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『無題』
大阪歯科大学 覚道芳宏
 
 遺体実習が始まるまで、私は実際に亡くなった人というのを目にしたことがなかった。私の祖父が亡くなった際に、葬儀の場で祖父と対面したことがあるはずなのですが、なにぶん、私が幼かったせいもあり、記憶として鮮明ではない。
 九月のはじめに、初めて御遺体と対面した際に、私は案外あっけない気分であった。大きな衝撃を受けるやも、と少し覚悟をしていたのだが、特に衝撃的ということはなく、すんなりと実習を始めた。が、私の認識は甘かった。御遺体を解剖していくにつれ、次第に焦りとも恐れともとれない感情が湧き上がってきた。目の前にある御遺体をよく見、そして解剖していくにつれ、その方が生きてこられた時間や経験などを覗くかのような錯覚にとらわれた。
 自分が今まで生きてきた時間の数倍の時間を過ごされ、自分をはるかに超える経験を積まれた方に対し、自分は、言うなれば刃を向けることになるのである。二十年かそこら程の経験しか持たない自分が果たして本当に御遺体となられた方と向きあう資格はあるのか、と深く悩むこともあった。
 そんな時に、とある小説の一節を思い出した。「相手と本気で向き合いたいと思うなら、まず、第一に相手に対する礼儀として自分の力を信じること。そして次に全力で挑むこと。そして最後に相手は何を望むのか考えてそれに応えること」。
 それならば、私のすべきことは何だろうか。ご遺体の方は、医学の発展のために、後世の若輩者である我々が学ぶことを望まれたはずだ。私が持つ知識は未だ少なく浅はかではあるが、だからこそ、この実習を行う意義があるのである。結論から言えば簡単であるが、自分ができることを全力で取り組むことが必要であったのだ。
 どこか引け目のようなものを感じて人体解剖をしていた私であったが、そう考えるようになった後は、恐れることはなかった。何に対してそれ程恐れていたのであろう。自分が為すべきことの大きさであろうか、それとも自分の御遺体の方に対する誤った認識のせいであろうか。良いペースで解剖実習がすすみ、そして先日、ついに実習を終了した。
 私の心には、解剖を始める前には感じたことのなかった深い感慨が去来していた。ただ単なる達成感というものではなく、自分が手にした経験の大きさに対しての感動というものも含まれていたのだろう。
 四ヶ月にわたる解剖実習において、知識ではなく、経験として人体を実感し、体験できた事はこれから先の医学的な技術を身につける上で重要であることは言うまでもない。我々に、大事な御自身の身体を学問のためとはいえ提供なさった方々には、本当にお礼の言葉もない。この実習を有意義に活かせるよう、更に学問に励みたいと思う。
 
順天堂大学医学部 片桐秀樹
 
 解剖実習初日、事前講義の際に、白梅会の名和章会長からお話を頂戴しました。
 「献体登録をされている方々は、医学の発展のために、いつでも献体ができるようにと、日々心身の管理をしている」という趣旨のお話を、私は生涯忘れることはないでしょう。ついに始まる解剖実習。その前日から、私の心は平静を保てなくなっていました。諸先輩方や、医師である父から、解剖実習の素晴らしさ、そこから得られるものの大きさを聞いていた私は、解剖実習に並々ならぬ期待を抱いていましたが、実際に御遺体にメスを入れ、人体という世界を紐解いていくという事実が目の前に迫った時、不安というか恐怖心を抑えることが、どうしてもできなかったからです。名和会長のこのお話は、そんな落ち着かない私の心に、一つの覚悟を植えつけてくれました。このままではいけない、これから始まる解剖実習で、得られるものすべてを吸収していくためにも、まず自分が冷静にならなければならない、と。
 いざ実習が始まると、そこには、感動と興奮が待っていました。人の体とは、なんと精巧にできているのだろうと、日々感嘆したものです。骨格や、各臓器の配置、筋、血管、神経の走行。その一つ一つに、無駄なものなど一切なく、それぞれがうまく絡み合い、私たちの人体が成り立っているということがよく解りました。このことは、決して机上の勉強や教科書の図を通してでは得ることはできず、実際に御遺体を手に取り、動かし、時には筋や臓器を切断するといったことを通して初めて実感できることだと感じました。そして、最初は不安であった、実際に自分の手で人体の神秘を紐解いていくということが、喜びに変わるのに、そう時間は掛からなかったように思います。
 また、実習を進めていく中で、常に抱いていた献体をしてくださった方への感謝の念。そして、献体をしてくださった方々の御厚意に応えられているのか、自問自答し続けてきた日々が、私の中の友愛精神を大きく膨らませてくれました。解剖実習を通して、医師を志す一人の医学生として、解剖的知識を得ることができただけでなく、一人の人間としても、大きく成長できた気がします。
 基礎医学を学び始めたばかりの私たちは、まだまだこれから学ぶことも多く、未熟者ではありますが、今回解剖実習を通して得たものが、これから医師になる私たちにとって大きな財産になることは、疑いようがありません。ここで得た財産を胸に、よき医師になれるよう、日々努力をしていくことをここに誓いますとともに、献体をしてくださった方々、献体に同意してくださった御遺族の方々、そして、実習が円滑に進められるよう、日々御指導くださった先生方に、深く感謝したいと思います。ありがとうございました。
 
鹿児島大学医学部 加藤基
 
 はじめに、献体なさったご遺体に黙祷を捧げます。
 
 実習を終えて、私は確実に医師への道を歩みだしたと自覚する。慰霊碑の前にクラス全員が集まり、村田教授からいただいた一言。「諸君はセミプロになっているだろう」というお言葉が今、胸に響いている。今回の実習で得たことは、単に知識としてstockされる類のものではなかった。むしろ私の血肉に変わり、いわば教養としてこれからの人生を変える大きなきっかけであったと振り返る。
 この濃密な3ヶ月間、私が得られた教養は主に以下の3つある。医学的知識・学習方法・責任感だ。反省を言語化し自分を鼓舞する意味も込めて、身に付けたことを記す。
 まず医学的知識。3ヶ月の実習で得られた知識は膨大な量になる。毎日の予習復習で記憶する一般的な臓器の配置等に加え、実習中に観察する個性豊かな3D的位置関係を知った。多くの知識を独学で学ぶことができる昨今、ご遺体から自分の手を使って導き出したかけがえのない経験は、確実に自分の身にしみこんだ。また、人体の構造をマクロ・ミクロの各視点から学んでいくことで、脳内のニューロンがハイパーリンクを形成した。実習室の入り口の言葉にあるように、死者から教えていただいたように思う。これから医学的な知識を身に付ける土台となり、一知識人として生きる上でも大きな糧となった。
 次に学習方法。何かを学ぶとき、その過程はよく山登りに例えられる。山の頂上まで上る道はひとつではない。まっすぐに上る人もいれば、ぐるぐる回りながら行く人もいる。今受験勉強を振り返ってみると、私は物事の記憶が苦手だった。これは医学生にとって致命的な欠陥だと自分でも感じていた。うまい方法を模索しなければならない。一年半の教養時代に身に付けておくべきことであろうが、できていなかった。その方法をこの実習期間中にひとつ経験し終えた。その点で大きく成長したといえる。
 最後に責任感。自分が将来医師になることを強く自覚したとも言い換えられる。専門課程の先鋒であったことも関与しているだろう。これまでの医学に対する私の思いは、あくまで憧れであったと振り返る。医学を志したのは中学時代にさかのぼるが、この憧れは解剖実習が始まるまで変わらなかった。今では医学は憧れの次元ではなくなった。もはや自分に与えられた責任・義務であり、将来の社会貢献への一歩であると。この責任感は全ての医師に要求されることであり、古くから医師が立ててきた誓いに通じるものと確信している。この早い時期に身に付けられたことはかけがえのない意味を持つに違いない。これらはあくまで、主なことに過ぎない。ご遺体・ご遺族のご厚意で体験できた今回の実習は、私の一生を通して生きてくるだろう。また自分の『医学史』の原点としても。
 ありがとうございました。
 
自治医科大学 川崎梓
 
 解剖学実習初回のあの衝撃的な場面が思い出される。今までの人生の中で、祖父や叔父を亡くし現実に死に直面したことはあるが、見ず知らずの故人の体を見たことも無ければ触ったことも無い。ましてや解剖などしたこともない。極度の緊張と人体の仕組みへの好奇心、多大な興味、そして医師へのスタートを切れたという嬉しさを胸に実習室の門をくぐったことを今でも鮮明に覚えている。この日から私の解剖生活が始まった。私にとっての解剖は、何もかもが新鮮で未知の連続だった。まず脂肪の色に驚き、大量のそれに圧倒され、自分もこうならないようにと決意したはずだが・・・。また、神経や血管が形のあるものだということを解剖するまでは信じられなかった。内臓に関しても、生物の実習で解剖したカエルと構造には何ら変わりのないことを確かめることが出来た。心臓を手にしたときは命の重みをこの手で感じることが出来た。私たちのご遺体さんのおばあさんには開胸手術の跡があり、生きてこられたものがそこに現れていた。教科書その他で見るよりも自分たちで剖出し、観察することにより、より印象付けられたと思う。
 解剖実習を終えた直後の感想はやっと終わった、という感じだった。これは、医療を志す者にとっての最初の関門を乗り越えたという安堵感からくるものであろう。それ以上に半年間解剖させて頂いたご遺体さんとの別れは、愛着があっただけに悲しいものがあった。と同時にご遺体さんとそのご遺族の方々には感謝の気持ちでいっぱいであった。私たち医学生のために献体してくださったおばあさんの気持ちを考えると、私自身の自習に取り組む姿勢を疑わずにはいられない。小テストや他の科目のテストにかまけて予習をおろそかにしてしまったことを悔やみ、非常に反省している。また、早く帰りたいがばかりに本来の目的を忘れてしまったこともあった。目の前にあるものが、ついこの前まで命の灯を燃やし続けていたということを忘れ、単なる作業になっていたこともあった。そんな時おばあさんが、「あんた達、ちゃんと勉強しなさいよ。私が見ていてあげるから」と目で語っておられたような気がして、何度か身の引き締まる思いがした。解剖は好きな方なので、はじめは自分なりに一生懸命取り組んでいたが、回を重ねることに徐々に慣れ、段々雑になっていく自分に「初心忘るべからず」と何度も言い聞かせた。これを読んだ大河原先生は何度も口を酸っぱくして言ったじゃないか、とお思いになるころだろう。誠に申し訳ございません、反省しております。
 もう一つ実習を終えての感想は死に対する自分の考えである。死んでいる人を実際に触ったことは無かったし、死を漠然としか理解出来ていなかった。生きている人間はそのうち死に行くわけだが、それ故死への恐怖は誰にでもあると思う。私もそうである。そんな私が死を乗り越えた人を解剖などしてよかったのであろうか。もっと死というものに対して自分の考えを確立しておかなければならなかったのではないか。献体してくださった方には失礼極まりないことだと思う。しかし、解剖実習を通じて死に対する自分の考えがまとまった。これは医療を志す者にとっては当然のことだったのかもしれないが、実習を終えて自分の中で変わったことの一つである。
 今回解剖実習ができたのも献体をしてくださった方々、並びにそのご遺族の方々のご理解のおかげである。今後、この実習で得た知識と反省を生かし、更なる勉学に励むことをここで約束し、理想の医師像を目指し努力したいと考えている。また、一通りの臨床知識が付いたところでもう一度解剖をしたい。最後になりましたが、私たちの指導をしてくださった大河原先生を始め、諸先生方、技師の方々にはこの場を借りてお礼を言いたいと思う。







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