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私と献体―会員の手記
神も仏も
山形大学しらゆき会 一柳邦男
 
 死ぬ目に遭った。昨年十月十三日訪米の帰りの飛行機が、成田空港で悪天候のために着陸できず、着陸をやり直したのである。私は何百回も飛行機には乗っているが、着陸のやり直しなどは初めてである。
 胃が飛び出しそうなほどの機体の揺れと恐ろしい軋み。それでもすべてを見届けようと、ひどい早さで近づいたり消え去ったりする滑走路を手に汗握って見下ろしながら、これは死ぬことになるかもしれないな、と私は覚悟した。満員の乗客たちもハタと談笑を止め、騒いでいた子供らさえもヒソと静まり返った。二十分後、二度目の試みが成功してなんとか無事に着陸できたときには拍手が起った。汗でぬれた手で私もそれに加わった。
 翌日の新聞には東海・関東、特に茨城県を突発的に襲った豪雨と突風の記事が載った。何百トンものクレーンが暴走し吹き倒されて人死にが出たという。私の乗った飛行機は、ちょうど来合わせたその突風の真中に突っ込んでいったのである。日本で二機目のジャンボ墜落の惨事は、幸い報道されることがなかった。
 機体の揺れと死への脅えに苛まれている数分の間私が思ったのは、「今日十月十三日は己の七十五回目の誕生日だ。いい区切りだ」ということと、「少なくともこれで苦しまないで死ねるな」ということぐらいしかなかった。家族のことが頭を翳めたのはほんの一瞬でしかなかった。死に突然向かい合った人間が神や仏に祈る話は聞くが、普通はむしろ私のように、神も仏も思い出す余裕がないのではないか。ましてや私は祈るべき神も仏ももともと持っていない。
 幼いころ、信心深い祖母の傍らに朝夕坐らせられて、正信偈を諳んじるほどに唱えさせられた。多感な十代後半にはキリスト教の教会に通ったこともある。しかしそれらの経験は、ついに私の魂の拠所、安心の座とすべき何物をも残さなかった。
 イラク戦争でイラク軍に捕えられたアメリカ軍の十九歳の女兵士、ジェシカ・リンチの話。「敵の襲撃を受けたとき、私は『神様、助けてください』と祈るほかは何もしませんでした。弾を撃ち尽くした後負傷して捕まった、と報道されましたが、銃が壊れていたので、私は一発も撃っていません。私はただ神様に祈り続けるだけでした」。
 敬虔な家庭で信心深く育てられた人間の、賛嘆すべき正直な告白である。どうすればこういう素直な娘に育て上げることが可能だったのであろう。死の間際でさえも、神も仏も念頭に浮かばなかった私の人生を思うと、この娘の感性と信心の見事さに引き比べて、やはり少し寂しい思いがするのである。塵世の快楽に七十五年を磨り減らした私の自業自得なのではあるが。
 
聖マリアンナ医科大学山百合会 井上武夫
 
 今回は文を書かないで、私がしゃべった内容をテープから起こしたものがありますので、それを出します。
 平成十五年五月、聖マリアンナ医大が当番校で、第九回「大学の緩和ケアを考える会」が催されました。私は最後にコメントを述べるように求められて、しゃべったのが以下の内容です。
 当日、某医大の一年生の孫を家内が連れてきました。おじいちゃんがどんな医者か、孫に見せたかったのだと思いました。私もおじいちゃんがどんな医者か見せたい気がありました。孫は講演を聞いて「おじいちゃん、乗ってるなあ」と言いながら、会場からの大拍手に満足したらしいと聞きました。
 私は定年後十三年間、聖マリアンナ医大で五年生に死の看取り、緩和ケア、嘘をつかない、謙虚な医者など・・・話し続けています。
 数え年八十歳になり、少し呆けもきました。平成十五年で終わりにしようと考えていました。某医大で内視鏡による前立腺摘出術による死亡事件がありましたので、もう一年頑張り、聖マリアンナ医大の学生に「命の畏敬」を説いて、私の医者人生を閉じようと考えています。以下、当日のコメントを聞いて下さい。
 
 今日は壇上に上がれということでやって参りました。私は今日、気合いを掛けてきたんです。というのは、第四回にコメントを述べまして、今日は第九回。五年間生きたということが非常に嬉しく思います。最近、友達に電話すると頭が痛くて寝ているとか電話にも出られないとか、二、三人そんなことを言っておりましたので、ここに立てただけでもありがたいなぁと思いました。今日は気合いを掛けてやって参りました。
 私がちょっと調べますと、認可された緩和ケアチームを持っている大学は五校あるそうです。今努力しているのが五校くらい。医大は八十校ありますから、この「緩和チームを立ち上げよう」というのはまだまだ意義がありますから、もう少し皆さんが頑張らなければいけないですね。聖マリアンナ医大はもう二十年前から頑張っているんだけれど、まだ皆さんよりちょっと下という段階で、僕は残念なんですよ。そのあたりのことを今日はちょっと話そうと思います。
 昭和五十三年、今から二十五年前、この中にはまだ生まれていない人がいるかもしれませんが、その頃、がん患者が入院して死ぬようになったんです。それまでは結核でした。その頃はがんの痛みを止めることがわからなかったんです。情けない医者だ、どうしようもない医者だと自分を嘆いていました。そうしたら、朝日新聞に「死の臨床研究会」というのがあると出ていたのです。これだ、と喜び勇んで行ったんです。そうしたらモルヒネを飲ませるんですよ。それまで僕はモルヒネなんて惜しみながら二、三回しか使っていないですよ。沢山使うと習慣性だとか、禁断症状が出ると言われていましたから。前立腺がん患者に使いますと、すごく効き、痛みはなくなり、翌日、その患者は車イスで、くるくる動いていました。いやぁ、驚きましたね。そしてその患者は結局亡くなりましたが、痛みが止まったので、お礼ができないから解剖させてあげると言ったんです。そのくらい痛みが止まって嬉しかったんですね。その時初めてモルヒネを使ってみたんです。それから二、三年経ってから、日大で岡安先生がターミナルケア研究会をやっているのがわかりまして、まねをしようということになりました。日野原先生が「いいことはまねをしなさい」とおっしゃっているのを講演で聞きましたから、聖マリアンナ医大で立ち上げたのが二十三年前です。どこの会でも同じだと思いますが、看護師ばかり多くて医者はほとんど来ないんです。それが今でも続いているんですね。
 ホスピスが未だにできませんが、今私が考えるのは、当時の首脳部に働きかけるのが弱かったからかなぁと反省しています。ただ嬉しいことは、当時の学生が手伝いに来てくれていたんです。それが今、長野県でホスピスをやっているんです。山田祐司君(愛和内科)というんです。知っていらっしゃる方もあると思います。長野県では顔役でリーダーなんですよ。これは非常に嬉しいです。大学は医者や看護師をつくるところだから、こちらが一生懸命やれば皆まねをして全国へ種が蒔けるということなんです。これは大変嬉しいことです。今日出席の黒子先生や西田先生など泌尿器科の先生ですが、この方たちが皆育ってきて今度は後輩を育てる。医局出身の一人で、徳島市の浜尾君というのがいまして、ペインクリニックをやっています。徳島はたしかホスピスがないんじゃないでしょうか。私の生まれた島根県もないですが、そういうところで開業医でやっているというのは大変偉いことだと思います。非常に嬉しく思っています。
 それから、今日これから挨拶されます陣田総看護師部長さんは二十年くらい前に、私たちと一緒にやっていたんです。だからこの部長さんが歴代の中で一番理解があると思っています。この人が部長になったから追い風だと思って喜んでいます。それから二、三年前に大学の首脳陣が変わりまして若くなりました。今日挨拶されました明石病院長は非常に理解があると思っています。ですから、これもこの立ち上げには追い風だなと思っては大変喜んでいます。
 さて、ここで少しためになる話をしようと思います。これからが大事なところです。森亘先生という方がいらっしゃいます。東大の病理の先生です。日本医学会の会長をやられまして、東大の総長もやったんです。医学部の学長で総長をやるというのは非常に珍しいんです。それほど卓越した人間だと思います。その人が日本医師会の五十周年記念に頼まれて講演にいらっしゃいました。平成九年のことです。私にある患者が、「先生、これ読みましたか」と新聞によい評判が出ていて、よかったと言うんです。それを患者さんに見せられて、僕はその講演を日本医師会の雑誌を読んでいたので思い出しました。今日はコメンテーターということなので、この話をまとめてきました。平成九年に太田邦夫先生という東京医科歯科大学の名誉教授で癌研の所長をやった(?)偉い先生がすい臓がんで亡くなったんです。その解剖に立ち合ったんですね。お弟子さんたちが相談して「もうがんが治らない。無理なことはやめよう」ということで、バイパス手術も最小限にして抗がん剤の投与もやめました。そして自然な姿で死を迎えられた、そういう治療経過があるんです。森先生は解剖に立ち合ったわけですが、「どうですか、感想は」と医科歯科大の名誉教授の春日先生に感想を求められまして、森先生は急に聞かれてどうしていいかわからず、とっさに出たのは「美しい死でありました」という言葉だったそうなんです。「美しい死」だと。何で言ったのか分からない、どうして美しいと言ってしまったのか、と考えに考えたことを日本医師会でお話しなさいました。それは「必要にして十分な医療、節度のある医療」ということなんです。要するに、水の足りない人に水をあげ過ぎて溺れたようになってしまうことがありますね、肺水腫や脳浮腫になったり。そういうのはよくない。逆に水分不足に水をやらないと干からびちゃう。そういうのもよくない。適度な医療というものがなければいい治療にはなりません。美しい死体にはなりません。もう一つ先生は「それには温かい心が必要だ」とおっしゃる。僕はそれが大事なんだと思います。それから森先生は品位についてもおっしゃっています。立派な車に乗って靴もぴかぴかで洋服も立派なんだけれど、何となく品位がない人っているでしょう。僕みたいにお金もなくて、小さくて、まぁ僕も品位がないけれど、品位がある人もいるでしょう。医療に対しても「品位のある医療がいい」というわけです。品位のある医療というのは患者さんを大事にして、患者さんの尊厳を保って、自然な死に導いていくということです。今日は尊厳死協会の方もいらしてますが、尊厳死協会の人たちも「自然な死」を願っていると思います。楽に死ねるのに、医者がいるためにわざわざ難儀して死ななければならない、そういうのは本当にいい死に方じゃない。ところが今は、そういう医者がいますから、簡単に死ねるのにわざわざ延ばして、解剖したら脳が溶けてドロドロになっているような医療をやっているんです。日本医師会の先生方に森先生は「どうぞ、日本医師会の先年方は若い先生方を指導する時に、品位のある、心温かい医療をして下さい。そうすれば患者さんが自然な死に向かいます」とおっしゃっているんです。森先生は「もう一つお願いがある。こういう職業を選んだ以上は人に奉仕する精神、欲を離れて人に奉仕する精神を養いなさい」ということもおっしゃいました。「奉仕はするけれど報酬は何もない、お金も入ってこない。けれども心の中に誇りがある。ひょっとしたら社会の人も尊敬してくれるかもしれない」。以上のようなお話でした。僕は二十何年こういうことをやってきましたが、本当に家を一軒建てただけでお金はありません。僕は昭和二十年に島根県から布団一組、米五升をかついで東京の学校に入りました。東京は焼け野原でした。普通に勉強しました。怠けたくても遊ぶものがないですから。昭和三十年くらいから、こういうライフケアに頭を突っ込んで一生懸命やってきました。そのせいじゃないと思いますが、お金は貯まりませんでした。でも僕は孫や子供に「おじいちゃんは、おやじは、金はないけど一生懸命やっているんだ。心に誇りを持っているんだ」と大威張りで言いたいと思います。皆さん、私のように心の中に誇りを持てますから、お金は貯まりませんが、ひょっとすると社会の人が尊敬してくれるかもしれませんから、そのつもりで緩和チームの立ち上げに努力していただきたいと思います。ありがとうございました。







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