六 蒸気車を運転した江川太郎左衛門英龍
この蒸気車の運転状況を是非とも見てみたいと思った男がいた。江戸の芝に屋敷を持つ伊豆韮山代官江川太郎左衛門英龍(号は坦庵)である。彼はさきに伊豆韮山に大砲製造のための反射炉を築造するなど、幕府の海防政策に重要な役割を果していた。また、かつて阿部正弘が西洋流砲術とその鋳造技術を習得させた人物に藩士の前田藤九郎がいるが、前田の派遣先が江川のもとであった。そうした因縁をもつ江川は、当時、幕府海防掛勘定吟味役として海防政策の一翼を担っていたが、この蒸気車の運転の様子をどうしても見たいという思いに駆られ、応接所の警衛に当たると称して横浜に赴いた。しかし、警護の任は幕閣の一人である林大学頭(号は復斉)から拒否された。
『ペルリ提督日本遠征記』に、「日本人は何時でも、異常な好奇心を示した。」と記されているが、当時、幕府の役人達はみなこの運転を見たいと思っていたのである。殊に江川はその一人であった。
『林大学応接録』によると、
二月十九日江川太郎左衛門、其の部下に属する敢死の士を六人許を率いて神奈川に来り、応接所警衛の任に当らんと云いしに、林等は之を辞したり。林等は思えらく、警衛としては、既に小倉松代二藩の士卒あり、若し応接所に於て俄に事変起りて、事破るるに至らば衛士闘士の決心なり。此場合、外国人直に江戸海に進入し、戦争とならんこと必然なるを以て、敢死の士は人たりとも多く江戸に留め置くを可なりと信じたる故に謝絶したるなり。
とある。しかし、江川の目的は警護の任にあるのではなく、蒸気車の運転を見学することにあり、それについては何度も林大学頭に請願した結果、ようやくその機会を得ることができたのである。
その後、江川は、この蒸気車を自分の手で運転してみようと考え、筆頭老中の地位にあった阿部正弘に、江戸城内の「竹橋御蔵地において蒸気車組立火入相試候様仕度」(『江川坦庵全集』所収)という伺書を提出した。それは日米和親条約締結から二か月後の五月八日のことである。
伺いは二日後の五月一〇日に許可され、幕府は、同月二三日この模型の運転に関する達し書を出した。この江川の伺書が容認されるに至ったのは、横浜で蒸気車運転を目の当たりにした多くの幕府当局者が好奇的印象を強く持っていたことが直接の要因であったと思われる。こうして蒸気車は江戸に廻送され、江戸城吹上苑内において阿部正弘ら幕閣による検閲の後、日本人として初めての蒸気車の運転が、将軍徳川家斉以下幕閣の前で行われた。
このことは江川ばかりでなく、ほかの役人のなかにも海外文明の利器に関心を抱き始めた者のいることを示すものである。幕閣の多くもまた横浜でのアメリカ人技師による蒸気車の運転に対し、単に驚異を感じただけにとどまらず、日本人自らの手で運転してみる企てを佳しとしたのである。それは、これまで海外文明の流入を頑なに拒んでいた幕府が、伝統的固定観念を打ち破り、その受入れを容認した画期的なことであった。それには進取の精神を抱いた江川など幕府役人の努力があったことは言うまでもないが、その一方で、阿部正弘ら開明的な幕府重臣の理解と容認があったからこそ初めて実現し得たことであろう。
七 蒸気車のその後
この蒸気車の運転は、「疾き事矢の如し」「之れに乗車して往来せば、一日に日本道百里余を通ると言う、実に不思議の器械にて其工夫驚くに堪たり」など多くの記録に残されるほど衝撃的な出来事であった。
また、丹後国田辺藩士の嶺田楓江には、次のような作品がある。
江陵千里喜臻 敢不失言同載人
天地傚形制何大 坎離戮力御尤神
轉輪快絶如流水 陪乗連索似卜隣
尼叟漫林説殷輅 古来致遠恐無倫
(江陵千里か(すみやか)に臻る(いたる)を喜ぶ 敢て言を失はざらんや同載の人 天地形を傚ふ(ならふ)制何ぞ大なる 坎離(かんり)力を戮せ(あわせ)て御すること尤も神なり 転輪快絶流水の如し 陪乗連索隣をトするに似たり 尼叟漫りに殷輅(いんろう)を説くを休め(やめ)よ 古来遠きに致すこと恐らくは倫(たぐい)無し)
(注:坎離は水火、尼叟は孔子、殷輅は殷の大車のこと。)
嶺田がいつこれを作詩したかは不明であるが、彼はペリー再来の折、幕府応接掛に同行して横浜に行っていることから、蒸気車の運転を目の当たりにしたときのことを述懐したものであろう。
こうした進取の精神と細やかな観察力が、今後、自分たちの手で蒸気車を製作し、さらには鉄道を建設していこうという姿勢へと展開していくのである。しかし、残念ながら幕府側から鉄道を建設しようという動きには至らなかった。軍備の近代化は手掛けたものの、財政が逼迫状態のなかで、鉄道建設に投資する余裕などとてもなかったからである。蒸気車の運転を体験した幕臣や藩士の能力は、幕府のもとでは発揮されることはなく、鬱屈したまま鉄道建設の夢は明治新政府になって実現されることになった。
ちなみに、日本で最初に鉄道が開通したのは明治五年(一八七二)、新橋と蒸気車が初めて運転された地である横浜との間を結ぶものであった。それは、ペリーが日本に蒸気車を将来してから一八年後のことであった。
ところで、ペリーが将来したこの蒸気車は、次のような事情により今はない。これを保管していた幕府は、文久年間に設置された開成所に研究資料として移した。そして、当時軍艦奉行であった勝安房守海舟が書き残した『海舟日記』の文久二年(一八六二)一〇月二八日の条に、「操練局寄合、蒸気車雛形御預替に付、一見、手入等を議す。」とあるように、さらに、蒸気車は神戸海軍操練所に移され、保管された。しかし、その後明治五年一月一八日、京都府で博覧会が開催されるにあたり、当時の工部少輔山尾庸三が正院に蒸気車を出品するための上申をしたところ、元治元年(一八六四)三月、火災によって既に焼失していたことが判明した。これは、鉄道の濫觴を物語る一級資料であっただけに、誠に惜しむべき出来事であった。今は、絵図等をもとに復元された神奈川県立歴史博物館所蔵の「蒸気機関車模型」から偲ぶしか術はない。
八 おわりに
以上、ペリー将来の蒸気車について述べてきた。しかし、ここでは論及しなかったが、日本人が国内で最初に蒸気車を見たのは、嘉永六年(一八五三)七月一八日に長崎に来航したロシア使節プチャーチンの軍艦上でのことであった。それはペリーが再来航する約半年前のことであった。そして、この蒸気車の運転を見学した佐賀藩精煉方の中村奇輔は、それから二年後に早くも蒸気車を設計し、製作している。これは鉄道記念物に指定され、現在、交通博物館に保管されている。また、佐賀藩に続いて薩摩藩、福岡藩、長州藩、加賀藩でも蒸気車が製作された。しかし、見学しただけで模型とはいえ、蒸気車を製作する知識と技術の修得の早さは驚嘆に価すべきものである。それは一朝一夕に修得できるものではなく、ペリー来航以前から培われ、蓄積された蘭書から得た知識があって初めて可能なことであったと思われる。したがって、蒸気車の製作は早晩各藩において着手されるものであり、ペリー来航が単にその契機となったものと考えられる。
ちなみに、阿部氏の居城であった福山城の南堀を埋め立てて線路が敷設され、鉄道が開通したのは、嘉永七年五月に阿部正弘が江戸城内において蒸気車運転を実見してから三七年、逝去してから三四年後のことであった。
畳おもての備後には 福山町ぞ賑わしき
城の石垣むしのこす 苔にむかしの忍ばれて
(「鉄道唱歌」山陽編より)
桶畑翁輔の描いた蒸気機関車模型 (「日本国有鉄道百年史」第一巻より転載)
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