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解剖学実習を終えて
熊本大学医学部 板橋由紀子
 
 実習を始めるにあたって、最初は不安だらけのスタートだった。解剖をするということが初めての事であり、やり通さねばという気持ちの中で、やっていけるのかという不安も大きかった。
 実習を通して、感じたことがいくつかある。一つ目は、今までものを見るということを如何にしていなかったかということだ。一番最初の記録用紙を見た瞬間、これを書き上げることが、すごく苦痛になるだろうと考えていた。はじめは確かにどこからどう書き始めて良いか分からず、時間もかかり、自分でも何を書いているのか分からないくらいだった。
 しかし、実習を重ねるごとに自分のやっていることの本質は、絵を描くことにあるのではないことにようやく気付いた。記録用紙やレポートをしっかり書けるか書けないかは、絵の上手、下手ではない。いかにものがよく見れるかだということに気付いたのだ。あらかじめその部位について予習し、丁寧に脂肪組織を取り除いて、そこにあるものが何かじっくり考えていく。スケッチやレポートは、その理解を助ける、確認する為のもので、その理解が進めば、分かりやすい記録、納得のいくレポートが書けるし、その理解なしには決して仕上げることが出来ない。そう感じ始めてから、記録やレポートが嫌ではなくなった。むしろ進んで書いて、理解したいと思うようになった。そして完成したものは、自分のたどった実習の軌跡のようで、誇らしくさえ感じるようになっていた。
 実習を振り返って、とにかく忙しく、あっという間だったのは言うまでもないが、そのわりに自分自身や「人」について良く考えた気がする。脂肪組織を取り除きながら、御遺体と一対一で向かい合っていると、教科書とも他の班の御遺体とも違う人体の構造が見えて来る。大まかな規則性はあるが、その他は決まっていない。その違いには、その人が生まれてくるまでの過程とか、その人が歩んで来た人生等が表れているのではと思い、誰一人として同じ人間はいないということをまざまざと感じた。また、不注意にも神経や血管を傷つけてしまうこともあった。所見ともなった交通杖を切ってしまったり、二重支配となっていた恥骨筋の支配神経の一つを切り離してしまったりした。そんな時ふと思ったのは、人工のものならば、さまざまな手を尽せば復元可能だが、生命、人体というものは、一度失ってしまうと二度と取り戻すことが出来ないということだ。だから失われた命はどんなに悔やんでも取り戻せない。命のはかなさと尊さをじっくりかみしめた。変な言い方かも知れないが、そしてだんだん愛おしくさえ思って実習を行う自分がいて、御遺体を目の前にして生命のすばらしさを考えることが出来た。
 最後に実習を通してクラスの友達の新たなつながりが出来たことが一生の財産になったと思う。ほぼ毎日クラスの仲間と実習を続ける中で、班員は勿論ほとんど話をしたことがなかった人と知り合えることが出来た。長く実習を行うと、人のいろいろな面が見えてくる。良い面もあれば、自分と考えが違い戸惑う面もある。他の人も当然それは感じるわけで、逆に言えば、自分を律していくことが必要となってくる。また実習中、解剖その他に関して友達と議論することも多かった。自分がこれまで生きて来て感じたこと、考えたことを率直に話す。今までそんな機会は滅多に無かったが、自分とは違う考え方だが、しっかり考えている多くの友達を知り、すばらしい仲間に出会えたことが嬉しかった。つらい実習を乗り越えられたのも、友達の支えがあり、みんなで頑張っていると言う意識があったからだと思う。この輪を大切にしていきたい。
 解剖学実習とは私にとって、自分の基礎を固める土台となるものだったと思う。自分が将来どのような医師を目指すのか、命はどんなに尊いのか、その命、人とかかわり合って生きていきたいことを再確認し、以前よりも自分に自信をつけることができた。また、これから一緒に学び支えあっていく仲間も得ることが出来た。これから先、自分がどうしたいのか、どうすべきか迷った時、この実習を思い出したいと思う。
 
北海道医療大学 伊藤明子
 
 私は以前、看護大学時代に解剖学実習を見学したことがあった。当時は解剖体に触れることなく息を殺し、その場から早く立ち去りたいとさえ思っていた。消毒処理された臭気と解剖体に対する恐怖心であった。しかし、それから数年後、私が歯学生として解剖体を前に、本を参照し、先生や仲間と話し合いながら実習をしているとは当時は思ってもいなかった。今回の実習では、恐怖というよりはむしろ、人体の構造が非常によく理解することができた感激と同時に、献体をして下さった方々に対しての感謝の気持ちで一杯であった。また見学とは異なり、実際に解剖学実習を行って初めて実習の意義が理解できた。これほど歯科医師(医療人)としてのモチベーションを高める実習はないと痛感したのである。それは単に人体の構造を理解するにとどまらず、献体してくださった方々への想いであり、医療人としての倫理観について真剣に考えることができた。
 また、私は以前、助産師としてこれまで幾人かの赤ん坊を取り上げており、生命誕生の現場にいて生命の尊さについては人一倍感じている。しかし、たとえ心臓が停止し死亡と診断されてもその人はその人であり、その人の尊さは何ら変わらないことに気づいた。近年、脳死後の臓器移植が議論されつつある中で、様々な価値観や意見はあると思われるが、少なくとも私はその肉体を他者によって侵すことはできないし、それはたとえ家族でも許されないのではないかと考える。それは本人の生前の意志により自己決定されるべきものであると考える。従って、このような貴重な実習をさせていただいたことに心から感謝し、今後歯科医師としてその知識や技術を社会に還元し、高い倫理観をもって社会に貢献していきたいと考える。ありがとうございました。
 
秋田大学医学部 伊藤亜紀子
 
 6月18日、4月5日から始まった解剖学実習が感謝の気持ちを込めた黙祷で終了しました。解剖が始まる前の期間に感じていたのは期待というよりも不安でした。今まで私は、身内の遺体さえ見ることなく生活してきたので御遺体を見ることをとても怖く感じていました。その上で、献体してくださった方の希望どおり、2か月半もの間しっかり勉強できるのか・・・。本当に不安の塊でした。
 解剖初日。「これからよろしくお願いします」という気持ちで黙祷をして、とうとう御遺体と対面するときがやってきました。おそるおそる開けた白い布の中には安らかに眠っている御遺体がありました。そのお顔を見て、お体に触れた時、私の大きな不安は責任感、義務感へと変わりました。「不安に思っている場合ではない。解剖させていただくからには本当にしっかり勉強しないと申し訳ない」そう思いました。初日に生まれたこの気持ちは2か月半の実習での、私の心の支えになりました。体力的につらい時も確かにありましたが、この責任感で乗りこえることができたのだと思います。
 百聞は一見に如かず。実習中は何度もこの言葉を思い出しました。もちろん教科書やプリントを読むという予習は大切でした。しかし、教科書やプリントで読んだり見たりした構造を、実際に三次元のレベルで見、自分の手で解剖していくと、とてもすっきりと理解することができました。この三次元レベルでの理解こそ、解剖学実習での大きな意義の一つだと感じました。中でも私が感動したのは空腸、回腸の部分です。とても長い小腸ですが腹部にきっちりおさまっており、しかも動・静脈が効率的にいきわたっていました。これはあたり前の構造なのですが実際に自分の目で見て、その精巧さに感動しました。他にも頚神経や頭部の神経、腕神経叢、手掌・足底の筋肉や血管など、その緻密さに感動するものがたくさんありました。
 解剖学実習の意義には思いやりの気持ちを持つことも含まれていると思います。先生がおっしゃったように、今回献体してくださった方々は、私たちの最初の患者さんです。その方々に思いやりを持って接することで私たちの意識も高まり、充実した学習ができるのだと感じました。知識はもちろんつけていかなければなりません。そしてそれとともに、自分の心も豊かにし、他人を思いやることのできる医師になりたいと思います。解剖学実習は私たち学生にこのような自覚を持たせてくれる良い機会だったと思っています。
 解剖学実習を終えて、私が献体してくださった方々のお気持ちに沿える学習を十分にできたかどうかはわかりません。しかし、私が初日に持ったあの責任感は私の「医師になる」という自覚をより強いものにしてくれました。医学生としてこの気持ちをずっと持ち続け、これからしっかり勉強を積んでいきたいと思います。
 最後になりましたが、献体してくださった方々、そして遺族の方々、貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。医学生としての第一歩を確実に踏み出せたと思っています。将来たくさんの人の役に立つ医師になるようがんばります。ありがとうございました。
 
名古屋大学医学部 伊藤大輔
 
 約三ヶ月の間行われた解剖学実習が終わり、今、自分の心の中にある、様々な記憶、感情を整理しつつ、率直に、私が何を考えて実習に臨んでいたのかを書いていこうと思います。
 実習の始まる前、実際にご遺体と向き合う前、私の心の中には、医学を志す者としての期待感と、一人の人間としての恐怖感が同居していました。しかし、解剖学実習は、大学に入ってほとんど初めての科目であったこともあり、初日が近づくにつれ、恐怖よりも期待が強くなっていき、待ち遠しいという気持ちが心を占めていました。
 実習の最初のころ、学問的な興味と興奮気味であったこともあり、死に対する恐怖感はほとんどなく、あまり躊躇することなく実習を進めていました。正直に言うと、ご遺体を目の当たりにしても、かつてそこに生命があったのだということをほとんど感じていなかったし、あるいは、単に「教科書」という非人間性を感じていたのかもしれません。今思えば恐ろしいことです。
 しかし、時間がたつにつれ、解剖学を学んでいるものにとっては必然なのかもしれませんが、ご遺体を見ながら、「死ぬ」ということについて、頻繁に考えるようになりました。それまで、死んだ肉体を実際に見たことがなかったことも理由の一つでしょう。自分以外の人間の死、たとえば家族の死などについてももちろん考えましたが、特に、自分が死ぬということについて考えました。身体的、精神的機能のない人間、自分。それは単なる物体にすぎないのでしょうか。しかし、残念ながらその問いに対する答えはまだ見つけていません。そんなことを考えながら、目の前のご遺体を見ていると、徐々に恐怖感が強くなり足がすくむような感覚に襲われました。なぜかといえば、死を考え、生前の故人の生活を考えることで、かつて生命が宿っていたということを鮮烈に実感したからです。そして、考えた結果、一つ言えることは、ご遺体は無機的な、非人間性を帯びたものではないということです。ご遺体は「死」という状態にあり、精神的機能はもはやありませんが、ここにご遺体が存在するのは故人の遺志のためであり、私たちにメッセージを残しています。医学への貢献への思いや、私たち医学生への激励の言葉を私はご遺体から感じ取りました。そこには、はっきりとした人間性があります。このようなことができるのは人間だけであり、死してもなお語るご遺体をみて人間のすばらしさを感じることができました。
 ご遺体に、人間性を感じたことは少し怖いことであったことは否めませんが、その後は、ご遺体に宿った医学への崇高な意志を汚さないよう、より一層真剣に実習に取り組みました。
 実際にご遺体と向き合わなければ、これほどまでに真剣には勉強しなかったかもしれません。そして、実習の機会を与えられたことで、今も頭の中に人体の構造が鮮明に焼きついています。すべてこれは、ご遺体を提供していただいた故人のおかげです。そして、これからも学問に勤しんで、自分自身が医学の進歩に貢献していくことが、唯一のご恩返しの方法だと思っています。
 最後になりますが、ご献体された方々、ご遺族の方々に感謝の気持ちを表し、今後一層の努力を誓い、文章を終えさせていただきます。
 ありがとうございました。







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