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何時か来た道
財団法人不老会 丸山泰示
 
 平成十六年七月二十六日、日曜日のことである。朝日新聞を読んでいた私は、一枚の大きな広告に目を奪われた。「昭和と戦争」という活字であった。
 昭和十八年学徒出陣壮行会の写真からは、ザックザックと歩調を合わせて行進する軍靴の音が聞こえて来るような錯覚がおきるほど、胸に熱いものがこみあげてきた。一瞬、私は六十年前の自分にもどっていた。当時、すでに戦局は大きく傾いて、日本軍は各地で惨敗につぐ惨敗で撤退を続けていた。にもかかわらず青少年による戦力補充を強行、十七、八歳の少年の命を消耗品として前線に送り続けたのである。皇国日本、神国日本の旗印の下に私たちは粉骨砕身、命を捨てることをお国のためと信じ進んで前線で死んでいった。わずか六十年前のできごとである。
 どんな奇麗ごとをいっても、どんな美辞麗句を重ねても、戦争は犯罪であり殺人であることに変わりはない。
 戦後育ちの人たちは、自分には関係ない昔の物語と言われるかも知れない。私は、あえてそれに対して異論を唱える気はない。が、しかし、それは私自身も含めた日本人が歩いて来た足跡であり、日本の国の歴史であることも事実であります。
 あの戦後の廃虚の中から、めざましい繁栄をもたらし、世界中の憧憬を集めた平和日本・経済大国日本は、ある日突然に天から降ってきたものではない。あるいは地中から湧き出たものでもない。多くの先輩や同胞同志の血のにじむような努力によって作り上げたことの証である。だからこそ、私は日本を大切にしたいし日本人を愛したい。
 もし、私と同じような気持ちで、この拙い文章を読んでくださる方がおられれば幸いだと感謝し、さらには、近代社会の人命軽視に歯止めをかける怒りを発していただきたいと願うものであります。親子が何の躊躇もなく殺し合い、知人や学友さらには道ですれ違っただけの見ず知らずの人でさえ遊び感覚で殺してしまう。こんな社会を作り出したのは誰の責任でもない、上は国政を預かる議員から、下は街角の一杯飲み屋で安酒をあおるおじさんまで、すべて現代社会を動かしている大人たちの責任である。
 私も八十歳の坂にかかりましたが、目の中に残っている、青田を渡る緑の風や蛙の鳴く田、河鹿の鳴く清流、そして、蛍の舞う夏の夜は、決して忘れられない風物であります。
 このように美しい風景にもどる道であれば、何の未練も残さずに来たる世を信じて永遠の旅に出ることもできるのだが、戦火の中に人命を晒すような道だけはもどってほしくないと切に切に祈っております。
 
千葉白菊会 宮田美惠子
 
 この度は会員として登録させて頂き誠にありがとうございました。五月三十一日会員証にしるされた日付そして会員証を手にしたときはなぜだか心がすーとおだやかになれたのは何なのでしょうか、不思議です。他の会員の皆様もそうなのでしょうか?
 今日まで日々時間におわれる仕事をしております私は、どちらかというとせっかちというか気短かな性格です。そんな私が穏やかな気持になれたのです。なぜかとてもうれしいです。
 今までは疲れたとき「ああ、たまには病気になって入院でもしたい」なんてバチあたりなことを考えたことも何度かありましたが、今は健康でいられることに日々感謝しております。
 献体ということに七年も八年も悩んでいた自分が嘘の様です。会報を読み医学部学生さん達が三ヶ月間、遺体と向きあい真摯な姿勢、態度で医学を学んでいこうという思いが強くなった。・・・と書かれてあったところを読み死んで悲しんでくれる人はいるかもしれないが感謝してもらえるなんてなんだかうれしくなってきた今日この頃です。・・・
 
順天堂大学白梅会 森王恵
 
 私の母は戦争中(第二次世界大戦)に従軍看護婦として日本陸軍病院に勤務していたそうです。
 本当は小児科のお医者さんに成りたかったと聞いております。ですから献体に関しましても、医学の発展のためには人体の詳しい内容、臓器の係わりや意義、働きなどを勉強するのに解剖は必要でそれを推進するには献体ということがどれだけ大切で、また役に立っているのかと言う事です。
 ですから多分母の影響で父も献体を決意をし、二人して献体登録をしたいと言う相談がありました時、私は心より賛同を致しました。また、私の場合も娘二人が、死んでも今一度人様のお役に立てるなら・・・死は素晴らしいと言うことで、スムースに献体登録をすることが出来ました。
 高齢化社会に突入しようとしている今日、これからの医学の方向性としては、予防医学の発展を促し医療そのものの形が変化してゆく過渡期でもあり、人体をより良く知るため、地域社会との係わり、取り巻く種々の環境との融合などなど、いろいろな分野と一緒に考える医療になってゆくことが考えられます。
 そうした医療の変化にともない、献体という行為は増々必要とされてゆくのではないでしょうか。より解り易い献体の意義と有り方をもっと多くの方々に知って頂き、広めて行かなければと考えております。
 
川崎医科大学くすのき会 守屋ゆき
 
 十年一昔、いいえ今は五年で一昔と言いますが、私が献体の手続きをし、くすのき会に入れていただいて十一年余りの月日が経ちました。
 その間お蔭様で私たち夫婦は、金婚、エメラルド婚、今年六月二十一日満六十年ダイヤモンド婚を迎えて過去三回とも出雲大社での祝盃を戴きました。
 平素は忘れている献体のことについて、近親の死にあったり、身体的苦痛、又反対に、心から嬉しいことに出合ったあとなど、何故か、あゝ私は献体している。何の不安もないのだと思いを熱く致します。
 片方老夫は毎年のくすのき会の総会案内を見て、「わしも献体しようかな」と一人言のように言います。然し未だ実行する気配もありません。健康な毎日を送っている夫と歩行困難日夜膝の痛みに悩まされてその上心臓の不安、治療を続けている私、どちらが早く死を迎えるのか、わかりません。平素私たち夫婦は、ごく自然に「死について」の話を致します。縁起の悪い話などと思ったことはありません。過去の戦争を外地で体験し、生も死も神の思召し、と強く感じ、不思議に命ながらえて、今日まで生きて来られ、ほんとうに有難いことと瞑目合掌するばかりです。
 足の悪い私に「リハビリ」を兼ねて老夫の運転する車での週一、二回の買物、山道の三十分足らずの道程は私たち借り切りのようなもので、「有りがとうね」といつも感謝の言葉を夫に申します。何ごとも心の持ち方で沈んだ気持が明るく楽しみに変り感謝に変ります。
 先日も挿木三年目の「月下美人」の花の開花を夜十時頃より十一時過ぎまで徐々におもむろに全開する様子を老夫婦二人じっと見守り写真を撮り、満足して眠った話を、短歌の友人に話しましたところ、何んとお幸せなお二人、と言われ、人生の幸せとは、生きている幸せとは改めて考えさせられました。
 好きな花づくりに、朝夕の水やりに協力してくれる老夫、今年は驚く程多くの花を咲かせ、やさしい香りを漂よわせた梔子、夏の陽に負けない百日紅、ダリヤ、ひまわり、四季の花々、野の花の清楚さ、みんな力一杯生きる姿、私もいろいろの花の生き方に学んで心穏やかな日々を送り、最後少しでも医学のお役に立つ献体、自分で決めた人生のコースが達成されますように祈りの毎日でございます。
 老夫の献体については、どこまでも本人の意志と考え私は一切何も言いません。決心する日がありや、無しや今のところさっぱりわかりません。あの世のことがわからないのと同じ、六十年夫婦でも夫の心を読むことはむつかしいものでございます。
 
滋賀医科大学しゃくなげ会 横田ふみ子
 
一、関宿の地蔵菩薩に参拝す山一つ越えればわが生れし里
一、連子格子白壁づくりの家並び本陣三つ関宿今も
一、客僧の身振り手ぶりを聴聞す楽しからずや報恩講講座
一、病葉を揺すりて散らす木枯らしの一号きたる十月なるに
一、癌を病む六十歳の母を呼ぶ父の声重かりしにがき追憶
一、東福寺通天橋より紅葉一樹濃淡斑を見惚れ佇む
一、通天橋より人の流れの中にいて雨の雫の紅葉に映ゆる
一、正座して迎え下さる極楽院三尊佛に深々詣ず
一、病院を巡回するバス濃きブルー癒の色のコロコロ小型
一、夫の霊を弔いくださる人ありて年賀に添え書き今年も届く
一、抱かれてありと思えばありがたし朝夕拝がむ弥陀の御姿
一、玉砂利の小雨ふふめる音やさし人等につきて内宮参拝
一、きりきりと廻り日輪上りくる真向いて立つ彼岸中日
一、つぎつぎとバスの行き交う石山駅つばくろ負けじと飛びて巣づくり
一、沸くごとく暑き真昼も蝉がきて鳴かねばやはり物たりなくて
 
財団法人爽風会 和田克豊
 
 今年の誕生日で九十一歳になる私ですが、テレビばかり見ていては老化がすすむと心配してか、息子が日野原先生の著書「生き方上手」の本を買ってきてくれました。「親父、これからは本も読んだり新聞にも目を通したり人の話も聞いて、自分の考え方、感想など書いてみては」と、すすめてくれました。
 日野原先生の事は以前キリスト教雑誌「信徒の友」に老人は夢を見るの特集号に「人生の秋を輝くスピリットをもって生きるために」と題して「年を重ねても人間は常に冒険心を忘れず新しいことに挑戦していく原動力とは何か。与えられた賜物を十二分に発揮して生きる秘訣とは何か!!」について語っておられました。先生は聖路加国際病院理事長、名誉院長など歴任され、音楽作曲、シナリオを書いたり新聞の連載など著書も多く、幅広い分野で活躍を続けておられる、今も現役のすぐれたお医者さんであることを知り、是非この本を読みたいと思っていた矢先でしたから、嬉しく感動しながら読んでおります。先生ご自身これまであらゆる試練体験苦労を重ねてこられたようで、人間は幾ら年をとっても未知なるものを持っている。自分の中のいい賜物を持っていても使わないうちに死んでしまう高齢者もいる。これからは新老人として生き直しなさい。人間の体というものは「三位一体」の「父・子・聖霊」と同じように、「心・肉体・魂」が人間を造っている。その魂スピリットを持つことである。信仰者の場合は病気になり記憶力が減少しても、いきいきとして生き続ける原動力が与えられている。健康とはただ身体に故障がないとか頭の働きがいいというのではなく、いちばん大切なものはスピリットという考え方。病んでいても元気でいることができると書いてありました。先生の著書「生き方上手」の本は、全国の百二十万以上の方の手に渡り、一万四千人の多くの愛読者からカード手紙などでその思いを寄せ、毎日のように百通、二百通と通信が届いておられるそうで、ミリオンセラーとなっているそうです。読者の反響は単なるありきたりの読後感を綴ったものでなく、苦難の渦中にある人はその悩み、また困難を乗り越えた人は生きている事への感謝など、それぞれ一人一人が今どう生きるかの応答であり、切実なものばかり。この本によって多くの人々の心の支えとなり救いとなる生きた書物であると分かりました。私もこの本によって大いに教えられ励まされました。残された人生を一日一日有意義に感謝して、生涯を全うしたいと念願しております。この本を見て昭和四十五年、日航機・よど号が赤軍派にハイジャックされた事件の事は、よく覚えておりますが、当時乗客の中にお医者さんが居られた事は聞いておりましたが、先生であられたのは初めて知りました。
 
川崎医科大学くすのき会 渡辺美恵子
 
 亡き主人より献体の意志のあることを聞いたのは、平成三年九月大腸の手術を無事に終え、退院の帰途についたときでした。生前より主人は「自分は死んだら献体をするんだ」と云っておりました。何度も川崎医大の皆様に大変お世話になり乍ら何の恩返しも出来ないせめて死後の体でお役に立つ事が出来るならと、自分から申し込みました。献体と云う事は、まだまだ一般の人には理解することがむずかしい時代でした。係の方から色々説明を聞き献体の重要性を痛感し私も賛同し二人で申し込みました。二人の娘達も心よく同意してくれました。医大から立派な感謝状を頂きました。不幸にして主人が十三年一月交通事故によりあっと云うまに旅立ちました。葬儀を家で行い医大からの迎えの車で私達家族も医大迄見送りました。医大には立派な祭壇が用意して有りそこでお別れをして帰宅しました。祭壇には遺影と「位牌」をかざり手を合し乍らも亡くなったと云う実感はありませんでした。どこかに出掛けて今にも帰って来そうな、そんな日々がつづきました。
 二月中は何時でも逢わして下さるとの事、遺体は亡くなった時のままの状態の主人に逢えると云われました。二月の下旬に娘達が医大に面会に行きました。娘達は「母ちゃん先生の云われた通りのお父ちゃんだったよ、お父さんに立派にお務めを果して帰っておいで、待って居るからね」と語りかけ別れを告げ医大を後にしたそうです。今さら乍ら現代医学のすばらしさに驚くばかりでした。
 学生さんの実習が終り十一月二十二日倉敷の斎場で火葬にして頂きました。骨上げではほんとうに、ていねいな説明を聞き乍ら骨を拾わして頂きました事など故人を始め遺族一同感謝致しております。十四年五月には川崎医大において盛大な慰霊祭が行われ文部大臣からも立派な感謝状を頂きました。故人も天国で満足しておることでしょう。学生さんの「解剖学実習を終えて」を読みまして実習を前にしての学生さんのすさまじいまでの心理状態はほんとうに涙ぐましく、それらを克服して一人の医師として、医療の現場にたつことの大変さを痛感しました。
 どうか医学生の皆様解剖実習を前にしての恐怖心はよくわかりますが献体を希望された方々は、皆自分が喜んで皆さんに学んで頂き役にたつことに誇りを持って居られると信じております。どうか頑張ってやりとげ、病に苦しむ人達の支えとなり、生きる力を与えられる医師になられる事をお祈りしております。







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