日本財団 図書館


解剖を終えて
産業医科大学 高橋菜穂美
 
一粒の麦
地に落ちて死なずば
唯一つにて在らん
地に落ちて死なば
多くの実を結ぶべし
(新約聖書 ヨハネ福音書12-24)
 
 解剖を終えた今、私の心にはこの言葉が強く刻まれている。
 私の解剖は不安と緊張の中、始まった。私にとって「死後の人間」を見るのはこの日が初めてだった。そのためかもしれない。霊安室から運んだ御遺体はとても冷たく、重く感じられた。自分が今から、この人の体にメスを入れるという事実が遠く非現実的に感じられた。ビニールのファスナーを開く時のあの罪悪感と緊張感は今もなお、鮮明に私の脳裏に焼きついている。そこには、すべての生を終えた一人の人間が静かに横たわっていた。この人の生の間、全く関わりのなかった私という人間が、生を終えたこの人とこうして巡り合ったのである。そう思った瞬間、解剖に対する罪悪感は薄れ、解剖という学問が生と死の会話のように思えたのである。私と御遺体との対面はまさにそんな風に始まった。
 解剖―それは医学を志す上で欠かすことのできない学問である。しかしそれは学びたいからといって学べるものではなく、献体という、他者の協力があってこそ成り立つ学問である。解剖学は一方的に学ぶことの許されない唯一の学問といえるだろう。しかし、献体して下さった方やその御遺族は一体どのような思いで協力して下さったのであろうか。
 実習の日を重ねるうちに私は解剖を通して御遺体と交流しているような、そんな感覚を抱くことがしばしばあった。解剖の中で生前の病気やケガを予測するうちにあたかも御遺体の生をさかのぼっているような錯覚を抱く自分に気づいたのである。それはまさに私と御遺体との会話であった。そうして私は御遺体から様々な体の仕組みについて教えて頂いたのである。
 解剖を終えた今、私の心には冒頭の言葉が深く響いている。解剖、それは献体という名の人々の愛によって成り立つ学問である。まさに献体とは医学という大地に与えられた一粒の麦といえるのではないだろうか。大地に落ちた麦はやがて豊かな実を結ぶ。私たちは御遺体から学んだ知識を糧に多くの命を支える医師にならなければならない。そして、それこそ献体に協力して下さった方々の願いなのではないだろうか。
 
一粒の麦
地に落ちて死なずば
唯一つにて在らん
地に落ちて死なば
多くの実を結ぶべし
(新約聖書 ヨハネ福音書12-24)
 
神奈川歯科大学 竹村友里
 
 最初に強い献身の心を持ち、尊い人生を終えられたご遺体の方々へ。
 私たちのようにまだ勉強を始めたばかりの未熟な学生に身体を捧げてくださり、ありがとうございました。
 そしてそのご遺族の方々へ。
 諸霊供養の会の時に、涙を流しながら参列されていらっしゃった方の事が忘れられません。ご家族を亡くされてつらい時期に理解をもってご遺体の献体に協力されたことは本当に素晴らしいことだと思います。ありがとうございました。
 最後に白菊会の方々へ。
 皆様の、勉強のために身体を捧げようという献身の心には敬服するばかりです。また諸霊供養の会ではお世話になりまして、ありがとうございました。
 私たちの神奈川歯科大学では、一年次に解剖という科目を履修します。前期は座学で全体的な身体の仕組みについて学び、後期では引き続き座学と、加えて解剖の実習を行いました。
 解剖の実習では、約五人に一人の献体をもつ形式で学習を進めていきます。実習を進めていくなかで自分たちの勉強不足に愕然とすることや、毎回提出する予習課題レポートをうまく作成することが出来ずに悩むこともよくありましたが、知らないことは本で調べ、本学で一緒に学ぶ仲間たちと互いに教え合うことで、かなりの勉強不足を補うことができました。
 献体から学ぶことは多く、しかし現実として私たちの実力が伴わずに、十分な実習が行えないときもありました。けれども実物を見て学んだことは確かに心に強く残りましたし、ただ教科書を読んで学んだことよりも多くのことを学ぶことができました。
 そのなかでも今までとは違った視点で身体を見られるようになったことは、私にとって大きな収穫だったかと思います。具体的にいいますと、今までは文献で、私たちの身体の中に多くの神経・脈管が通っていると知っていましたが、半信半疑でした。しかし今は身体から薄く見える血管などをみても、確かに通っていることを理解出来ますし、名称も確認できるようになりました。
 私たちの身体は、多くの脈管、神経、筋肉、脂肪、骨などから成り立っています。そのひとつひとつが重要な意味をもち、それぞれが連携して私たちの身体を構造し、働いているのです。解剖学はその身体の仕組みを知るうえで重要な学問であり、これから医療に従事する者として、私たちが知っておかなければならない知識が凝縮されています。
 今回の実習で得た知識は今後の勉強に必ず生きていきますし、十分に生かせるように努力もしたいと思います。
 ご遺体、ご遺族、白菊会の方々のお陰で、以上のようなことを学ぶ為の貴重な勉強をさせて頂きました。
 重ねて御礼申し上げます。本当に、有難うございました。
 
産業医科大学 田崎貴嗣
 
 解剖は、初めてである。動脈を見るのも初めてならば、神経に触れたのも初めてである。常のことではないので、初めは嫌だなあ、と思っていた。思ってはいたが、不真面目にするのは失礼だと思い、丁寧に行おうと努力する。そのために、前日に予習をするのであるが、実際は、そう簡単には見ることができないし、そう思う通りには進まない。往生する。同じ往生するならいっそ、と思い、予習をしないで行うと、余計に往生する。そのときは慌てて故人に謝る。往生するので、時間内では終わらない。居残りをして行うことにする。およそ9時までと決めて残る。それでも時間が足りそうにないので、昼食をそそくさと済ませていそいそと実習室へ向かう。そうすると、常でなかったことが、常のことと同じになる。そのためか、解剖を行うのが楽しくなってくる。予習したり、講義で学んだりしたことが、目の前に現れると感動する。物覚えも幾らかよいようになる。常でない構造を見つけて先生に質問するのも、頭に入る。脂肪取りをしながら、有り難いなあ、と思う。それから、自ずと、生と死について考えてしまう。考えるのが恐ろしくなって、とりとめもないまま、考えるのを止める。有り難いなあ、と祈りながら、脂肪を除くことに専念する。学ぶ事にも専念する。解剖を行いながら学ぶのは、実に楽しく、有り難く、恐れ多いことである。だから、納棺の時は悲しい心持ちになる。神聖で、厳粛で、沈むような心持ちになる。故人が、御遺体から誰かの家族に戻る、あるいは、そうであることを改めて突き付けられるような気がして、何か行ってはいけないことを行ってしまった心持ちになる。それから、恐ろしくて考えないでいた自分が、いけない者のようで、考えると沈んでしまう。それでも、黙祷の間、謝らずに、感謝だけをひたすらにする。謝るのは失礼な心持ちがして、ありがとうございました、と思う。本当にありがとうございました、おかげさまでたくさんのことを学ぶことができました。本当にありがとうございましたと祈るような気持ちでそう思う。全てのことが終わってから、やはり後悔する。自分のような者が解剖を行ってよかったのだろうか。後悔しても仕方ないとも思うのだが、申し訳ないという心持ちをどうすることも出来ない。ただ、今思い返しても解剖は楽しいものであるし、ありがとうございました、という気持ちは消えない。多分、一生。
 
広島大学医学部 田中久美子
 
 慰霊祭をお手伝いさせていただいたことは、私にとっては大さな意味をもつことになった。「家が近いからほかの子より学校に来やすい」という理由だけで引き受けた「案内係」だったが、そこで学ばせていただいたことは、偶然私に与えられた教訓だったと思っている。
 図書館の前の岐路で参列者が道に迷わないようにご案内する、という、午前中だけのお仕事のはずだったのだが、交代してもらって昼休みをいただいていても、混雑したトイレ待ちや洋式のトイレを探す方、慰霊碑に行きたいのに場所がよくわからない方などを性格上見過ごすことができなくて、腕章をつけてもいないのにお役に立てればと、あれこれと立ち回っていた。慰霊碑にご案内したあるご婦人は、ゆっくりと歩きながら「去年はね、主人と来たんですよ。今年は、主人が亡くなったから一人で来たの」とおっしやって、私は言葉に詰まった。1年前には二人で歩いた道を、今はお一人で歩く悲しさも淋しさも、きっと私の想像は及ばないだろう。それに、もしかしたら、今私が見せていただいているご遺体が、彼女の夫であった人かもしれないと思うと、「お世話になっております」とか「ありがとうこざいます」だとか、発言するにはふさわしくないような言葉ばかりが生まれて、何も言えずに頭を下げた。慰霊碑に着いても、彼女はお嬢さんのことやお孫さんのことを色々と、昼休み時間中ずっと、語ってくださっていた。1年前、彼女とそのご主人は、ここでどんな会話を交わしたのだろうか。「自分が死んだら、世のために献体する」という「将来の」お話をされたかもしれない。それを彼女は一人で、思い返したくなかったのかもしれない。どんな気持ちで、二人は1年前の慰霊祭に臨んだのだろう。菊の花を捧げられる側に行ってしまった連れ合いを思うと、彼女はどんな気持ちで会場にいるだろう。慰霊祭に並んだ数あるお名前を眺めながら、私はお名前もお聞きしなかった彼女たちご夫婦のことを思っていた。
 慰霊祭から2ヶ月。解剖のある日は毎日、気合が要る。「今日は何を見られるのだろう」という期待とともに、「あの臭いに耐えなければ」という覚悟も必要だ。ビニールを開く瞬間は、何度やっても顔を背けたくなるほどの刺激臭だった。毎日「人間の身体ってこんなに良くできているんだ!」と感動することは必ずあるが、終わると必ずげっそりとやつれる気分になっている。
 大晦日の近いある日、お正月の買い物に出かけていたら、偶然、そのご婦人にお会いした。私が彼女のお顔を覚えていて気がついただけのことだが、一瞬、声をかけることを躊躇した。果たして、彼女は慰霊祭で会った一医学生と街中で話したいだろうか。慰霊祭の時よりはるかに人の身体の中身を深く探っている今、もし「解剖でどんなことをしているの?」と聞かれれば、何と答えたらよいのだろう。少し歩きながら悩んだ結果、私はやはり、ご挨拶することにした。医学生として解剖をさせていただいているのは紛れもない事実で、その感謝は純粋に伝えるべきだ、と思ったのだ。
 彼女は、私を覚えていてくれた。相変わらず、娘さんのご主人がすばらしい学位を取ったときのことなどを2時間近く、語ってくださった。解剖のかの字も出てこない彼女のお話は、私を困らせるところなど微塵もなく、ただご近所のおばあさんと外で出会ったような感覚だった。
 彼女が献体を考えているような人だとは、傍から見れば誰もわからないだろう。私と彼女が、慰霊祭という極めて異常な場で出会った関係だということも、通り過ぎる人にはわからないだろう。ごく普通の(と言うのは失礼かもしれないが)人が、顔も知らないごく普通の人間のために、自分の亡骸を提供してくれている。医学だとか授業だとかいうことを超えて、「人が人にここまでできるのか」という、純粋な感動があった。
 あれから、私は解剖についてまわる「人の意志」について考える。解剖実習が私達医学生にとってどれほど貴重な経験で、どれほど稀少な場を与えられているか、そのことは人と話をする度に、ひしひしと感じる。自分たちがメスを入れさせていただいたご遺体、その献体を許してくださったご遺族の方には、どれほど頭を下げても感謝しきれないくらい、たくさんの「身体に関する現実」を見させてもらい、触らせてもらった経験は大事にしていきたいと思っている。しかし、それ以上に、見たこともない若い学生に自分の身体を触らせてやろうと決意してくださった方々の、ご意志に沿うようにあらねば、と強く思う。
 以前、「医学生を育成するのに、国から年間一千万を超す経費が出ている」と聞いて驚いたが、私は「国家に養成されている」と言われた時以上に、「名も無い人の意思」によって支えられていると見せつけられたことの方が衝撃が大きかった。
 友人の一人は、「自分たちは将来、社会から養われる存在になる」と言ったことがある。働いた報酬をもらうという金銭の授受関係はサラリーマンも公務員もみな同じで、医者だけが「社会から養われる」存在だというのは違うだろう、と言っていたが、その一言が少し、理解できる気がした。社会からの温かい育成の気持ちを受け取って、私はこの実習の経験を生かして勉学に励みたい。心からそう思った。







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