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いろいろの思いが胸に
新潟大学医学部 櫻井伸晴
 
 私は解剖学といえば医学部で行うことの中でも重要な学科であろうと思っていました。同時に、実際に亡くなった人を解剖するということなので、恐ろしいとか気持ち悪いという少し消極的なイメージを持っていたことも事実です。その気持ちは医学を志し医学部に入学してからでさえも拭い去ることはできず、むしろその気持ちは大きくすらなりました。自分は亡くなった人を前に平常心でいられるのだろうか、人間の解剖なんて自分は本当にすることができるのだろうか、という不安もかなりありました。
 一方では、それ以上に、解剖に関してはかなりの興味があり、実際にどのようなことをするのか、人間の体は実際にどうなっているのかという疑問や興味をいつも抱いていました。特に医学を志してからは、実際に自分で解剖をしてみたい、人間の体の内部を実際に自分の目で見てみたいといった積極的な意欲も徐々に抱くようになりました。また医学部の専門に進んでからは、不安はありつつもある種決意のようなものも生まれ、精一杯実習に取り組み、できる限りたくさんのことを学び、吸収していきたい、なにより人間についてもっとたくさんのことが知りたいという気持ちが急速に大きくなっていきました。
 こうして私は意欲と不安の入り混じった状態で実習初日を迎えました。その日私はすごく緊張していたように思います。実習室にずらりと並んだ状態でご遺体を目の前にしたとき、その緊張はピークに達していました。しかし、直接受け持ちのご遺体と対面してみると、意外にもそれほどの驚きや恐怖といったものは感じませんでした。ただそこには私と同じ一人の人間が横たわっているだけだったのです。そしてそれと同時に、この人も私たちと同じ人間であり、私たちと同じように生きていたのだ、そうだ、献体してくださったこの人のためにも一生懸命に実習に臨み、これからたくさんのことをこの方から学ばせてもらわなければ、という使命感みたいなものを感じ、よりいっそうの意欲が生まれてきました。私はこのとき感じた気持ちは実習中、常に忘れずに常に自分を奮い立たせるように努めてきました。
 実習が始まると、最初の不安や緊張は完全に消え、実習に対して積極的に取り組むことができたように思います。しかし、だんだんと実習にも慣れ、忙しさに追われる、そんな日々を送っているうちに、最初に感じていた大切な気持ちも忘れがちになってしまい、いつも反省していました。
 実習期間中には本当にたくさんの貴重なものを得ることができたと思っています。解剖の難しさや興味深さ、人体に関する知識やその奥深さ、共同作業を通しての仲間との触れ合い、解剖体慰霊祭で感じた感謝や敬意、責任など言葉ではうまく言い表せないとても大切な気持ち、忙しいながらもやり通せたという充実感、など数えあげたらきりがないくらいです。最後に一輪ずつ白菊の花を捧げたときにはいろいろの思いが胸に込み上げてきて、胸がいっぱいになりました。
 実習を終えた今、自分がどれだけのことを学ぶことができたのかは実際のところよくわかりません。知識としては自信を持って言えるほどのものを身につけられたかどうかは甚だ疑問ですらあります。しかし、実習を通してたくさんの貴重なことを経験し、さまざまな大切なことを感じ、学んだと思っています。このことは今後の私にとって大変大切なものになっていくでしょう。私はこれから医者を目指していく上で、そして無事に医者になれたならばその後も、このときの経験や感じた思いは絶対に忘れず、ずっと胸に秘め、医学と医療、その他さまざまなことに生かし、そして生きる糧にしていきたいと思っています。
 
獨協医科大学 佐々木香苗
 
 これまで経験してきたどんな出来事よりも、私自身に大きな衝撃を与えた解剖学実習がつい昨日終わった。納棺をしている間中ずっと今までの実習が頭を駆け巡り、何か寂しさに似た気持ちになった。
 解剖学実習が始まったその日、ご遺体との対面があった。厳粛な空気が流れる中で、自分のような未熟なものにお体を提供して下さった目の前のお方に対し、私は感謝の気持ちを心の中で唱え続けていた。また果たして私が解剖をさせて頂いても良いのかと自問自答していた。しかしながら、医師となることを志し自分なりの使命感と野心を抱いて入学して以来医学への一歩を踏み出すことのできるその実習に期待をふくらませてもいた。実習が進んでいくと「百聞は一見にしかず」とはこのことかと感心した。どんなアトラスを見るよりも自分で剖出し同定することほど頭に叩き込まれることはない。解剖学実習はその最中は辛く長いと思うのだが、学生生活の六年間の中で見れば数ヶ月から半年ほどしかない。途中で疲労感から集中力が切れそうになっても、この機会を逃すなとばかり自分を奮い立たせた。解剖学実習は他のどの実習よりも体力と精神力を要する。時間はあっという間に過ぎ、夜眠ろうと瞼を閉じるとその日行った実習が目の前に浮かびあがった。実習を行う前後の黙祷で私は色々なことを解剖させて頂いているお方に話しかけた。感謝の気持ち、今日の反省点、見守って下さいとお願いしたこともあった。毎回終了させなくてはいけないノルマに追われ不平を言ってしまったことも恥ずかしながらあり、罪悪感に駆られたことも少なくない。そんな時に黙祷の時にご遺体に話しかけることで癒させて頂いた。間違いなく私にとって目の前にいらっしゃるご遺体は尊敬すべき師匠であった。医師への不信感がつのるこのご時世で医師にもなっていない未熟な医学生に献体し人体の巧妙さを教えて下さり、また死生観や医の倫理を深く深く考えさせて頂く機会を与えて下さった師匠様に感謝の念をして止まない。
 最後になってしまったが献体して下さったご本人様はもちろん、そのことを了承して下さったご遺族、手厚いご指導をして下さった諸先生方に厚く御礼申し上げたい。ありがとうございました。頑張ります。
 
東京慈恵会医科大学 笹野紘之
 
 献体された方々が、医師の育成のため、さらに、医学・医療の発展のため、ご自身の身体を、私たち医学生が解剖することを受諾して下さったことに、本当に頭が下がる思いです。そして、献体することは、献体された方、また、遺族の方におかれても、さぞかし大変なご決断であったと思います。改めて、献体して下さった方々と、承諾して下さった遺族の方々に感謝致します。
 私たち医学生の解剖実習の目的は、医学の基礎的な知識として、人体の構造を理解すること、また、献体して下さった方の意思を尊重し、将来、医師となる上での人間性を養うことです。実習期間中、ご遺体は、生前、人格をもった一人の人間であったことを念頭において、敬意をもって解剖させていただき、ご遺体から学べることはすべて学ぼうと努めました。実習を通して、講義や教科書からでは得られない知識を得ることができ、さらに、献体して下さった方々の意思に触れることで、人間がもつ人格を汲み取ることができるよう、感性を研ぎ澄ませていきたいと思うようになりました。
 解剖祭の日には、遺族の方々と共に出席させていただき、献体して下さった方々、遺族の方々への感謝の気持ちと、献体して下さった方々の意思に酬いることのできる医師になろうという思いで胸が一杯になりました。納棺の日には、別れを淋しむとともに、その思いをより強くしました。今後、医学・医療に貢献できるよう、精一杯の努力をしていくことを誓います。
 
東京医科歯科大学医学部 佐藤千苑
 
 解剖学実習は数ある医学部での実習の中でも、私にとってとりわけ大きな存在感をもって記憶されている。解剖学実習は、一年九ヵ月の教養部生活を過ごして初めて医学部の勉強が始まり、最初にあった実習であった。一日目の実習では、初めて接するご遺体への畏怖の念だけに押し潰されてしまうばかりであった。また、これから実習を進めていくにつれてこの気持ちがだんだん麻痺し、薄れてしまうのではないかという恐れの気持ちもあった。実習が進むにつれて、ご遺体をより深く解剖していくようになったが、この時は、自分はこんなことをしてよいのかと自分に問うこともあった。とても非人間的なことをしているような気持ちになったからだ。このように、解剖をしながら、自分の人間性がどこかへ行ってしまうような感覚と、逆にそれをどうにか引き留めようとするような葛藤があった。ご遺体を目の前にすることによって、医師になろうとする今の未熟な自分をごまかさずに見つめなければならないような岐路に立たされたと思う。そして半年間の実習期間を経て、解剖学実習は私にとって、ただ体の仕組みを知るだけではない経験であったことに気づいた。
 ご遺体を献体するということは、ご本人にとっても家族にとっても、葛藤も伴う大きな決断であったことと思う。それを乗り越えて私たちのために献体してくださった方、ご家族には本当に心から感謝を捧げたいと思う。また、この半年間で得た強い衝撃と畏怖、葛藤、そして感動の気持ちを、これから医師として送る一生の間、心に深く留めておきたいと思う。
 
東海大学医学部 嶋村昌之介
 
 二〇〇四年四月一九日。この実習初日のご遺体との対面を僕は一生忘れないでしょう。僕の目の前にご遺体が横たわっているという現実、教室中に数十ものご遺体が存在しているという光景。そして薬品の息の詰まるようなにおい。僕は呆然としたと同時に、ある種の恐怖を感じました。特に、ご遺体の無表情な顔を見た時にそれを強く感じました。今までに出会ったことのない表情。正確に言えば、この無表情は一度だけ祖母の葬式の席で見たものでした。
 
 実習初日に、献体事務の遠藤さんが「いろいろな意味でよろしくお願いします」とおっしゃいました。それを聞いたとき、その言葉が本当に意味するところがつかめませんでした。しかし、解剖学実習を進めていくうちに、その真意を理解できました。ご遺体すべてに人生があって、家族がある。僕の目の前に横たわっているご遺体には、ご本人の意志、ご家族の意志などさまざまな人々の心が詰まっているということです。そう考えながらご遺体にメスを入れると手が震える思いがしてくるのです。ご本人の医学教育のためにお体を捧げるという意志に敬意を抱くとともに、その決断に圧倒されます。
 
 僕ら三年生全員は、実習の開始と終了にご献体に黙祷を捧げていました。僕はこの一、二分の間に当然ながら、まず感謝の言葉をかけます。そしてご献体の生前の人生を想像するのです。想像するというより語りかけるといったほうが正確でしょうか。こうすることによって、細い神経線維の一本一本も丁寧に剖出しようという気持ちになります。さらにこのご献体に語りかけるというプロセスが、自分自身に語りかけることにもなるのです。「僕は、ご献体の御意志に沿うように、精一杯学んでいるのか」と自分を戒めるのです。
 黙祷と同時に、実習中、僕らはご献体に花をたむけるようになりました。花が枯れてしまう前に、新しい花がたむけられ、教室はいつも季節の花で飾られていました。ご献体の生前のご意志に応えようとする僕らなりの決意の表れでした。
 
 実習も終わりに差し掛かってきた頃、鳥越教授からあるご遺族が書かれたお手紙を拝聴する機会がありました。文面からは、生前の楽しい思い出やご遺族がどんなに献体された方を愛していたかが伺うことができました。手紙を読み終わった時、すすり泣く声が教室のあちこちから聞こえてきました。僕はこの時、動かぬご遺体に個人を見たのです。僕とご遺体を結ぶ引力はますます強くなりました。そして、ご献体された方と正面から向き合うことの大切さを学んだのです。ご献体されたご本人の生前の意志の大きさに比べれば自分という存在はなんてちっぽけなんだろうと認識しました。また、ぼくのご遺体に対するまなざしが、まるで僕の親類に対するそれへと変化したのもこの頃でした。
 
 実習が終わり、納棺の日。僕らにはいつも以上の緊張感がありました。今まで学ばせていただいたお体を自分たちの手で、棺に納める。僕の心にはさまざまな感情が湧き起こってきました。今までありがとうございますという感謝の気持ち、別れるのを惜しむ気持ち。同級生の一人は、「三ヶ月も一緒にいて、別れるのなんていやだ」と言って、涙を流していました。
 僕は納棺する時に、ご遺体への感謝の気持ちを、僕のこれからの決意に変えて手紙を書きました。手紙には次の三つの言葉をしたためました。
・誠実であること
・謙虚であること
・いつまでも「学ぶ」という姿勢を持ちつづけること
 
 この解剖学実習において、僕はご献体された方々に「学ばせていただいている」という気持ちを強く感じました。人と出会うということはお互いが影響しあって化学反応を起こすことだと思います。ご遺体は何も語りません。しかし、僕の目の前で横たわる、その存在自体で十分なのです。ご遺体は僕とご遺体、そして僕と僕が正面から向き合うことの大切さを教えてくれた「先生」なのです。
 最後に、僕は改めて、献体されたご本人、そしてそのご家族に「ありがとう」と言いたい。この言葉はややもすると陳腐な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、雑多な言葉の装飾を削ぎ落としたこの「ありがとう」こそ、僕の心のなかにある素直な気持ちを伝えるのにふさわしいと思うのです。







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