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老中阿部正弘の肖像
阿部正道
 広島県立誠之館高等学校同窓会御所蔵の「阿部正弘肖像画」(五姓田芳柳画)をめぐり、その創作当時を回顧してみたい。
 この画像(額装の油絵)は、阿部家の旧本邸(明治二十四年建築)の応接「一ノ間」正面床の間右横上の広い壁面に掲げられていた。
 この応接室は上客向の一の間から三の間と続く一棟で、高い天井であった。
 現在、此の建物は、小石川の白山神社(文京区白山)にある。昭和三年(一九二八)阿部家の土地建物整理当時に氏神である此の社に寄贈された。
 毎年秋の大祭の時などに、直会(なおらい)がここで行われ、私は乾杯の音頭を取らされているが、小学校時代にこの絵を仰ぎ見ていたころを思い出すのである。
 肖像画は其後土蔵に保管されていたが、福山誠之館創立百周年(昭和二十八年)を記念して三十二年(一九五七)、同校に寄贈された。
 この画の製作当時について、明治二十四年(一八九一)生の父正直から、「岡田吉顕が正弘公の衣装をつけてモデルになった」と聞かされた。
 浜野章吉編『懐旧紀事‐阿部伊勢守事蹟』の挿絵の下に、「五姓田芳柳謹写」と記され、上半身が掲載されている。此書は明治三十二年(一九〇〇)一月発行であるから、三十年ころに製作されたものとすれば、父の六才当時の記憶となる。
 又、作者芳柳は、初代は明治二十五年に歿しているから二世芳柳に当たる。
 一世五芳柳は明治初年横浜でチャールス・ワーグマン〔英国「絵入り新聞」(イラストレイト・ロンドンニュース)の特派員として来日し、絵をよくした。〕の洋画の技法を採り入れ、世に「横浜絵」「写真絵」と称されて流行した。明治六年(一八七三)芳柳の「明治天皇肖像画」は、前年に内田九一が撮影した写真をもとにしたのであった。〔兵庫県立美術館特展(一九九〇)「日本美術の19世紀」〕
 次男義松は、慶応元年(一八六五)一〇才でワーグマンに師事したが、その上達が早く一三才ごろには本格的な洋画を描けるようになったと云う。
 明治十一年(一八七九)二三才の時に明治天皇から孝明天皇肖像(泉湧寺蔵)の写しを依頼され八月五日に完成し献納した。同年秋の北陸東海御巡幸の際には御付の画家として随行し、各地の風景など五〇程の作品を残している。〔神奈川県立博物館特展「明治の宮廷画家五姓田義松」昭和六十一年(一九八六)図録参照〕
 二世芳柳(一八六四〜一九四三)は下総から上京し、義松に此の年(十一年)に師事し、明治十八年芳柳の養子となり二世を称した。歴史風俗画に多くの名作を残し、三十三年(一九〇〇)のパリ万博にも出品している。〔市立福山城博物館特展平成七年(一九九五)「阿部氏十代展」図録解説〕
 さて、正弘公の御容姿については、まず第一に吉田洞谷筆(絹本着彩)の画を参考にしたものと思われる。阿部家は明治二年一二月(一八六九)に新政府の政策に従い仏式から神式にし、歴代の命日も陽暦に改めた。当初法号帳に朱書された月日は、後日修正されて祭典録に記された月日で祭祀を行っている。正弘公の場合は良徳院殿安政四年(一八五七)六月一七日が、正弘霊神七月一一日となり、後に八月六日と定められたのである。
 此の時に先祖の祭日に書院で拝する神位として、吉田洞谷、藤井松林に依頼し、次の「御画像」が製作された。洞谷筆は正精、正寧、正弘、松林筆、正教、正方の五幅である。右歴代の軸装にはなんの記載もなく、端にわずか御名を記した紙庁が結びつけられ、一括して桐の大箱に入れた状況であった。このためか、特に正精・正弘両公の判別が(紙片がとれたものか)難しくなった。渡邊修二郎著『阿部正弘事蹟』(明治四十三年一〇月発行)に掲載された正精とする画は芳柳描写の正弘画と比較し眉目などの容姿が似て居り、写真掲載の折に何かの手ちがいから入れ替わったものと考えざるを得ない。
 洞谷が正弘在世当時からの絵師であったことは、公の奥方(嘉永五年歿)「寛恭院画像」(謹姫実名菅子)を画き、公が「朝夕にしのぶおもひの増かがみ、わすれかたみに写してそみる」と追悼の画賛をされていることから明白である。
 安政二年(一八五五)から四年まで正弘晩年に近侍した武田直行は、『仰高芳蹟‐阿部正弘公御行実』〔慶応元年(一八六五)七月一二日江木編纂、関重信増註〕を訂補し明治四十四年(一九一一)一月一五日発行した。右書に「公ノ御人ナリ御身長ハ御中背ニシテ御肥満被遊、御色白ク、御眼冷カニ、御髪黒ク潤ハシク御面相イツモ春ノ如ク賑ハシ」(後略)と記している。直行は翌四十五年(一九一三)歿。建築家 武田五一の父である。
 濱野章吉(箕山)も正弘に仕え嘉永六年に藩学制改革の建議をして賞された。明治元年誠之館総裁に就任し、第一次誠之館改革にとりくんだのである。〔大正五年(一九一六)歿〕
 芳柳による油画は、洞谷の正弘肖像画(絹本著彩一〇九・三×五四・三)をもとに、濱野、武田などの正弘に近侍した人々の教示により公の御容姿が完成したものと云える。前述の歴代の肖像画は御神位として取扱われていたので門外不出であったが、昭和四十八年の福山城博物館秋の特展「阿部正弘と開国」に正精、正弘、寛恭院画像が展示され、平成七年春の同博特展「阿部氏十代展」には全画像が展示された。正弘画像は右両特展図録の表紙画となった。
 昭和五十二年(一九七七)二月、「阿部正弘公銅像建設委員会」から依頼された陶山(すやま)定人氏(新市町戸手出身)が来られ、正弘公の人柄などについて質問された。そこで芳柳の「正弘画像」の写真や福田禄太郎著『阿部正弘』(大正十三年発行)や阿部鷹の羽紋章の図を送った。六月になり、相模原市御園の陶山氏宅のアトリエを訪問したりし、扇子、脇差の位置、袴の折目羽織のヒモの位置や、握りこぶしの親指の位置などについて参考資料などをもとに話合い修正をすすめた。
 陶山定人氏は昭和元年(一九二六)生、十七年(一九四二)に澤田政廣先生(文化勲章芸術院会員)に入門し、五十年第七回日展の出品で特選を受け、其後日展の審査員もされた。其の著者『創生。この道ひとすじ五十年』に「地元備後の人々にとって郷土の誇りであり、三十八才という若さで亡くなられた名君の銅像再建は長年の夢であった」と記されている。
 肖像は高岡(富山県)で鋳造され福山に送られ、翌五十三年(一九七八)四月六日除幕式を迎えた。
 当時除幕に当ったのは、正弘公の幼名「剛蔵」の一字をいただいた孫の正剛(たか)(四才)であった。福山城二ノ丸跡に再建された正弘公銅像は、戦前の衣冠束帯の姿でなく、羽織・袴で、左手に「洋書」を抱えて居られる点に特に注意すべきである。
 明治廿二年(一八八九)、福山旧藩士田邊新七郎、山岡謙介、濱野章吉三氏が、勝伯爵の赤坂氷川邸に訪問した時の聞き書「勝伯論話」(阿部家文書『諸家説話』の内)から、正弘の洋楽志向について触れたい。「予(勝海舟)ハ薩州ト阿部家ニ於テ頗ル縁故ノ厚キモノナリ(中略)予ハ素ト三拾俵二人扶持小給ノ御家人ニテ極貧寒者ナリシニ、少年ノ時ヨリ洋学ヲ好ミ蘭書ノ筆耕ヲ以テ学資トセリ」に始る。(以下要旨)当時薩摩藩邸に招かれ洋書の写字をする内、島津斉彬公に認められるようになった。時に、長崎の人杉純道(享二)が勝家の食客となっていた。閣老阿部伊勢守殿も蘭学者を召抱えることを希望して居られたので、杉を推挙したところ、直ちに二十人扶持で召抱えられた。この縁で勝は伊勢守に知られるところとなり、斉彬公の推せんで百俵取の旗本に昇格し、長崎の海軍伝習所〔安政二年(一八五五)一〇月開校〕に差向け蘭人から航海術の伝習を命ぜられた(下略)杉純道が安政二年初めて正弘に招かれた時の様子が前述の福田禄太郎『阿部正弘』に「正弘公はドイツのゴツタ版ハンドアトラス(地図帖)を取り、講義を命ぜられたので、説明した所、公は微笑しながら、「日本は如何にも小国である。予は世界の形勢についてやや発明する所あり」と云われ、更にグラムマチカの講義を命ぜられたので、オランダの文法を説明した。更に、「原書は何れにしても入用のものを注文して取りよせよ」と云われ感じ入った」と記されている。
 この年(安政二年)幕府は「洋学所」を設置した。江戸の九段坂下で「蕃書調所」の名称で開校されたのは安政四年(一八五七)正月であった。其後、洋書調所、ついで開成所と称され、明治元年(一八六八)維新政府に受け継がれ、翌年「大学南校」となり、同七年東京開成学校と改称し、一〇年(一八七七)に東京医学校を合併して東京大学となったのである。(角川『日本史辞典』)







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