日本財団 図書館


20 横山軍太宛阿部正弘書状(よこやまぐんたあてあべまさひろしょじょう) 【写真パネル】
嘉永二年(一八四九)
原資料:備後護国神社(写真提供:広島県立文書館)
 阿部正弘が家臣・横山軍太(よこやまぐんた)に宛てた書状。藩政の不正を監督するために内密に目代(もくだい)に命じ、帰国するように指示している。
 阿部家当主は代々老中等幕府の重職にあり、参勤交代の義務は免除され帰国することはまれであった。正弘の場合、帰国したのは天保八年(一八三七)の二か月間だけで、それだけに藩政に対して注意を払っていたことがわかる。
 
21 英国侵犯事略並和解(えいこくしんぱんじりゃくならびにわげ) 一冊
江戸時代後期 冊子写本 紙本墨書・著色 二六・一×一七・八
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 清国からのアヘン戦争関係情報を中国通詞(つうじ)(通訳)・頴川四郎八(えがわしろうはち)と鄭幹輔が翻訳し、上原某が写して一書にまとめたもの。漢文・イギリス人の図・翻訳文の三つの部分からなる。本書は阿部正弘が所蔵していたものだが、島津家文書(東京大学史料編纂所蔵)にも同内容のものがあり、薩摩藩主・島津斉彬と正弘が情報を共有していたことがうかがわれる。
 
22 異国船御備写(いこくせんおそなえうつし)
嘉永三年(一八五〇)横帳写本 紙本墨書 一四・二×一八・八
当館(黄葉夕陽文庫)
 異国船来航時の諸藩の対応に関する指示書の写。天保十三年(一八四二)八月から江戸湾警備を担当する川越藩(埼玉県)・忍(おし)藩(同)、弘化四年(一八四七)二月から担当する彦根(ひこね)藩(滋賀県)・会津(あいづ)藩(福島県)をはじめ、各藩が対応すべき状況と対応方法を指示している。
 
23 異国船警固場図(いこくせんけいごばず) 一枚
江戸時代後期 一紙 紙本著色 三九・五×五五・二
当館(黄葉夕陽文庫)
 浦賀水道を中心に、江戸湾周辺の沿岸警備状況を記した図面。三浦半島を中心とする相模(さがみ)(神奈川県)側に彦根藩・川越藩、房総(ぼうそう)(千葉県)側に会津藩・忍藩の陣屋が記されている。
 江戸時代後期にはこの種の図が多く描かれており、当時の海防に対する関心の高さがうかがわれる。
 
24 近海見分図(きんかいけんぶんず) 四冊の内二冊
嘉永四年(一八五一) 冊子 紙本著色 二六・四×一九・〇
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 嘉永四年に勘定奉行・石河政平(いしかわまさひら)らが行った江戸湾の海防視察の記録で、阿部正弘に提出された。江戸湾周辺の重要拠点の他、砲台や調練の様子も描かれており、当時の海防体制がうかがわれる。
 
25 阿蘭陀別段風説書(おらんだべつだんふうせつがき)(嘉永四年(かえいよねん)・崎陽訳(きようやく)) 一冊
嘉永四年(一八五一) 冊子写本 紙本墨書 二四・三×一七・一
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 オランダ風説書(ふうせつがき)は、毎年長崎へ入港するオランダ船がもたらす海外情報書だが、次第に内容は簡略化され、情報が遅れ気味であった。しかし、アヘン戦争をきっかけに詳しい情報を幕府が求めたため、天保十三年(一八四二)から「別段」に詳報が毎年提出された。これが別段風説書(べつだんふうせつがき)である。阿部家資料には、嘉永三年・四年・五年・安政五年(一八五八)の四年分の風説書がある。
 風説書・別段風説書共に翻訳は通常長崎でオランダ通詞が行い、これを「崎陽訳」と称する。本書には一八五〇年の世界情報が記載されているが、イギリス・フランスの情報は詳細に記している。また、アメリカ大統領にペリー日本派遣を決意することになるフィルモアが就任したことも伝えている。
 
26 阿蘭陀別段風説書(おらんだべつだんふうせつがき)(嘉永五年(かえいごねん)・司天台訳(してんだいやく)) 一冊
嘉永五年(一八五二) 冊子写本 紙本墨書 二四・四×一七・〇
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 新オランダ商館長として赴任した、ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donkre Curtius)が提出した別段風説書。一八五一年の世界情勢を記した後、アメリカが日本に通商要求の使節を派遣する計画であることを報じ、中国で活動中のアメリカ軍艦と本国から増援される軍艦の艦名・艦長名、「ペルリ」が艦隊を率いることが記されている。
 長崎で翻訳された「崎陽訳」に対して、一緒に江戸に送られた原文を浅草の司天台(天文台)で幕府天文方が翻訳したものを「司天台訳」と称する。嘉永五年の司天台訳は、阿部家資料でしか確認されていない。
 
27 和蘭領東印度総督某贈長崎鎮台書簡和解(おらんだりょうひがしいんどそうとくぼうぞうながさきちんだいしょかんわげ)・和蘭甲必丹答書和解(おらんだかぴたんとうしょわげ) 一冊
嘉永五年(一八五二) 冊子写本 紙本墨書 二四・四×一七・〇
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 開国を勧告するオランダ国王の意向を伝えるオランダ東インド総督の書簡と、アメリカ艦隊来航を予告しそれに対する献言があることを伝えるクルティウスの書簡の和訳を一冊にしたもの。オランダはアメリカ艦隊の日本派遣が現実のものとなる中で、自国の対日貿易における優位性を保つことを企図し、クルティウスに幕府との外交交渉と条約締結の権限を委任していた。
 阿部正弘はこの書簡の重要性を認識し、国法に反しているため将軍宛の公式書簡としては受け取らず、長崎奉行に同奉行宛の「筆記」として受け取るように指示した。
 
28 咬都督職之者筆記和解(かるばととくしょくのものひっきわげ)・甲必丹差出候封書和解(かぴたんさしだしそうろうふうしょわげ) 一冊
嘉永五年(一八五二) 冊子写本 紙本墨書 二四・四×一七・〇
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 日蘭通商条約草案を含んだヴァタビヤ総督の書簡とそれに関連するクルティウスの書簡の和訳を一冊としたもの。条約草案は長崎のオランダ商館に滞在し国禁を犯して国外追放となったドイツ人医師・シーボルト(Philipp Franz von Siebold、一七九六〜一八六六)が作成したものである。
 阿部正弘はクルティウスが提出した一連の文書への対応策を海防掛に評議させたが、海防掛はこれらの情報を軽視した。これに対し正弘は、長崎警備担当の福岡藩・佐賀藩及び薩摩藩に別段風説書の抄本を廻達し、幕政の枠組を超えて有識大名との連携を強めていった。
 なお、25〜28は、福山藩儒者・関藤藤陰(せきとうとういん)が筆写したものである。
 
29 文武引立て(ぶんぶひきたて)諭示書(ゆししょ) 阿部正弘(あべまさひろ)書 一巻
嘉永五年(一八五二) 巻子 紙本墨書 二五・一×二三八・三
備後護国神社(福山城博物館保管)
 阿部正弘は天保十五年(一八四四)頃から抜本的な藩校教育の改革を考えていたが、嘉永五年に新たな藩校構想を江戸の重臣たちに諭示した。この中で正弘は、水戸藩校・弘道館をはじめ文武共に重視する藩校の増加を指摘し、福山藩校・弘道館も同様の方針で改革する決意を述べ、その予算の確保の手段を記している。
 
30 壱万石御加増控(いちまんごくごかぞうひかえ) 一冊
嘉永六年(一八五三) 横帳 一六・五×三九・七
当館(黄葉夕陽文庫)
 嘉永五年(一八五二)、阿部正弘は炎上した江戸城西之丸普請総奉行を命じられ、翌年その功績により備後・備中(びっちゅう)(岡山県)から一万石を加増された。この加増は、藩校改革の予算に宛てられた。
 なお、8の粟根村も、この時に天領から福山藩領となった。
 
31 M・C・ペリー肖像(しょうぞう)
(「日本遠征石版画集(にほんえんせいせきはんがしゅう)」) 【写真パネル】
一八五六年 原資料:神奈川県立歴史博物館
 ペリー艦隊に同行した画家・ウィルヘルム・ハイネ(Wilhelm Heine、一八二七〜一八八五)が描いた石版画集「GRAPHIC SCENES OF THE JAPAN EXPEDITION」所収のM・C・ペリー(Matthew Calbraith Perry、一七九四〜一八五八)の肖像。海軍将兵から「熊おやじ(Old Bruin)」とあだ名された風貌がうかがえる。
 ペリーの経歴については、西村直城「阿部正弘とペリー―和親条をめぐる日米の背景―」を参照されたい。
 
32 イラストレイテッド・ロンドン・ニュース 一部
一八五三年 印刷 四〇・〇×二八・二
神奈川県立歴史博物館
The Illustrated London News
 イギリス紙が一八五三年五月七日付で報じた、ペリーの経歴とマカオにおける艦隊の動静。ペリーの肖像画と乗艦ミシシッピが紙面を飾っている。ペリー艦隊の日本派遣は、ヨーロッパにおいても注目されていた。
 イラストレイテッド・ロンドン・ニュースは、一八四二年創刊の絵入り新聞。挿絵によって内容をわかりやすく伝え、大衆の支持を得て部数を伸ばした。
 
33 異国船江戸湾進退図(いこくせんえどわんしんたいず) 一枚
江戸時代後期 一紙写本 紙本墨書 二四・八×三四・五
当館(黄葉夕陽文庫)
 ペリー艦隊が浦賀に来航した嘉永六年(一八五三)六月三日から、出帆する六月一二日の間のペリー艦隊の江戸湾内における動きを詳細に記した図。同一の図は複数存在しており、ペリー来航の状況が広く伝えられていたことがうかがわれる。
 
34 徳川斉昭宛阿部正弘書状写(とくがわなりあきあてあべまさひろしょじょううつし)
(「新伊勢物語(しんいせものがたり)」巻五)
一冊
冊子写本 二七・一×一八・八
福山誠之館同窓会
 六月五日、阿部正弘は徳川斉昭にペリー来航を報せ、助言を求めた。正弘の許へは三日深夜に浦賀奉行・戸田氏栄(とだうじよし)から第一報が到着、翌日、正弘は浦賀奉行に対し穏便に退去させるように指示を出した。
 
35 浦賀記行(うらがきこう)/嘉永外夷視察報告(かえいがいいしさつほうこく) 各一冊
江戸時代後期 冊子写本 二二・七×一四・八/二三・七×一六・五
頼山陽記念文化財団(杉ノ木資料)
 この二冊は同一内容の写本で、ペリー初来航時の六月五日〜一〇日に浦賀・神奈川を視察した記録である。作者は不明だが、同じく視察に来ていた吉田松陰(よしだしょういん)(一八三〇〜五九)の長州藩(山口県)人はいないかとの問いかけに応えている。また、浦賀奉行所同心・斉藤新太郎と面識があることが記されている。
 杉ノ木資料は、頼山陽(らいさんよう)(一七七〇〜一八三二)の実家である広島藩儒者・頼家に伝来した資料である。
 
36 ペリー浦賀来航図(うらがらいこうず) 一巻
江戸時代後期 巻子装 紙本著色 二七・三×一四八・七
彦根城博物館(重要文化財 彦根藩井伊家文書)
 ペリーの強硬な姿勢に対して、阿部正弘はアメリカ大統領国書を受け取ることを決意、六月九日、久里浜(神奈川県横須賀市)において戸田氏栄・井戸弘道(いどひろみち)(?〜一八五五)の両浦賀奉行が受領した。この図はその時の彦根藩以下諸藩の警備状況を描いたもので、浦賀奉行所や彦根・会津・忍・川越各藩の布陣、行進するアメリカ海軍陸戦隊や黒煙をあげながら停泊する二隻の軍艦の様子がわかる。
 
37 外里浜上陸(くりはまじょうりく) ハイネ画 【写真パネル】
一八五五年 原資料:横須賀市自然・人文博物館
FIRST LANDING OF AMERICANS IN JAPAN, UNDER COMMODORE M.C.PERRY AT GORE-HAMA JULY 14TH 1853
 久里浜に上陸したペリー一行を諸藩の警備兵が見守っている。ハイネ画の類似する石版画が「ペリー提督日本遠征記」に掲載されている。
 
38 大統領国書奉呈(だいとうりょうこくしょほうてい)(「ペリー提督日本遠征記(ていとくにほんえんせいき)」) 【写真パネル】
一八五六年 原資料:神奈川県立歴史博物館
DELIVERY OF THE PRESIDENTS LETTER
 「ペリー提督日本遠征記」に掲載されているハイネ画の石版画。久里浜に設けられた仮設の応接所の内部の様子が描かれている。この場所で、幕府はアメリカ大統領の国書を受理した。ペリーは翌年に国書の回答を得るために、再来航することを告げ、三日後に艦隊を出帆させた。
 
39 亜墨利加大合聚国王書翰和解(あめりかだいがっしゅうこくおうしょかんわげ) 一冊
江戸時代後期 冊子写本 二五・〇×一七・〇 当館
 アメリカ大統領フィルモアの国書とペリー書簡の和訳の写し。大統領国書は、日本との通商、太平洋を横断する蒸気船のための石炭貯蔵庫の設置、漂流アメリカ捕鯨船員の保護を目的に艦隊を派遣したことを記している。
 阿部正弘は七月に国書の写しを幕閣にとどまらず諸大名・有司に開示し、今後の対応について広く意見を求めた。そのため、多くの国書の写本が存在している。
 なお、国書原本はオランダ語と漢文があるが、この写本はオランダ語からの和訳である。
 
40 諸家上書写(しょけじょうしょうつし) 一冊
嘉永六年(一八五三) 冊子写本 一三・九×二〇・四
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
 幕府が国書を諸大名に回覧して意見を求めたことに対して、多くの意見書が提出された。阿部家旧蔵のこの写しには、福井藩主・松平慶永(まつだいらよしなが)(拒絶・開戦)、薩摩藩主・島津斉彬(回答延期、軍備を整備したうえで拒絶)、佐賀藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)(拒絶・開戦)の意見書が記されている。
 
41 松平慶永肖像写真(まつだいらよしながしょうぞうしゃしん) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:福井市立郷土歴史博物館
 
42 島津斉彬肖像写真(しまづなりあきらしょうぞうしゃしん) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:尚古集成館、重要文化財
 日本人撮影による最古のダゲレオタイプ写真。
 
43 鍋島直正肖像写真(なべしまなおまさしょうぞうしゃしん) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:財団法人鍋島報效会
 島津斉彬肖像写真に次いで古い写真である。







日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION