ペリー将来の蒸気機関車模型
松崎哲
一 はじめに
嘉永七年三月三日(一八五四年三月三一日、以下、新暦表記は省略する。)、日本は最初の近代的条約である日米和親条約を締結した。その決断を下したのが江戸幕府老中首座である福山藩主の阿部伊勢守正弘であった。
この条約の締結交渉が進むなかで、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、アメリカ大統領からの献上品を将軍へ贈呈した。そして、その主要品目のなかに蒸気機関車模型(以下、「蒸気車」と言う。)があった。
ここでは、ペリーが蒸気車を将来した目的と意義、そして、それらが及ぼした影響等について述べるとともに、当時、幕府の要職にあった阿部正弘がこれに関わった事跡についても若干触れてみたい。
二 ペリー来航以前の日本における鉄道知識
日本人が鉄道に関する情報を得ることができたのは、鎖国以来、毎年オランダ商館長が幕府に提出した『オランダ風説書』及び『別段風説書』であった。
鉄道の知識に関して確認し得る最も古い記録は、弘化三年(一八四六)の『別段風説書』に、フランスが中央アメリカのパナマ地峡で計画している鉄道敷設の建設費に千百万フランを要することを伝える記事であろう。このパナマ地峡のことに関しては、嘉永四年(一八五一)年の「テヒユアインパイ峡谷に轍路を設け侯由に候」という記事もある。また、翌五年のエジプトのスエズにおける「シュースの岬に轍路を開候事」、さらにペリー来航以後のことになるが、安政四年(一八五七)の「南アウスタラリヤにおいては近頃一般運踰便利のため初て鉄路を開きたり」といった記事などが見られる。しかし、ここで注目すべきは、ペリーの蒸気車贈呈を機に、文中の鉄道用語が「轍路」から「鉄路」へと変化していることである。それによって、日本人通詞(通訳)が鉄道の知識をより深く認識していったことが窺われる。「轍路」とは鉄道と関係のない荷馬車などが通る道を意味し、「鉄路」とは鉄製の線路即ち今日の鉄道を指すものである。このことは、日本人の鉄道に関する知識が、いわゆる「風説」から「科学的認識」へと高度の段階に至ったことを示すものと言えよう。
さきのパナマ地峡における鉄道敷設計画について、ペリー艦隊が再度来航したとき、オランダ通詞の一人として交渉に当った浦賀奉行所の森山栄之助は、ペリーらに対し、「パナマ地峡に建設されている鉄道は完成したのか」と質問し、アメリカ側を驚かせ、日本人が海外事情に疎いという考えは誤っていたことを認識させている。
また、薩摩藩士で蘭学者の川本幸民は、嘉永三年(一八五〇)に著した『汽海観瀾広義』のなかで既に蒸気車について記している。それは、即ちペリーが来航する以前に、日本では蘭学をもとに、蒸気車の科学的原理が明らかにされつつあったことを表わすものである。とりわけ、薩摩藩における蒸気車の製造は、川本により、安政二年(一八五五)には早くも完成されたと言われている。
ところで、鎖国中にもかかわらず、外国で汽車に乗った人物がいる。それは土佐藩の漁師をしていた中浜万次郎である。彼は、天保一二年(一八四一)一月五日に漁に出て遭難し、アメリカ船に救助された。彼が帰国した後、幕府に対して行った陳述のなかで、「いつも遠くへ行くときは、『レイロヲ』(鉄道)と称するところの『火車』(汽車)に乗っていく」と述べていることから、中浜万次郎こそ日本人として最初に蒸気車に乗った人物であったと思われる。
三 ペリーから献上された蒸気車
ペリーによって将軍へ贈呈されたアメリカ大統領からの献上品の主要品目には電信機械、時計、望遠鏡、小銃、サーベル、ラシア、農具などとともに蒸気車があった。
ペリーがこうした品々を持参した目的は、その内容によって文明国の威力を誇示することにあった。献上品のすべてが近代文明によって生まれた利器であり、どれひとつを取り上げても、当時の日本人が驚嘆するに違いないと考えたからである。
蒸気車は、二月一五日にほかの品々とともに陸揚げされた。そして、翌一六日、横浜村に設置された応接所の裏地の麦畑を利用してレールが敷設され、そこで蒸気車が組み立てられた。そうした準備のあと、二三日に幕府応接掛ほか多くの日本人の面前で、アメリカ人技師による運転が行われた。
ここでの運転では、日本人の目の前で行われたばかりか、実際に見物人を乗せて走らせたものである。それは、これまで観念的にしか知らなかった日本人の鉄道知識を具体的に示したものだけに、大きな効果を奏するものであった。しかし、それよりもこの催事が武力の行使とは異なり、友好のなかで外交交渉を成功させる効果を持つものであったことが特筆されるべきであろう。
では、蒸気車が陸揚げされ、組立て作業が行われるなかで、その外交上の政策的効果が日本人の心理にどのような影響を及ぼしたかを、『ペルリ提督日本遠征記』から見てみよう。
贈物が正式に渡されたので、特にこの目的のために選抜されたアメリカの諸士官と労働者達とは、それを展覧するために、毎日精を出して荷を解き、整理した。日本の役人達も、あらゆる便宜を与えてくれた。・・・又小さい機関車の円周軌道を敷設するために少しばかりの平地が指定され、電線を張るために竿を持って来て建て、日本人はあらゆる労働を少しも辞せず、機械の整理と組立ての結果を無邪気な、子供らしい喜びをもって注意していた。
ここで言う「特にこの目的のために選抜されたアメリカの諸士官と労働者達」とは、外交を成功させるために選抜された人たちのことであり、この催事が単なる見世物ではなく、それを成就させようとするアメリカ側の並々ならぬ意気込みが感じられる。「この目的」とは、言うまでもなく、アメリカ大統領からの強い意思即ち日本に対する開国要求の貫徹であった。
また、ペリーは、日本人が「機械の整理と組立ての結果を無邪気な、子供らしい喜びをもって注意していた」とも記している。これは、ペリーがこの催しに絶大な効果のあった確信の喜びを意味するものであろう。即ち、アメリカ人にとっては既に実用化された乗り物であるが、日本人には未だ珍奇な利器であることから、すすんで「あらゆる労働を少しも辞せず、機械の整理と組立ての結果を無邪気な、子供らしい喜びをもって注意していた」のである。そして、その多くが幕府関係の武士だっただけに、この催事の成功は、ペリーにとってなおさら満足すべきものだったことであろう。
四 横浜での蒸気車の運転
蒸気車は、アメリカ人技師のダンビイ(Danby)とゲイ(Gay)によって長さ約一〇〇mの円形の線路が敷設されたあと、実物の四分の一のスケールで製作された炭水車付き機関車と客車が組み立てられた。そして、この蒸気車は、二月二三日から数度にわたり、幕府の応接掛ら多くの日本人が見守るなかで、アメリカ人技師の手によって運転された。そのときの様子は、『亜墨理駕船渡来日記』(抜粋)に、次のように記されている。
十六日 蒸気車
・・・今日より組立に取掛る外、異人の工匠五人其余手伝大勢にて右機関興行の場所水盛等始め候。蒸気車興業の場所は、応接場裏の方に麦畑の中に、回り六十間巾三尺計輪の如くに地を切開き、其処へ巾二尺計の階子を幾挺も輪の如に埋む。右の階子の親骨の内の処へ伸金を張り候。車此上を回り走りの利の為なり。右埋候階子の内輪を少し低くいたし外輪の処を少し高く仕候。是は車彼六十間の中にて幾度も回り候間、少し低垂を付けねば回る具合不宜。右に付箇様に六つかしく仕候。平地を行り候えば、五里も六里も水盛なしに少しの高低は火勢にて推切飛行申候。今度は御役人方棧舗の上にて一所に居て御覧に付、輪の如く場所を作り候・・・
二十三日 蒸気車組立出来図左の通り。(図は省略)
第一番の車台の上に有之大筒の如き物を鉄火炉と名づけ、上に有之候五つの器を総じて申候えば則連筒と申候分に申候得ば、第一番の煙の出る物を気箱と申候。煙気の通る箱なり。二番の風鈴は湯の湧たるを知る、湯湧かば鈴なる也。三番は湯の気を上へ吸上る物、湯気を上へ通せざれば湯勢なし。四番は不知。五番は湯減る時水を注ぐ物也。
一 中の台は連煤炭と申す火焼の者乗りて、水火の世話する処なり。台箱の上には焼木石炭を置、中は水を用意す仕かけなし。
一 後の車台屋形の如きは架連路と申候。貴人の乗る所仕かけなし。・・・
運転は、蒸気車が胴部の膨らんだ菱形の煙突から黒い煙を吐き、白い蒸気を出して、客車を一両連結して線路の上を時速二〇マイル(三二km)のスピードで走った。
仙台藩士大槻磐渓らは、藩主の命を受けてこの蒸気車を「金海奇観」という図巻に描いている。それによると、この軌道の構造は、軌間一尺八寸一分四厘、軌条幅五分七厘、高さ四分、軌条の下に幅一寸五分六厘の受板を置き、枕木の間隔は七寸九分、枕木そのものの幅は一寸八分となっている。そして、蒸気車の煙室扉に表記されているNORRIS MORKS〔MはWか〕1853は、一八五三年フィラデルフィアのノリス兄弟商社が製作したことを示している。
また、応接所の守備の任に当たった松代藩士樋畑翁輔(号は雪湖)も、藩命によってペリー来航に関わる図巻を製作しており、そのなかに「四分之一雛形」と注記した蒸気車の絵図が見られる。それによると、蒸気車は長さが八尺、先輪二軸と動輪二軸の炭水車付きの2Bテンダ型機関車であり、客車は一丈一尺五寸、線路の幅一尺八寸一分四厘となっている。この絵図は、『日本鉄道史』(上編)に「嘉永年間渡来蒸気車」として掲載され、「明治四二年六月、横浜開港五十年記念史料展覧会に出品された張雑屏風(下岡蓮杖蔵)に、蒸気車を描いた絵が二枚ある。この絵の説明によると、機関車は長さ八尺、横五尺、動輪円周六尺、従輪円周三尺となっている。客車は長さ一丈一尺五寸、幅七尺二寸、高さ一丈で、『腰板唐木、唐かねのほりあり。柱高欄付、朱ぬり金物ほり、みすほ針線にて縁通し羅紗模様縫あり。同ふさは皮にて色紫金うちまぜ、家根羊皮黒漆、うちは朱塗』となっている。車輪の直径は六〜七寸で、炭水車の車輪直径は一尺三寸と考えられる。」といった主旨の説明がある。
こうした大槻や樋畑らによって製作された図巻は、蒸気車の実寸法がいずれも同数値で記されていることから蒸気車本体の大きさを知るうえで貴重な資料である。また、それと同時に彼らの観察力の精確さや描写力の豊かさと表現力の優秀さが窺われる。
五 蒸気車に乗った河田八之助興
蒸気車が運転された三日後の二月二六日、これに乗ってみたいという幕府の役人が現れた。林大学頭の家塾長でアメリカ使節応接掛の任に当たっていた河田八之助興(号は恵迪斉)であった。
それについて『ペルリ提督日本遠征記』は、次のように述べている。
その客車は極めて巧に製作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子供をやっと運び得るだけであった。けれども日本人は、それに乗らないと承知ができなかった。そして車の中に入ることができないので、屋根の上に乗った。円を描いた軌道の上を一時間二十哩の速力で真面目くさった一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながらぐるぐる廻っているのを見るのは、少からず滑稽な光景であった。
彼は烈しい好奇心で歯をむいて笑いながら屋根の端に必死にしがみついていたし、汽車が急速力で円周の上を突進するときには、屋根にしがみついている彼の身体が一種の臆病笑いで、痙攣的に震えるので、汽車の運動するのは何だか、極めて易々と動き突進する小さい機関車の力によると云うよりも、寧ろ不安げな役人の巨大な動きによって起るもののように想われたのである。
文字どおり読めば、客車は長さ、高さとも三m以上あったものの、車内に入るのは子供でなければ困難だったので、やむなく河田八之助興は屋根にまたがった。はじめは速度も遅く、乗馬スタイルで乗っていたが、蒸気車が速度を上げ、振動が大きくなるにしたがい、屋根にしがみついて震えていたという。
一方、彼はそのときのことを日記(『恵迪斉全集』所収)に、次のように記している。
其の火輪車は、則ち先づ車路一盤を置き、鋳鉄にて渠を為り、凸線を起し輪を安じ、分寸軌に合す。平坦堅整にして周環数百歩、以て馳駆に便にす。前車一は煙筒、火箱及び諸機関を載す。後車一は人を載する興にして、その形櫃の如く、左右に門を啓き以て出入に通ず。中には数十人の安座の位を設く。
下には四輪を置き鉄鉤を以て之れを前車に接聯す。
然れども此れはその格式なるを以て、僅かに能く両三人を載するのみ。余試乗するに花旗人をして、これを行はしむ。火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し。
(注:格式は模型、花旗人はアメリカ人、数匝は数回を意味する。)
この二つを読み比べてみると、日本人の文明の利器を探究する姿は、「真面目くさった一人の役人がその寛かな衣服を風にひらひらさせながらぐるぐる廻っている」とあるように、アメリカ人には滑稽姿と映ったようで、これまで文明の利器に接していなかった未開の民族が驚愕しているさまを、なかば潮笑するかのように述べている。しかし、河田の記述からは、彼が単に文明の利器を眺め、検査するだけでなく、筆記具を用意して真剣にスケッチをしながら詳細に記録していることを知ることができるのである。
こうした好奇心と観察力は河田ばかりでなく、当時、幕府の役人の多くが持っていたものである。それは、単に見るだけでは収まらず、自分自身で体験し、究明しようという積極的姿勢の表われであった。蒸気車の運転は、海外文化の摂取に努めていた者たちに好箇の刺激を与える機会となったのである。そうした人物を、もう一人あげよう。
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