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三〇〇時間から一生へ
宮崎大学医学部 森脇亮太
 
 「今日でお別れですね。今までありがとうございました。僕たちの解剖はどうでしたか?」最後の黙祷でこう語りかけ、三五度を超える炎天下の中での火葬は無事終わり、大学内で全く訪れたことのない場所で最後のお別れをしてきました。
 人生で「最初の患者さん」との付き合いは四月に始まり、その期間は約三〇〇時間。黙祷に始まり黙祷に終わる解剖実習ですが、いつも私は黙祷の時間をご遺体との対話の時間にしていました。
 始まりの黙祷では当日の予定と、その日への思いを。そして終わりの黙祷では当日の実習で得られた事の報告と感謝の意を。
 三〇〇時間にわたった解剖学実習は人生で一番真面目に取り組んだ勉強で、本当に内容の濃いものでした。三年生の時に行われる実習のために二年生で知識を学ぶのですが、教科書だけが相手の勉強と、本当の人間を解剖して得られる知識の質は全く違い、いかに自分が得た知識が浅はかで身に付いていないのかを痛感しました。「〜神経」と漢字二文字で表される神経、そして「〜筋」と名付けられる筋肉。漢字で表せばひとくくりで同じような性質に思われますが、実習が終わった後では全く違います。
 一本の神経、筋肉、血管にも個性があります。表面を走る細い神経、深いところを通る親指程の神経。筋肉もかわいくて小さいものから本当にたくましいものまでありますし、血管だって全身にくまなく存在しますが、太さも触った感触も違うんです。
 だから実習が終わった今なら出来ることがあります。実習を行うまでは人体の部分を言葉で聞いても何も出てきませんでしたが、今では目をつぶればそこに広がるその光景。
 あの筋肉、神経、血管、そしてそれらを解剖したときの気持ち。色も形も感触も、手に取るように思い出せます。
 ひとつのご遺体と真面目に三〇〇時間向かい合うことで得られたものは八〇〇字で表すのはとうてい無理ですが、敢えて例えるとすれば二年生の勉強を「普段何気なく飲んでいる水」、三年生の実習を「砂漠の中で飲む、体の隅々にしみ渡る水」とでもいいましょうか。実際に行った実習は三〇〇時間と、人生全体から見ると短かいですが、そこで得られたものが自分の中であと六〇年もの間行き続けていくと思うと本当に感慨深いものがあります。
 最後の黙祷で聞いた答えとして、「君の気持ちが伝わって来て本当によかったよ、どうもありがとう」。天国から聞こえたような気がしました。
 今まで誰にも聞こえなかった二人だけの会話、今頃天国で誰かに話しているのかな。
 
熊本大学医学部 矢澤克典
 
 解剖学実習初日、はじめに児玉教授から実習全般についての説明があったのだが、とても長い時間に感じられた。自分の周りに二十五体もの遺体があるのは初めての経験で、明らかに非日常の世界にいることに違和感を感じたことを今でも良く覚えている。
 我が班の遺体に第一刀を入れたのは私である。大きな圧迫感を感じながら胸骨の上にメスを当てた。この瞬間に私の実習が始まった。正直に言って、最初はかなり意気込んでいた。しかし、実際に実習を終えて評価してみると、まがりなりにもやり通したと言った方が近いように思う。
 実習は日々新しい課題が与えられる。事前に「実習ノート」なるプリントが配付され、その「実習ノート」とともに「実習解剖学」を読んで予習をしなければ自分が何をやっているのか分からないうちにどんどん進んで無駄な時間だけが積み重なっていく。しかし、予習の段階で読んでも読んでも何のことやら良く分からない。専門書を見てもやはりイメージが湧かない。
 実習の期間で最も大変だったのは五月後半から六月の全般にかけてである。精神的、肉体的な疲労が積み重なり、班員同士の小さなトラブルもいくつかあった。やり通せるのか、その不安も少なからずあったと思う。疲労とストレスは学習意欲をそぎ、予習だけで終わらせることもあった。そんな時期から抜け出すことが出来たのは、先生達の姿勢と自己嫌悪のおかげだった。先生達スタッフは膨大な量の記録用紙を実際に遺体を確認しながらチェックし、そして次回の実習の時に返却する。しかもそれは実習以外の時間に行われる。私達が疲れたと言って寝ている間に。しかも泣き言は言わず、平気な顔で指導に臨む。知識で負け、経験で負け、しかも努力や気概でまで負けていたら救いようがない。自分自身の姿を顧みて「恥ずかしい」と思ったことが、スランプ脱出のきっかけであった。自分のこれからの人生においても「恥を知る心」は医師としての自分以外に人間としての自分に必要不可欠であろう。
 実習はとにかく長い時間を友人達と共に過ごすわけだから、日頃は気付かなかった点に気付けるようになる。どれほどの能力を持つのか、信頼にたる人物なのか、約束は守れる人間なのか、心配りはあるか、優しさはあるか、自己犠牲の精神はあるか、等等。友人達の目に私自身はどう見えたか、それはよくわからない。だがきっと友人達は私の人間としての生の姿を見たことだろうと思う。医師としての資質があるかどうか、それは周囲の人々に聞いてみなければわからない。ただ、心技体ともにそろったプロになるための努力をこれからずっと続けていきたいと思う。
 実習中にひとつ思ったことがある。「遺体は木に似ている」ということだ。遺体は動かない。ただ私達に全てを任せそこにある。つまり全ては私達の責任において事を為さなければならない。こう考えた時、その重さに震えた。同時に、遺体は何も言わず動きもしないけれども、何らかのメッセージを秘めている。見る者が自分の心をそこへ投影して何かを読み取る。見る気のない者には何も見えない。過去に幾度も大きな木を見上げてはその度に大切なことを考え、自分の進むべき道を決めてきたことを思い出さずにはいられない。児玉教授が「毎年解剖を重ねるたびに自分の中の俗物的な部分が削げ落ちていく気がする」とおっしゃった言葉が少しだけ分かる気がする。
 私にとっての解剖学実習とは、医学生の義務であり、自らを鍛える場であり、死に向き合う契機であり、遺体への恐れを払拭しつつ畏れを持つための時間であり、医学を生きる道とする仲間を観察する良い機会であり、そして師との出会いであった。
 解剖学実習を終えた今、まずはじめにご遺体に、そして先生方スタッフに心からの感謝の気持ちを表したいと思います。実習最後の日、花屋の店員さんと相談しながら花を選び、そして御遺体へと添えました。そして、名前も敢えて知らされずに解剖したこの方との別れを寂しく思いました。私達にとっては、筋肉、神経、血管、その隅々まで見せて頂いたこの方とのまさに「今生の別れ」だったわけです。文字どおり「体をはって」育てて頂いたこの身を社会の役に立てられるよう、この先も努力を続けていく覚悟です。
 
防衛医科大学校 矢内嘉英
 
 およそ三ヵ月の解剖学実習を終えて、振り返ってみると、最も印象深く覚えているのは実習初日だと思います。私は今まで本物のご遺体を見たことがありませんでした。そのため、勉強も十分でない自分が解剖なんてしてよいのかという気持ちで解剖実習室に入りました。このような状態でご遺体を受け取りに行きました。そして、その時の気持ちが今でも忘れられません。ご遺体を初めて見た時、緊張感とも罪悪感とも言えない何とも表現しようのない気持ちになりました。それから私の中には急に使命感のようなものがふつふつとわいてきたのです、初めて自分は医者になるんだという自覚が生まれたように思いました。
 私は班の中で一番最初にご遺体にメスを入れることになりました。はじめは本当に自分がメスをにぎり人間を切ってよいものかどうかためらいがありました。しかし、そのためらいを振り切ってメスを入れました。なんだか不思議でした。それから厳しい三ヵ月が始まりました。常にご遺体に失礼のないよう頑張ろうと思う一方で、集中力がなくなり、情けない自分を責める日が続く事もありました。そのような中で、医師として生きていくことがどれだけ大変か、少し実感できたように思います。献体としてご自分の体を私達に預けて下さった方の期待に、私が応えられたのかどうか、自信をもって「はい」と言えるかは正直なところ疑問が残ります。しかし、私がご遺体から教えられたことは計り知れません。今後、自分が医師として生きていく上できっと重要な事がたくさんあったと思います。これからも、今回の実習で学んだ事を忘れずに、勉学に励んでいきたいと思います。
 
筑波大学医学専門学群 山内素直
 
 「黙祷」そっと目をつむる。実習室がつかの間の静寂に包まれる。実習開始前のほんのわずかなこの時間、そこにいるみなの胸には何が去来していたのだろう。
 およそ二ヵ月間、毎日繰り返される実習とこの「黙祷」。私は目を閉じ、前で構えた両手で、自分の脈を探すことをいつの間にかの日課としていた。右手で左手の手首の脈を探す。「トクトク」と規則的なリズムが体中に響く。もしかすると実習室の隅から隅にまでこの響きが伝わっているのではないかと思うほどの静寂の中、私はその日も自分が生きているのだということを実感するのであった。
 そんな日々の中で、目の前に横たわるご遺体と自分、この二者の違いは何なのか、ときおり考えることがあった。それはただ、脈を打っているかいないか、呼吸をしているかしていないか、もっと単刀直入に言えば、生きているのかいないのかの違いだけだったろうか。しかし、実習が進むにつれ、私はそんな一見簡単そうに思えるこの疑問の答えを求めること自体が、根本的に間違っていることに気づいた。そう、私と目の前のご遺体、この両者に違いなどないということに気がついたのである。両者を隔てる壁が「生」と「死」というのなら、そんなものは簡単に打ち壊される。我々は必ず「生」を終え、「死」を迎えるのだから。誰もがいつかは、「死」を経験するのだから。
 しかし、敢えて私とご遺体の違いを述べるとしたら、それは、「勇気」という言葉で表されるのかもしれない。自らの体を、私達のような医学生に「生きる教科書」として献体されるというとてつもない勇気をもった方だったという違いである。私達は教科書や講義からたくさんのことを学ぶことができる。しかし、それは単なる詰め込まれた知識でしかない。いくら教科書や講義を理解しても、分かりえない何かが解剖学という学問にはある気がしてならない。解剖学という学問は、ご遺体に触れて初めて学ぶものであり、その場にいて初めて人体の神秘に感動し、これから医師になっていくための勉強をするものだということを、今回の実習を通して学んだ気がするのである。
 今回の実習を通し、私は、ご遺体と接して初めて分かったこと、そして「感じた」ことがたくさんあった。それらの経験は、私が医師になるために進んでいくべき道をまた新たに照らし出してくれたような気がしてならない。今、そしてこれから困難に直面したとき、今回の実習で学んだこと、もう一度照らし出されたその道を再び見据え、医師への道を歩んでいけたらと思う。
 最後に我々に献体して下さったご遺体に、最大の感謝の気持ちを表したいと思う。本当にありがとうございました。そして、「黙祷」。
 
福島県立医科大学 山田友里恵
 
 今日で3ヶ月にわたる解剖学実習が終了します。今日まで本当にありがとうございました。感謝の気持ちをうまく文章でお伝えできるか分かりませんが、私が実習を通じて感じたことを書こうと思います。
 実習の最初の日、私は今まで考えていなかった多くの事を考えさせられました。ご遺体に触れたとき、人間はいつか必ず死んでしまう、ということを強く感じました。それはとても怖いことだけれど、自然なことでもあると素直に感じました。そして今生きている私達に、自らの身体をもって学ぶ機会を与えて下さった方々に対して、言いつくせない感謝を感じます。解剖を進めながら今の自分が死んだとしたら、いったい何を残すことができるのだろうかと自問自答していました。献体して下さった方々のおかげで私達は人体の仕組み、精巧さ、美しさを学び、知識を得ることが出来たのだと思います。
 実習を振り返ると、やはり、とても大変な毎日だったと思います。毎日の実習に加え、前日の復習そして予習。大学に入って今までこれだけ真剣に勉強に取り組んだことはなかったかも知れません。長い間私の気持ちを支えていたのは献体して下さった方々への敬意だったと思います。
 今日の自分に何が残せるか、まだ分かりませんが、解剖学実習で学ばせていただいたことを、一生懸命役立てていきたいと思います。
 今日まで本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。ゆっくりと休んで下さい。安らかに眠りにつかれることをお祈りしています。







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