠落している。日本が半世紀以上にわたって一切の軍事行動を起こしていないことについても理解が足りない。一つの歴史問題から即座に「日本軍国主義復活」となるたびに、一般の日本人は現実との乖離から中国の認識自体に違和感を抱くことになる。
 当たり前の結論だが、日中ともに相互理解が足りない。相互理解というのは、相手に対する認識だけではなく、自己認識も含めていうのである。日本はすでに経済成長によって豊かさを実現し、同時に民主主義も実現した国であるのに対して、中国にとってはすべてが今後の長期目標である。この非対称な二つの国を単純に同一座標軸で比較しても意味はない。そして中国では多くの人が、やがて日本は経済再生して大国化し、政治的にも絶大な役割を果たして中国の台頭を抑えようとするとの被害者意識に燃え、日本では多くの人が、やがて中国は経済的にも政治的にも大国化して、日本を見返すために押さえつけるとの被害者意識に燃えている。
 結局のところ、いずれの議論とも情念の世界が交錯し、現実にもとづいた冷静な分析から出発していない。きわめて客観的にいえば、日中両国は相互に妬み合ったり、被害者意識に燃えている余裕などないはずである。それぞれの内政はそれほどに切迫している。日本では経済再生へのシナリオが依然として不透明なままだし、中国では成長の光と影があまりに明確になりすぎているにもかかわらず、有効な施策がとられていない。むしろ日本の再生は中国にとってプラスとなるし、中国の健全な成長は日本の再生にとってもプラスとなる。それが相互依存世界の利害の現実であり、少なくともそうした方向を模索しなければ残るのはゼロサムの世界である。日中関係には、実態としての運命共同体化現象という現実に対する真摯な認識と行動が基本的に欠落している。
 要するに、日中にいま求められるのは、「情念型友好関係」から相互利益を前提にした「実務協調型関係」へと転換させるなかで、「一九七二年体制」を超える新たな関係の構造を構想し、創出することである。
国分良成(こくぶん りょうせい)
1953年まれ。
慶應大学法学部卒業。慶応大学大学院修了。
慶応大学法学部助教授を経て現在、慶応大学法学部教授。慶應大学東アジア研究所所長。
 
 
 
 
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