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夏季解剖実習セミナーに参加して
日本工学院専門学校理学療法学科 篠崎美穂
 
 平成16年の夏、杏林大学で夏季解剖実習セミナーに参加する機会に恵まれた。2年ほど前に一度だけ、人体解剖の見学実習に参加したことがあっただけで、実際に自分が体験できるという機会は今までになかった。
 常々、教科書を片手に想像の世界で人体解剖学に関係する内容を学んできた。これらの内容が今から目の前に見ることができると思うと実習前日は、なかなか寝付けなかった。
 実際に私が実習させて頂く献体された方を目の前にした時、緊張がピークに達した。手足が震えて汗が滲んできた。自分は4日間しっかり学ぶ事ができるのか(体調の面でも)とても不安になった瞬間だった。私は、今まで紙の上で学び想像の中で描かれた「人の身体」を実際に観て、触ってみることで確信を持てるものとしたかった。初日は、解剖学実習をしているという環境に慣れることで精一杯だった。
 2日目。私が実習させて頂いた方はとても脂肪の多い方だった。人、人間はとても複雑な構造になっており、それは厚い壁によって守られていた。今まで筋を触診してマッサージしてと、紙の中で見て想像して行っていたことが、自信を持って行えるようになると想った。そして、だんだんと身体を観察するにつれて新たな発見もあったり、やはり紙の上のみでの勉強では理解できていなかった部分があった事に気づいた。
 最終日になると、私の班は他の班よりも一人少なかったために作業が少し遅れていたが、私は自分の中で興味のある部分に集中して観察していた。
 実習期間毎日、一日の最後に「黙祷」をする。そこで初めて一日その方にお世話になった事で得た事が認識されたのであった。そして、観察していた「身体の部位」から「一人の人」という認識へと戻っていく瞬間でもあった。
 
 実習期間が終わって、献体について考えてみた。家族の気持ち、ご本人の気持ち、どんな状況で献体されることが決まったのだろうか。
 献体する事に対して、私たちのような医療技術を学んでいる学生の立場としてはとてもありがたいことであり、とても貴重な経験となるため、これから学ぶ人も経験していけたらよいと想った。そしてまた、今までに親族の死をまのあたりにした事のない私にとっては、人の命の重みを感じる事もできたと想う。4日間というとても短い期間であったが、人の命により私は成長することが出来たのではないだろうか。
 家族は、私がした経験から生まれたこの気持ちをどのように受け止めるかは分からないが、自分も献体したいと想った。自分の身体を見てもらうことで、後輩や仲間たちにも実際に眼で見て触って「人の身体」を知ってもらいたいと想う。私がこの世の中と別れを告げる時、どんな状況かは全く分からないが、いつまでも人の役に立てる存在でありたいと想った。
 
 今回このような機会を与えてくださった杏林大学の先生方どうもありがとうございました。
 今後の自分の勉強に役立てて患者さまへと反映させていけるように頑張りたいと思います。
 
日本工学院専門学校理学療法学科 中村真
 
 解剖実習セミナーに参加させていただくことになり、医学部の学生でない私が人体解剖をさせて頂けるということは非常に数少ない機会であると感じている反面、自分が本当に人体を解剖していいのだろうかということも考えていた。
 私達が学んでいる理学療法は、神経・筋などの走行を立体的にみて治療できなければならない。しかし、解剖書では平面的なことはわかるが、自分が知りたい部分の立体的なイメージまでは結びつかないことが多い。しかも、人体には個性である破格があり同じものは一つとしてないこともそれをより難しくしているため、勉強で生身の身体を触診している時も、「この部分の中身が見れればいいのにね」といったことを友人と話すことが多かった。そのため、実習中はどんなことでも目に焼き付けていこうと意気込んで臨んだ。
 いざ解剖が始まると、素人であるため結合組織を取り除き神経や筋を剖出するために必要以上に丁寧になってしてしまい、初日などは時間ばかりが経ってしまう有様だった。メスや鋏の扱いに慣れるまで一緒に解剖をしている人に迷惑をかけつつ、先生方の手さばきに驚愕しながらも、解剖書通りに筋が走行していることに関心し、自分の見たかった神経の走行が剖出されると感激してしまいじっくりと観察してしまったりと「凄い」、「凄い」の連続であった。そして、どんな解剖書で見るよりも頭の中に入り、立体的にイメージできるようになり本当に勉強になった。また、実際解剖してみると解剖書とは血管の走行や神経の走行に微妙な差があることから、個体差を常に考えその差をイメージできるよう心掛け、治療できるようにならなければと感じた。
 只々人体の不思議さを思い知らされた実習であったと同時に、献体される方のお蔭で今の医学があるのだと今更だが痛感させられた。自分も将来、献体しようかということを考えさせられるほど貴重な体験であり、この実習をこれからにつなげられればと深く感じた。
 最後に、献体してくださった方、そのご家族に感謝を申し上げます。本当に有難うございました。
 
晴陵リハビリテーション学院作業療法学科 南雲大樹
 
 解剖学実習で学んだこと。それは、人体はやはり複雑怪奇で、まさに神様がつくったもの、とでも言いたくなるくらいに、私にはとてつもなく深遠な存在のように思えたことだった。もちろんこれは実習であることに違いはなく、これまであいまいなままにされてきたひよわな知識を、この機会に見て触って具体化させるという大切な意義があることは承知しているし、その目的が少しは達成させられたのではないかという思いは確かにある。しかし人体を詳細に見ていけば見ていくほど、そこには私の知らない何かが次から次へと顔を出しはじめ、ついには深い深い霧のなかをさまよっているような気分にさせられたのも事実なのである。
 それは、疑いようもなく私の不勉強からくるものに相違ないのだが、本や何かに載っている図や絵などは所詮人体のごく一部分を都合よく抜きとり、都合よく着色して分かり易いようしつらえたものでしかなく、いざ目の前に一個のヒトを横たえられると、これまでいかに断片的でその場かぎりの知識に甘んじてきたのかを痛感させられる。なにしろ、動脈と静脈、神経の区別さえまともにつかない。教科書のようにきれいに色分けされているわけではもちろんない。腕神経叢を見ても、どこがどうMの字形なのか、それぞれの神経がどこをどう走っていくのかなど、簡略化されたイラストや絵の上で分かったつもりでいても、現実世界の三次元空間ではなかなかパッとイメージできないのだ。まさしくそれは、目の前に人体という果てしない小宇宙が広がっているかのようであった。
 しかし、これまで教えてもらってきたことが全くムダなことだったとは思いたくないし、実際そうではない。この小宇宙を目の前にして、無秩序であるかのようにちりばめられた星々のなかにもちゃんと星座が描かれるように、曲がりなりにも私の頭に知識としてあったものが、人体の理解に少なからず役立ってくれたことは間違いない。それは、さながら遭難した船から見る灯台の光のように、自分の理解力が遠くおよばなくて何を見ているのかさっぱり分からなくなりそうなときに、もう一度立ち戻って整理しなおしていくための頼り綱、土台のようなものとなってくれたのだった。もし、これまでになんの解剖学の知識もなく、いきなり実習だなどといっても、人体のそこここに巧みにほどこされている幾多のすばらしい構造や、発生学的に裏打ちされた驚くべき法則性など知るよしもなかっただろう。
 今回の解剖学実習では、とにもかくにも本物に触れることができたということが、一番ためになったのではないかと思う。もし、あの時あの場ですべてが分からなかったとしても、脳裏には強く焼きついているし、素手で触った感触を通した実感として自分のからだに記憶されている。今後、解剖学の勉強をするにあたっても、あいまいなイメージしか持てなかったこれまでと違って、より具体性に富んだ知識にすることができると信じている。
 このたいへん貴重な勉強の機会を提供してくれたご遺体の一人一人に、私は赤の他人とは思えないような気持でその場に臨んでいた。私の伯母は、すでに献体登録している。はじめてその話を本人から聞いたのはもう十年近くも前になるが、若かった私は理解に苦しんだ覚えがある。もちろん最初は素直に賛成する気分にはなれなかった。死後、さらにメスで切りきざまれることを想像するだけで、親族であればなにか言葉にできない痛みを感じない人はいないだろう。
 なぜ献体などする気になったのか。その理由を聞くと、伯母のように結婚しないで子供もない人が、社会に少しでもなにか貢献できることといえば献体をすることだ、というのである。人の親となって一人前、という古めかしい日本の言い習わしがあることは知っている。だが、きっとほかにも理由はあるのだろうが、伯母の決意は固いようで、今では親族みな献体することに反対の人はいない。もちろん私も含めてである。
 今回の解剖学実習を通じて、献体の意義深さを改めて実感したのはいうまでもない。献体によって今の医学が支えられているのであり、このような献体をする方々にかぎりなく感謝しなければならない。自分さえよければいい、そんな利己主義とはまるで対極にあるのが献体の精神だと思う。ご遺体に触らせてもらいながら、そこには生きとし生けるものに対する無償の愛情が宿っていることを、切に感じずにはいられなかった。
 
東京都立八王子盲学校 野村利己
 
 「黙祷・・・」これが毎日の実習の始まりであり、終わりとなります。自らの身体を医学の発展のために、と献体された方に対し敬意を払うとともに、学ばせて頂く事への感謝の気持ちを確認します。「この方はいったいどのような人生を送られたのだろうか、どのような事を考えられたのだろうか。また、生とは?死とは?・・・」といった事が脳裏をかすめる瞬間でもありました。単に解剖実習という枠にとどまらず、人間の尊厳についても学ばせて頂いた感じがします。
 盲学校において鍼灸マッサージ師の養成に携わる者にとって、今回企画された「体表解剖実習」は、まさに千載一偶の機会を与えられたと言っても過言ではありません。我々は鍼や艾(もぐさ)あるいは手指等を用いて体表を刺激し、疾病の治療や予防に寄与していますが、鍼灸マッサージ施術と非常に関係の深い今回の実習は、例えば皮膚の厚みや皮下組織の様子、筋の位置関係、神経・脈管の走行や分岐等々、どれをとっても興味深く、今でも、「もっと勉強しておけばよかった」という後悔の念とともに、実習場面をはっきりと思い起こす事ができます。
 人は皆それぞれ顔の表情が違うように、身体の内部も教科書のような画一的なものではなく、個性豊かな表情(バリエーション)を持つという事を学ばせて頂いた事は、貴重な経験となりました。
 担当された先生方の講義は教養とウィットに溢れ、また見事なまでの実習のデモンストレーションにただただ感嘆させられるとともに、それらをひとつでも多く吸収したいという思いにかき立てられ、まるで学生時代に戻ったような一時でした。
 献体された方の御遺志に報いるためにも、今回学ばせて頂いた貴重な経験を、今後の授業実践にぜひ生かしたいと思います。献体された方をはじめ、この機会を与えてくださったすべての方に感謝申し上げます。







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