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お世話になった先生方
千葉白菊会 藤野道行
 
 此の度、私が今の日本の長寿社会の仲間入りと云われる七六年間の終りに近づき、もう直ぐ七七才の喜寿を迎えるに当って、献体を希望、決意致しましたのは、一九二七年世界の大不景気の最中に九人兄弟の四男五男双子として生を受け、当時田舎の双子と云うハンディーから子無し他家の養子となって、旧制中学入学迄双子と知らずに日清・満州事変から太平洋戦争迄育ちました。当時、烈しい戦争下いずれ自分も国の為、天皇の為死んでいくのなら何か役立とうと軍医の道に入ろうと旧制四高理工を卒業し京大医学部へと云う時、終戦後は多くの医師が大陸から引揚げてくる現状で養父母との年令差四〇年離れもあり、相談して一転、国の為別の道に進み、日本の復興をめざし、世界中をかけめぐり六〇年間今の日本の基礎を築いて来た一員だと自覚しています。然し齢六六才にしてはじめて病気にかかり爾後七六才の一〇年間に四回も手術を繰返し一度に大病を経験してしまいました。
 其の間、入院の度に先生にお世話になり、その度に○×式試験で成り上って来られたと云っても過言でない先生方と比べて、ドイツ語を基礎として勉強して来た自分等の同年代と比べいかに経験不足かを目の当りにし、又、最近のメディア情報による毎日の如く医療事故の多さに基本を抜きにした人間性も倫理観も未熟な先生方の多い事を見聞し、私としても少しでもこれからの医学の向上、医師の研究の為に役に立つならと献体の決意をし、同時に過去五回の入院時、諸先生方や看護師の方々に多大のお世話になり、夜半といえども我が事の様にお世話を戴いた一つの恩返しとしてもこれからの医学にたずさわる人々のお役に立つ様、私の身体の隅々迄を勉学と研究の為に使って戴けたら身に余る光栄と存じます。
 
奈良県立医科大学白菊会 藤本澄子
 
 いのちとは生物を生かしつづける源となる力を呼称したものだろうと私は解している。今更このテーマをと嘲笑を買うだろうと思いつつ今私の心の中にこだわる疑問、不思議、質問など提起したい。昭和十六年十二月八日の太平洋戦争勃発で私の叔父は徴兵され戦死した。同二十年八月十五日の終戦までの期間、私は今で言う青春真只中であった。感性豊かだったあの頃の体験は一生忘れることはないだろう。「いのちは鴻毛より軽し」「いのちは風前の灯の如し」など比喩表現されているように世界情勢、人間関係、事故、病気等々人の命は翻弄されかねない。その上、高齢者である我が身は寿命の壁が迫っている。世の中の事象で確率が一〇〇%であるものは死以外は考えられないだろう。確実に訪れる死を待っている果敢無さをひしひしと感じる。
 「いのちあっての物種」と自分を慰め体力維持や脳細胞の活性化に挑戦しても納得のいく成果はでない。このむなしさを人に知られたくないと平静を装い格好をつける愚かな自分がここにいる。むなしさ、はかなさ、矛盾、なやみなど多くを抱えながらもなぜ生きているのだろうと自問自答を試みる。折角この世に生れて多くの愛に育まれ、巣立ち、今日自分がここにいる。先人に感謝しながら寿命が尽きるまでいろいろな人生ドラマを見とどけたいからだ。一刻一秒を争う救命活動が地道におこなわれ尊い生命が蘇生している現代、他方で、テロや戦争、はては人間関係の崩壊による殺人行為が毎日のようにニュースで報じられている。生と理不尽な死という現実を直視したとき、人命に対する認識の違いに戸惑いを感じずにはいられない。罹病のときは自分の最も信頼できる医師に余後を託し、心穏やかに療養に勤しむことだ。即ち、かけがえのない大切な命を寿命が尽きるまで無にしてはならない。
 地球よりも重い一人々々のいのちを。
 
琉球大学でいご会 外間政哲
 
 「人生五〇年」と言われたのは信長の頃からであった。それが、さして遠い過去でない頃までそうであった。大戦後、世の中のあらゆる面で落ち着きと安定がもたらされた昭和四〇年頃になって、日本人の男女合わせた平均寿命がはじめて七〇歳台になった。その後は医療の長足の進歩により、「人生八〇年」というのが定説となった。平成一四年の平均寿命は、男性:七八・〇七歳、女性:八四・九三歳まで延びた。昭和四〇年と比較すると、なんと十数年も寿命が延びたことになる。目出度し、目出度しである。こうなると「人生一〇〇年」時代を迎えるのも、あながち夢ではなかろう。
 世界の長寿者の記録をみると、一位が一二二歳のジャンヌ・カルマンさんというフランス人女性(一八七五〜一九九七)、二位が日本人男性で、一二〇歳と二百三十七日の生存記録を持つ泉重千代さん(一八六五〜一九八六)で記憶に新しい。三位は一一五歳まで生きたアメリカ人男性のクリスチャン・モーテンセンさん(一八八四〜一九九八)と続いている。今後、人の寿命が延びるにしても、これらの生存記録が限界ではなかろうか。
 ところが、遠からず「人生一五〇年」時代の到来を予測する御仁もいる。その裏付けとするところは「ヒトゲノム」の解析を成し遂げた医学や医療分野の高い技術をもってすれば、遺伝子工学を駆使し、未踏の領域が拓けるというのである。誰しも長く生きたいと望むのは当然であるが、夢想だにしなかった一五〇年という寿命の延長は、それだけに留まらず、個人の人生設計にも影響をもたらすことは必至である。社会的問題にもなるであろう。
 平均寿命延長にブレーキをかけているのが、死亡率一位の悪性腫瘍である。この悪性腫瘍すなわち、がんに対する治療が思うようには進んでいないのが現状である。結核の治療はコッホの結核菌発見以来、百年足らずして、完全解決をみたが、がんの場合は、いくら医学の進歩があっても、結核の場合とは大分話しが違う。がん治療は、未だ富士山の五合目辺りである。
 こんな話を聞いたことがある。つまり、こんなに医学が進歩しても、未だにがんの治療法が確立出来ないのは、地球上の人口密度を配慮した創造主の宇宙的計画によるものであろう、と言うのである。これまた、「宜なる哉」とでも言おうか。
 私には、もう一つ気になる点がある。細胞寿命説というのがある。人の個体を造っている細胞自体に寿命があるという。細胞は五〇回程度の分裂で死滅してしまうので、それが取りも直さず、個体の死ということになるというのである。染色体の両端にはテロメアという物質があって、細胞分裂の回数を規制している。つまり分裂を重ねるとテロメアはすり減っていく。テロメアが減らなければ、細胞はいつまでも分裂し続ける。個体レベルではどうなるであろうか、誰も知らない。
 テロメアを減らないように出来る薬はないものだろうか。実際にはテロメアーゼというのがそのものであるが、人に使われた試しはない。このような試みは明らかに自然の摂理に反するものであると言えよう。どんなしっぺ返しがあるかも知れない。もしかすると細胞が癌化するかも知れない。
 秦の始皇帝が探し求めた不老長寿の仙薬があればよいのだが、よしんば、そのような薬が見つかったとしても、自然の摂理に沿うものでなければならない。
 
滋賀医科大学しゃくなげ会 堀江ハル
 
 私は只今米寿を迎えて過ごして来た人生一代を振り返り、幼い頃の思い出は全くない、忘却とは忘れ去る事なのか。八十年間色々と有ったが人間の命が、この世に生れた瞬間を看とる仕事に就いて一番感じた事は、この職業を選んでよかったと思っている。
 生れた子によき運命が与えられるよう祈らずにおれない気持、尊い生命が出生する刹那を何と表現したらいいだろう。それを助ける事を業として生きた事に大きな誇りを持つ事が出来た。
 自信と度胸と実行力が身に就いた、私の幼い頃を知る友は「あんたは、おとなしい目立たない頼りない子であったのに今は全く正反対」と言う。私も人の命を二つも助ける仕事が私を変えたと思う。今の私にとって既に過去、現在も未来も夢なのだ。
 然し私はごまかしや嘘は大嫌いの性格で、つい反発を感じる。人間世界は、そうも言うていられないけれど誠心誠意二つの生命を守り抜く業に生きた。その時代を思う時、今、あれは夢だったのかとも思う程に時代は変貌してしまった。
 思いやりや愛情の欠如と思う。
 なつかしい思い出の中で、どうしても忘れられない幸せな話題を一つ。この家は女系の家系らしい。夕方より始まり深夜に男の子が生れた、「男の子よかったネ」そうしたら台所から万歳々々の声「今の誰」と尋ねたら「ここの九十六歳大祖母で生え抜き」との事、全部終って「おめでとうございます」と挨拶すると、先づ一献と出された杯。帰りを案じお断りすると、「家では七十五年振りの男の子が生れた、そんなら私が」と一気に呑んで又萬歳。思へば生れた子の前途は輝いている。帰路は朝、神社仏閣の前でお礼申して帰った。切ない程の感激を忘れられない。
 幸いに愛され育ち成人し結婚して人生を歩んだ人達が、老いを感ずる歳となって何を考え思っているのかと時折、そんなことを思ってみる。
 先づ老いは負うた子に教えられと聞いているが、その様に思いたい。
 未来はもう数える程しかない時、人生の終末を心配する人、深い信仰を生きる人、子供は遠くに居て一人ぽっちの人、死を一個の物体として灰になると言う人、様々にあると思うが、長い間御厄介になった人間として社会に永遠の別れを告げる時、これは必ず経験しなければならない厳粛な事実である。
 真剣に考えなければならないが看護職として数多くの人の終末を見て来たが、眠るが如く終る人、苦しみ、もがき、あえぎて終わる人、終末は美しく、さようならを言って終りたいと私は願っている。
 数年前百歳で亡くなった人は終末の近い日迄元気、いつも私を見て「元気で長生きしなされや、あんたと話しすると面白い又来てや」が口ぐせ、心温かな朗らかなおばあちゃんだった。
 食事は何でも食べ良く動く人だった、健康の標本みたいな人。天寿を全うされてよかった、家庭環境もよかったと思う。
 最後に、新生児から大人、そうして老いて迎えねばならない一生を生涯と言うが、周囲の人々の思いやり愛情を受け又次の世代に返してゆく、歴史は繰り返すものなのだ。
 赤ちゃんで生れ、赤ちゃんがえりで終る。
 看護の道を振り返る時、正に生と死を看とった者として人それぞれに八十年のドラマがあり、ラストが来る。
 誇りをもって生き誇りを残して終りたい、私の心境です。
 
新潟白菊会 本間一恵
 献体する意思を持つ人々でつくる「新潟白菊会」から例年六月に催される「会の集い」の案内状と会報が届いた。
 会場の新潟大へは何回か出席した。集まる人々は皆、献体という崇高な志を持った人たちですから、心は優しく、今会ったばかりなのに十年の知己のようにすぐに打ち解けて何の邪気もなく、山あいの清流にも似たすがすがしさを感じるのです。
 医学のために最後のボランティアとしてわが身をささげる人のみぞ知る心情、それは何ともいえない心から温まる会場なのです。悟りを開くなどというおこがましいものではないのですが、老いにうろたえることなく、なぜか心の安どがあるから不思議です。先年この集まりに友人と参加しての帰り、船の中でその余韻に心ゆくまで浸ったものでした。
 毎年の会報には新会員の自己紹介と、献体遺家族の追想が載り、どの家族も一様に献体したことを誇りに思っていると書かれています。
 「年齢の順からいえば私が先」といつも言っていた八十七歳の献体仲間が四月に旅立ちました。新大からのお迎えの車が来た。過去における楽しかったこと、しんどかったこともすべて船に乗せ佐渡海峡を渡って行きました。「ありがとう」と何度も行く人に手を合わせ家へ帰ってからそっと涙をふいた。







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