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福山藩の洋式帆船「順風丸」と「快鷹艦」
―老中阿部正弘と中浜万次郎―
阿部正道
 嘉永六年(一八五三)六月、アメリカのペリーの艦隊が来航して江戸湾に侵入したことは、幕府に大きな衝撃を与え、幕府はこれまでの沿岸砲台設置に加えて急遽懸案の洋式軍艦の入手に着手した。
 老中首座阿部伊勢守正弘は、同年七月二五日付けで、海防参与徳川斉昭に、急遽オランダに蒸気軍船の注文を長崎奉行に命じたことを伝えた。かねてから軍艦の必要性を説いていた斉昭は、このことに喜んで同意した。斉昭は翌二六日付けで、洋式軍艦製造については、水戸藩の蘭学者鱸半兵衛に指名されたが、大船製造の経験もなく、もし仰せつけられるならば、漂民万次郎に相談されたらよいと伊勢守に返信をしている。
 土佐国中浜(高知県土佐清水市中浜)の漁師の子万次郎は、天保十二年(一八四一)一月七日、一四才で初出漁中に、異常な黒潮海流に流されて仲間と無人島(鳥島(東京都))に漂着した。
 五月九日にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助されて、ジョン万次郎と呼ばれ、船員として働き、ハワイで四人の仲間と別れて、船に留まり、一八四三年五月七日にアメリカ東部マサチューセッツ州の捕鯨基地、ニューベッドフォードに入港した。隣接の町フェアーヘブンでホイットフィールド船長一家の保護で学校教育を受け、測量や航海術などを習得した。
 一八五〇年一二月、ハワイで仲間と帰国の準備をし、翌年旧暦一月三日(嘉永四年)、琉球の摩文仁海岸(沖縄県糸満市)に上陸した。
 八月一日鹿児島着、島津斉彬の聴取を受け、長崎に送られて、一〇月三日から五〇日間にわたり取り調べを受けた。阿部正弘は長崎奉行(牧志摩守)義制から報告を受けて居たので、万次郎に注目し、登用を考えていた。
 嘉永六年六月二〇日、正弘土佐藩宛通達で、万次郎は、八月一日高知を出発し、三〇日江戸着、土佐藩邸に入った。正弘は江川英龍、川路聖謨などと共に、諸外国事情を尋ねて彼の海外知識や航海の技術、その聡明さを認め、一一月五日に幕府直参にとりたて、中浜の姓が付けられた。同月二二日付で万次郎は、江川太郎左衛門英龍の手付(秘書)となり、本所の江川屋敷に住んだ。翌七年、ペリー再来に当り、江川は万次郎を通訳として正弘に推せんしたが、米国帰りの万次郎に疑惑をいだく水戸の斉昭一派の強い反対でとりやめとなった。
 同年九月一五日には幕府は大船建造を解禁し、浦賀奉行に鳳凰丸の建造を命じ、翌安政元年(一八五四)五月に竣工した。一一月には旭日丸の建造を水戸藩に委託し、三年五月に横浜で竣工。薩摩藩では既に鹿児島で昇平丸の建造にとりかゝっていたので、竣工は安政元年一二月であった。翌二年二月二三日に同船は鹿児島を出帆し三月一八日品川に入港し、同年八月幕府に献納され「昌平丸」と改名した。どれも三本マストのバーク型である。
 一方、オランダに発注した軍艦は安政元年七月、スムピン号が長崎に来航し、艦長ファビュスのもとで造船、蒸気機関・砲術などについての伝習が始まった。この船は翌年八月幕府に寄贈されて、後に「観光丸」と称した。
 安政二年九月、幕府が長崎に派遣する海軍伝習生は昌平丸に乗船した。出発前に阿部正弘は、伝習生の勝麟太郎(海舟)や矢田堀景蔵などに伝習に当たっての心得を訓戒した。一〇月二〇日長崎入港、同月二四日に長崎海軍伝習所の開所式が行われた。各藩からもそれぞれ伝習生が参加し、福山藩では四名であった。
 安政四年(一八五五)には新造鑑ヤツバン号がオランダから長崎に入港した。これが有名な「咸臨丸」である。翌年五月にはその同型の姉妹鑑エド号が入港し、朝陽丸と改名された。長崎でオランダ派遣の教師団からの伝習は安政六年まで続いた。
 江戸では同四年四月に築地講武所内に軍艦教授所(万延元年正月に軍艦操練所となる)が設けられ、長崎での第一次伝習生が教授となり海軍士官の養成に当たった。此の時に中浜万次郎もその教授に任命された。万延元年(一八六〇)、遣米使節一行の別鑑として、軍艦咸臨丸が派遣された時の乗組士官たちは軍艦操練所の教授たちで、その頭取が勝麟太郎であった。此の時中浜教授は「通弁主務」の役で乗艦した。
 一九六八年に中浜万次郎(一八二七〜一八九八)の銅像(大谷 研作製、像身四メートル)が、その郷里の四国足摺岬(あしずりみさき)に建てられた。
 万次郎が開成学校(東京大学の前身)の教授時代の明治三年(一八七〇)四三才の姿で、左手に三角定規とコンパスを持っている。
 同地の土佐清水市は、米国のフェアヘブンと隣接のニューベットフオード市と「姉妹都市」を結び交流を深めている。
 阿部正弘は、福山藩の洋式帆船の建造計画をし、既に中浜万次郎にブリッキ型(二本マストの帆船)の雛形(ひながた)を注文していた。しかし起工までにならず、安政四年(一八五五)六月一七日に逝去し、次代の正教(まさのり)(正弘の甥)がその遺志を継ぎ造船計画を進めたが、文久元年(一八六一)五月二七日に逝去、起工は翌月一日であり、弟の正方(まさかた)が藩主になった時からであった。靹の津で造船された大船は、「順風丸」と名付けられた。造船木屋番小川新助及び乗組員西井徳の「覚書(おぼえがき)」に拠れば積載噸(とん)数二〇七噸、進水式は文久二年六月一八日、竣工九月二八日(『阿部正弘事蹟』)である。『沼隈郡誌』には、三本マスト、砲二門、長廿二間、幅四間、水上二間と見え、試運転の翌二九日には、箕島沖で藩士が見物したと記されている。靹町「中村家日記」には、「惣乗組人数凡八十四人之由」とあり、山手町三谷家文書に拠れば、文久二年一〇月二六日から二八日までの三日間、大門沖の瀬戸に停泊し庄屋や御用達(御用を勤める出入商人)などが見学を許された。(『福山市史』)順風丸絵図の写真は、今日東京大学安達裕之教授の御厚意によるもので、ここに、改めて御礼申し上げる次第である。この絵でも三本マストの洋式帆船で、初期の計画の二本マストのブリッキ型からバーク型に造船されたことがわかる。日の丸が掲げられているのは、安政元年七月九日に「日本惣船印(そうふなじるし)」として決定されたためである。右上に、阿部主計頭(かずえのかみ)(正方)軍船順風丸、長一八間五尺、幅四間壱尺、深四間とある。又、藩主の鷹羽紋と石餅紋を福山藩の船印として掲げる位置が示されている。
 正弘に近侍し、誠之館教授に任命された江木鰐水()の慶応元年(一八六五)編著『仰高芳蹟』に、順風丸は、「後年諸藩土着(在住)ノ事トナリテ上方様(かみがたさま)(殿様)初、江府(江戸)ノ藩士福山へ移住等ノ節、大船ニテ快奔(走)ノ事故、大(おおい)二便宜ヲ得タリ、皆公(正弘)ノ御餘功也」と記している。しかし、その『鰐水日記』には、順風丸の名称記事が全く見当たらない。代って「快鷹(かいよう)艦」と呼ぶ藩船の利用が、明治四年(一八七一)六月から同六年一一月にかけて見出される。これは、明治元年戌申戦争当時か、翌年六月の版籍奉還ころに新政府の船となったものと思われる。或いは船名がいつの時点からか改称されたものであろうか。
 明治三年、福山藩知事阿部正桓(まさたけ)(正方養子)の『東京遊学日記』に、五月五日靹浦から快鷹艦に乗り、その夜は、「播州江島繋泊」(播磨灘の家島の泊地か)翌早朝出帆し神戸港で下船。神戸からは八日に米船アラゴニヤに乗船し、一〇日早朝横浜入港、馬車で東京に向い、本郷丸山邸(文京区西片町)に着いたと、手記されている。『鰐水日記』では、同四年六月三日に吉澤信吉が公用で大阪まで乗船。同年七月一四日に廃藩置県の詔書が出、同時に旧藩知事は東京に移住の命令が中央政府から布達された。阿部正桓は九月二一日に靹浦から乗艦するために福山を出立しようとしたが、藩主を留めることを契機に農民騒動が起こり正桓自らも出馬して鎮撫に当たった。このため東京移住は延期となり、一一月になった。
 一一月三日条には「前知事公東移 清心院様(正弘継室)幽蘭様(豊子、正方姉)御奥様(壽子(ひさこ)、正弘六女 正桓室)諸公主皆東行 行理蕭然快鷹艦一艦而発、挟岸士庶、跪拝拝送、(江木)送五穀社前、嵯乎(ああ)天下大変革容易成就」と、旧藩主を見送る状況が感慨深く記されている。翌年一〇月四日には正弘以来の功臣関藤藤陰(石川和介)が正桓の召しに応じてその家政補佐に上京のため、靹津から乗船した。六年二月一日条には、津川右弓から「快鷹歸天朝、不歸縣」と聞き、思出深い藩船が朝廷のものになり、県(当時は小田県)の船にもならなかったことを惜しんでいる。
 快鷹艦についての建造年月日や形状の資料が見当たらず残念である。順風丸の改名ならばよいのだが。両艦の資料について御承知の方があれば御教示をお願いする次第である。







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