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献体できる喜び
東京医科歯科大学献体の会 榎本行雄
 
 私の母は、戦後の混乱期に子宮癌を患った。幸い、当時の先端的な技術である放射線照射により元気になった。珍しいケースなのか、その後、病院から定期的に経過の報告を求められた。七年程して歩行難になった。手術の結果、放射線が原因で骨盤が一部破砕していたので、骨盤と大腿骨を接着して固定し、松葉杖の生活になった。バリア・フリーの考えの無い時代で、不便も多かったが、元気であった。その七年後、七十二歳の時に膀胱癌で亡くなった。死亡直後、病院のベッド際で途方にくれている時に、医師から解剖させて欲しいとの話があった。寝不足と気持ちが混乱していたこともあり、医師にはお断りした。何回も手術をして痛い思いを重ねた一生で、やっと静かになれるのに、再びあの痛い思いをさせることは出来なかった。しかし、後になって、不治の病といわれた癌から十四年も生かしてくれた医学に、解剖という形でお礼できなかったことは心の負担として残っていた。
 近年、献体という制度を知った。偶々、昨年兄が亡くなった。遺された家族が混乱しているのを見て、七十一歳の私も身辺を整理することにした。家族や兄弟の了解が得られて、この度、献体の会に入ることが出来た。母の医学的な評価には劣るかもしれないが、やっと社会にお礼ができることになり嬉しい。
 最近、ゲノム医療の先覚者新井賢一氏の話を聞く機会があった。ゲノム解読により、科学技術の未来が開花し、新産業が発展しようとしている時に、少しでもそれに参加して、貢献できることは幸せである。
 妻とお彼岸に、献体の会の納骨堂のある市川市の総寧寺を訪れた。江戸川に面した広大な高台にある立派なお寺である。周辺には、古墳時代の遺跡があり、飛鳥時代の朝廷の国府があった由緒ある所である。伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の舞台になった所で、野菊やりんどうの花がふさわしい野趣あるのどかな所である。このような場所で自然に戻れるのは本当に嬉しい。
 
獨協医科大学白菊会 小川和恵
 
 平成2年に会員証を送付していただいてから丸14年が過ぎます。私が白菊会を知りましたのは、未だ独身で叔父の家で看護師の仕事をしていた時に、患者さんが献体について叔父に依頼してらしたのに出会えた事からです。私自身、生後お七夜に当たる日に手術を受けています。内科的な疾患ではなく、当時の事とて、助産婦さんによる出産で沐浴の折り、乳首が腫れていたのを絞った事から、細菌に感染してひどくなり乳腺炎になり切開したらしいのですが、大きな傷になっております。20年前には胆石症で胆のうを切除しました。その後、貧血がひどく子宮筋腫で子宮も摘出という具合で医学の力で今日を生きています。そんな折りに亡夫が骨髄癌で獨協医科大学病院にお世話になるようになり、平成元年4月から通院・入院とご縁が出来ました。夫は諾ないませんでしたので、私一人担当の先生にお願いし、入会の手続きをしていただき精神的に落ち着きを得ました。
 現在、肝内結石があって思わぬ痛みに驚かされたりしますが、ただお約束を果たす為に事故には充分に気をつけて日々を暮らして行きます。昨年には、知的障害を持った次男も受け止めて下さるとの事で、私の没後の心掛かりも解消できました。単純精薄ですが、乳幼児期から身体が弱く病巣の問屋のようでした。就学してから手足病・クルップ性肺炎、リウマチによる心内膜と中学を卒業するまで病院との縁が切れない人でした。現在就業しておりますが、昨年の健康検査でPSAの数値がグレーゾーンの高い8.9と出て驚きましたが、この前の検査では、5.6まで下がってましたので、今すぐという事ではないとのことで一安心しました。まだ40代半ばですが、父親が前立腺癌も併発していましたので、会社の方で検査項目に入れて下さり判りました。
 まとまりのない文になりましたが、今年の集いには本人と共に参加させていただこうと思っています。
 
福島県立医科大学志らぎく会 金子敏子
 
 五月一日は「スズランの日」。この花束を受け取った人に幸運が訪れるとの事で、ヨーロッパでは五月の風物詩として欠かせない花だそうです。
 私も、隣の奥さまが小さな花束としてもってきて下さいます。
 今年も又、純白の花と心の優しさとを届けて下さいました。
 花好きな御夫婦で庭には四季折々の草花を咲かせておられ、こちらから眺めさせて頂いております。私もヘルパーとして働かせて頂けるのも、健康であればこそと幸せをかみしめております。
 ことわざの様に幸運に恵まれ、今年も健康で仕事を続けられればと願いつつ、テーブルのスズランを眺めて感じました。
 年を重ねると、そういう心配り、優しい言葉が何よりの生き甲斐と思い、自分もできる限り人様には役に立ちたいと考えております。
 新緑から深緑へと山々の緑も変わりつつあります。この節、病の床におられる人は一日も早い回復と、又、田畑の仕事をしている人も身体に気をつけて、みんな幸せに向かって一日一日を大切に過ごしましょう。私もいずれ献体する身、良医の育成に少しでも役に立たせて下さい。日々の健康に気をつけて長生きしたいものです。
 幸運を届けて下さるこの幸せ、ありがとう。
 
福島県立医科大学志らぎく会 木村和衞
 
 歳重ねると新しいことは脳裏から霧晴れるが如く消え、幼少の事が鮮明に浮かぶもののようです。
 私は宮城県北部の農家の八人兄姉妹の七番目の次男として生まれました。兄が私が九歳の時に日支事変(中国・第二次世界大戦の始まり)で戦死したので男の子は私一人(兄の子供もいましたが)となり祖父母や両親から姉妹が羨む程大事にされたそうです。
 秋彼岸も近づきますので丈夫な身体に育ててくれた両親に感謝の気持ちを申したくここで親の思い出と教えを記録しよう、と思います。
 父・七十数年前の田舎の日常生活をご存知の方はご理解いただけるかなと思いますが都会育ちの方はご想像下さい。
 私が二〜三歳の頃、父は朝早く私を裸で背におぶってその上からドテラ(丹前)を着て鶏小屋に入り昨日生まれた卵拾いをしたものです。卵を拾うごとに私は父の頭越しに滑り落ちそうになるので父の肩にしがみついた事が記憶に残っているのです。父の背中の体温が私の胸に伝わった感覚を脳がインプットしたのでしょうか。
 母・我が家は養蚕を年四回しました。沢山の蚕が一斉に桑の葉を食べる、さわさわと言う音は小川のせせらぎのようでした。勿論、繭は売るのですが汚れた繭を母はそれから生糸を紡いで反物にしていました。反物にするために我が家には足踏み機織り機械があったのです。その機織り機械を足踏みしながら右手で一本の横糸を通しては左手で桟を手前に強く引いて反物にするのです。横糸は左右に往復させますのでそのたびにチアンコと言う甲高い音をだします。その音は我が家の部落に入れば遠方でも聞こえるし、又、母が家にいる証拠なのです。私は小学二年の頃と思いますが学校から一人で帰ってくる途中でチアンコ、チアンコ、連続音が聞こえる時の嬉しさ、聞こえない時の寂しさ、今でも覚えています。特に先生から今で言うノート代わりの石盤に赤いチョークで二重丸を貰って帰った日は格別でした。父は当たり前のような顔をしますので見せることは少なかったですが母はほめ上手でした。
 さて、親の教えとしては医師国家試験に合格した日に我が家に帰った時の事です。父からは、「人様の内臓を勉強したのだからお前も最後には恩返しせねばな」と言う事でした。母からは「これからはお前は『先生』と呼ばれるだろうけれどもそれはお前のではなく医師免許に言うているのだ、と思へ。医師は一生勉強が必要だそうだから」、でした。
 私はわが子や孫たちに残せるものがあるだろうか、七十五歳にして考え込む日々です。
 
―慰霊・医学の進歩を願って―
宮崎大学白菊会 窪田久吉
 
 私は平成七年一月(七十歳)に献体を登録し、白菊会に入会いたしました。
 私の半生を振り返ってみると、さきの大東亜戦争に出征して生き残り、戦後は数度の大病をも切り抜け、何とか人生の終着を先ずは安らかに迎えられるような年代になりました。
 考えるに、幾度びかの僥倖、幸運によって今日に至ったものであり、何らかの形で社会に恩返しをと思っていましたが、友人の一言によって献体を決意しました。以下いささか登録の理由について申し上げます。
 先ずひとつには、大東亜戦争で最後の決戦場となった沖縄に出征し、数少ない生き残りの一人となったことです。昭和十九年四月太刀洗陸軍航空廠那覇分廠(現那覇国際空港)に軍属として配属され、主に南方への中継基地として航空機の整備に当たっていました。その年の十一月戦局の急迫に伴ない、繰り上げ徴兵となり、同僚十四人と共に、航空技術兵として、那覇分廠に現地入隊しました。
 昭和二十年四月一日に米軍が沖縄本島嘉手納に上陸してからは、陸軍の第一戦部隊に配属され、沖縄軍司令のある首里城の近郊、石嶺高地の防衛に当たりましたが、部隊は米軍との攻防の間に壊滅し、軍司令部付きとなった私を含めた三人が生き残るという悲惨な状態となりました。
 「生きて膚囚の辱かしめを受けず・・・」という戦陣訓を信奉してきた者にとっては、生き残った喜びよりも、内心の当惑と忸怩たるものを感じながら、戦後を過ごして来たと言っても過言ではありません。献体によって慰霊を果たせるものならばと思っております。
 ふたつには、医学、医療に対する感謝の念からです。
 戦後、復員して昭和二十三年県庁に就職しましたが、昭和二十六年の夏に「乾酪性肺炎」という重症の肺結核にかかりました。当時肺結核の医療事情は、まことに逼迫したもので、まず一年位待たないとなかなか入院できない状態でした。治療も、安静、栄養、気胸療法から漸く化学療法が普及し始め、一部外科手術が先進医療として取り入れられ始めた頃でした。
 私の場合いろいろ経緯はありましたが、県立病院で徹底した化学療法を受け、翌二十七年一月に鹿児島大学附属病院で、胸廓成形手術を受けて九死に一生を得ました。
 また、昭和四十年にはビールス性肝炎で九ヶ月入院、引き続いて急性肺炎で入院しました。重態といわれながらも担当医師も驚くほどの快復ぶりで、しみじみ医学、医療のありがたさを感じたところでありまして、献体によって更なる医学の進歩を願うものです。
 最後に、献体登録の機縁ですが、年来の友人である木村博行君(会員番号一四五九)から「戦争に生き残ったし、公務員も無事卒業したので、最後に献体登録をした」と聞き、それが天啓のように聞こえて、早速私も献体登録をしました。
 昭和五十八年県庁を退職し、常日頃何か社会にお返しをしたいと心に引っかかっていただけに、迂遠にも道が近くにあることに気付きませんでした。
 白菊会については、県議会事務局で医大設置運動に携わっており、献体確保が大学設置の大事な要件であることも知っていました。また、初代白菊会会長の故福田甚二郎(弁護士)さんは、初めて私が就職した地方労働委員会の会長さんでした。副会長であった故荒武倉次郎(南郷町長・県議)さんは、県議時代に仕えた方で、出県の際にはよく酒席を一緒にし、白菊会創設の苦労話を聞く機会もありました。従って躊躇いもなく、ごく自然に献体を決意したわけであります。
 今後は健康保持につとめ、天寿を全うして、立派に成願を果たしたいと念願をしております。







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