資料解説
1 阿部正弘肖像(あべまさひろしょうぞう) 吉田洞谷(よしだどうこく)画 一額
近代 軸装 絹本著色 一〇九・三×五四・三 個人
阿部正弘(一八一九〜五七)は、福山藩主・阿部正精(あべまさきよ)(一七七四〜一八二六)の六男として江戸で生まれた。幼名剛蔵のち主計、字は叔道、裕軒と号した。天保七年(一八三六)に兄・正寧(まさやす)(一八〇九〜七〇)の養子となり、従五位下伊勢守に任ぜられた後、家督を嗣ぎ福山藩一〇万石の藩主となった。天保九年に奏者番、同十一年に寺社奉行見習兼任、次いで寺社奉行兼任となった。
2 阿部正弘肖像(あべまさひろしょうぞう) 五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)(二世)画 【写真パネル】
近代 原資料:福山誠之館同窓会
阿部家旧蔵のこの肖像は、明治四十三年(一九一〇)刊行の渡邊修二郎(わたなべしゅうじろう)著『阿部正弘事蹟』に掲載されて以来各書に転載されており、阿部正弘肖像画として最も知られているものである。
阿部正弘の両肖像画については、阿部正道氏「老中阿部正弘の肖像」を参照されたい。
3 五言対句(ごごんついく) 阿部正弘(あべまさひろ)書 一幅
天保七年(一八三六)軸装 絹本著色 一〇一・〇×三〇・〇
福山誠之館同窓会
阿部正弘が福山藩主になった年の作品である。
桃符呵筆写 椒酒過花斟
天保七丙申冬日 阿部主計正弘書
4 寛恭院肖像(かんきょういんしょうぞう) 吉田洞谷(よしだどうこく)画・阿部正弘(あべまさひろ)賛 一幅
江戸時代後期 軸装 絹本著色 一〇九・二×四二・六 個人
寛恭院(かんきょういん)(一八二一〜五二)は阿部正弘の夫人で名は謹子(きんこ)、越前(えちぜん)福井藩(福井県)藩主・松平治好(まつだいらはるよし)の五女である。天保九年(一八八)に阿部家に輿入れしたが、嘉永五年(一八五二)に病没した。
この肖像画の賛の和歌と箱蓋裏書には、なき夫人をしのぶ正弘の想いが込められている。
(画賛)
うきよをハ よそになしつつ 法の声
しつけき国ニ 今やすまゝし
朝夕ニ しのふおもひの 増かゝみ
わすれかたみニ 写してそみる 正弘
(箱蓋裏書)
嘉永五壬子年八月十三日逝去余悲歎依之令画此像永久家ニ
残置伝子孫之 伊勢守正弘(花押)
5 窮民御救永代御備銀趣法(きゅうみんおすくいえいだいおそなえぎんしゅほう)(「義倉録(ぎそうろく)」) 一冊
天保八年(一八三七) 冊子 紙本墨書 二六・八×一八・九
財団法人義倉
天保四〜七年(一八三三〜三六)に全国的に発生した天保の飢饉は、諸物価の高騰、農村の荒廃を引き起こし、各地で一揆・打ちこわしなどが起こった。福山藩領内では大きな混乱は起きなかったが、飢饉の被害は少なくなく、藩内の民間救民基金である義倉(ぎそう)では基金が減少し、事業の休止や藩からの借り入れで立て直しをはかった。この資料には、立て直しのための積算が記されている。
義倉は文化元年(一八〇四)に深津郡千田村(福山市)の庄屋・河相周兵衛(かわいしゅうべえ)(一七六四〜一八三三)らが出資して発足、救民のほか文化・教育の振興にも貢献、近代以降も財団法人として福祉・教育・殖産で助成活動を続けている。
6 出潮引汐奸賊聞集記(でしおひきしおかんぞくもんしゅうき) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:大阪歴史博物館
天保八年(一八三七)二月、元大坂町奉行所与力で儒学者の大塩平八郎(一七九三〜一八三七)が天保の飢饉による窮民救済を目的に挙兵、大坂市中の豪商を襲撃した。反乱は半日で鎮圧され、大塩は後に自刃したが、元与力の反乱は幕府に大きな衝撃を与えた。「出潮引汐奸賊聞集記」は、この乱の様子を詳しく描いた資料である。
7 夢(ゆめ)の浮橋(うきはし) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:致道博物館
天保十一年(一八四〇)、出羽庄内(でわしょうない)藩(山形県)で三方領地替え(さんぽうりょうちがえ)反対一揆が起こった。幕府は川越(かわごえ)藩(埼玉県)松平家を庄内藩(山形県)、庄内藩酒井(さかい)家を長岡(ながおか)藩(新潟県)、長岡藩牧野(まきの)家を川越藩への領地替えを発令した。これに反対して庄内藩農民が一揆を起こし、幕府は一旦発令した領地替えを撤回するという前代未聞の事態となった。一方、一揆に参加した農民はほとんどが罪に問われなかった。「夢の浮橋」は、この一揆の様子を物語風に描いた絵巻物である。
8 農民(のうみん)の奢侈(しゃし)を禁(きん)じる等(とう)の触写(ふれうつし)
(「粟根村御用留覚帳(あわねむらごようとどめおぼえちょう)」)一冊
天保十三年(一八四二) 横帳 一二・四×三四・五
当館蔵(井伏家文書)
天保十二年(一八四一)、幕府は老中・水野忠邦(みずのただくに)(一七九四〜一八五一)の主導で、動揺する幕藩体制の維持・強化を目的に、風俗の引き締めや経済政策、海防強化などを行う天保の改革に着手した。しかし、強引な政策は諸藩・民衆の反発をまねき、水野は免職、改革は失敗する。
この資料は、備後(びんご)(広島県)の幕府領に出された触(ふれ)で、農民の奢侈を厳しく禁じたものである。
なお、井伏(いぶし)家は文豪・井伏鱒二(いぶせますじ)の実家で、同家は安那(やすな)郡粟根(あわね)村(福山市加茂町)の村役人を勤めていた。
9 中国軍艦(ちゅうごくぐんかん)を攻撃(こうげき)する鋼鉄戦艦(こうてつせんかん)ネメシス
E・ダンカン画 【写真パネル】
一八四三年 原資料:財団法人東洋文庫(モリソン文庫)
The Hon.E.I.Co.iron steam ship Nemesis, Lieut. W.H.Hall, R.N.Commander, with boats of Sulphur, Calliope, Larne, and Staring destroying the Chin ese war junk,n Anson's Bey, Jany. 7th. 1841.
一八四〇年、イギリスは同国東インド会社のアヘン輸入に対する清国政府の強硬政策に対抗して、アヘン戦争を引き起こした。イギリスの軍事力に圧倒された清国は、一八四二年に不平等条約である南京条約を強要され、西洋による中国半植民地化の第一歩となった。イギリス海軍の蒸気軍艦が清国の帆走軍船を撃破するこの石版画は、アヘン戦争を象徴的に描いている。
10 鴉片始末付考異(あへんしまつふすこうい) 斎藤馨(さいとうかおる)著・月性(げっしょう)考異 一冊
江戸時代後期 冊子写本 二五・○×一七・五
当館(黄葉夕陽文庫)
アヘン戦争の情報は、オランダや中国などから幕府にもたらされ、異国船打払い令撤回のきっかけとなった。情報は徐々に民間にも広がり「鴉片始末(あへんしまつ)」のようなアヘン戦争の経緯を伝える書も著された。本書の著者、陸奥(むつ)(宮城県)の儒学者・斎藤馨(さいとうかおる)(一八一五〜五二)は、清国が敗れたのは西洋の機械の進歩を侮っていたためであると述べている。「考異(こうい)」を付した月性(げっしょう)(一八一七〜五八)は周防(すおう)(山口県)の僧侶で、独自の海防論を唱え尊皇攘夷思想に影響を与えた。
黄葉夕陽文庫(こうようせきようぶんこ)は、備後神辺(かんなべ)(深安郡神辺町)の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)(一七四八〜一八二七)が開いた私塾・黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)(のち廉塾(れんじゅく))に伝わる資料群である。廉塾は茶山の死後、甥の子である福山藩儒者・菅自牧斎(かんじぼくさい)が後継者となった。月性は安政三年(一八五六)に福山を訪れ、福山藩士に海防を論じている。
11 坤輿略図(こんよりゃくず) 一枚
嘉永六年(一八五三) 一紙写本 紙本著色 二七・五×三九・五
当館(黄葉夕陽文庫)
この図は、嘉永二年(一八四九)に刊行された「海外新話(かいがいしんわ)」から、イギリスの勢力圏を示す地図の部分を菅自牧斎が写したものである。アヘン戦争以後、イギリスは日本にとって最も脅威となる国とみられていた。
『海外新話』は、丹後田辺(京都府)藩士・嶺田楓江(みねだふうこう)(一八一八〜八三)が民衆向けに軍記物の体裁でアヘン戦争を詳しく紹介した書で、刊行直後に幕府によって発禁処分を受け、嶺田は三都(江戸・京都・大坂)払いに処せられた。
12 八字一行書(はちじいちぎょうしょ) 阿部正弘(あべまさひろ)書 一幅
天保十四年(一八四三)軸装 絹本墨書 二五・六×三五・五
福山城博物館
天保十四年(一八四三)夏の阿部正弘の書。この年の閏九月一一日、正弘は寺社奉行から老中に昇格した。
発憤忘食楽以忘憂
癸卯夏日 阿正弘謹書
13 御役所及び(おやくしょおよび)使節応接絵図(しせつおうせつえず) (部分・写真パネル)
江戸時代後期 原資料:財団法人鍋島報效会
(佐賀県立博物館寄託)
天保十五年(一八四四)、日本に開国を勧告するために長崎に来航したオランダ国王の使節が、国書を持って立山の長崎奉行所に向かう様子を描いた図。オランダの遣使の意図は、アヘン戦争後の新たな情勢下で日本とイギリスが衝突し、対日貿易の利益が損なわれるのを回避することにあった。幕府は翌年に阿部正弘以下老中連名の返書で勧告を拒否したが、それはオランダ側からみれば、ヨーロッパ諸国の中でオランダの対日貿易独占が幕府に保障されたことを意味していた。
14 「潮音(ちょうおん)」 阿部正弘(あべまさひろ)書 一額
天保十五年(一八四四) 額装 絹本墨書 一八・八×四八・五
福山城博物館
阿部正弘が老中に就任した翌年、天保十五年秋の書。この頃、幕府ではオランダ国王の開国勧告への対応を協議中であった。一方、薩摩(さつま)藩(鹿児島県)支配下の琉球(りゅうきゅう)(沖縄県)では、フランス軍艦が来航し通商を要求、フランス人宣教師を残留させていた。追りつつある外圧を感じる正弘の心情がうかがわれる。
15 徳川斉昭宛阿部正弘書状写(とくがわなりあきあてあべまさひろしょじょううつし)
(「新伊勢物語(しんいせものがたり)」巻二本)一冊
冊子写本 二七・一×一八・八
福山誠之館同窓会
弘化三年(一八四六)、阿部正弘は前水戸(茨城県)藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の要請に応じて、オランダ国王の国書とそれに対する返書を御三家に限り開示した。早くから海防強化を唱えていた斉昭は、この頃から積極的に政治意見書を正弘に送り、自分の主張を幕政に反映させようとしていた。
「新伊勢物語(しんいせものがたり)」は、弘化二年〜嘉永六年(一八五三)に阿部正弘と徳川斉昭との間で交わされた書簡をまとめたもので、書名は正弘の官途名・伊勢守(いせのかみ)に由来する。水戸彰考館(しょうこうかん)の斉昭自筆原本は五冊だが、誠之館本は八冊である。用紙の柱には「丸山阿部」と刷られている。
16 北亜米利加船并人物図(きたあめりかせんならびにじんぶつず) 二枚の内四枚
江戸時代後期 一紙 紙本着色
(一)コロンバス号 五三・三×七八・二
(二)ヴィンセンス号 同右
(三)大船之方将官 四〇・五×二七・七
(四)小船之方将官 同右
神奈川県立歴史博物館(阿部家資料)
弘化三年(一八四六)閏五月二七日、ジェームズ・ビッドル(James Biddle、一七八三〜一八四八)が率いるアメリカ東インド艦隊の帆走軍艦二隻が浦賀(神奈川県横須賀市)沖に来航した。この資料は、ビッドル艦隊の軍艦とビッドル以下の将校、兵士や武器などを描いたもので、阿部家が旧蔵していたものである。
17 一八四六年七月二九日、江戸湾(えどわん)を出航(しゅっこう)するアメリカ軍艦(ぐんかん)コロンバスとヴィンセンス 【写真パネル】
一九世紀 原資料:横須賀市自然・人文博物館
DEPARTURE OF THE U.S.S COLUMBUS AND VINCENNES FROM JEDDO BAY, JULY 29th 1846
ビッドル艦隊来航の目的は、幕府に通商条約を締結する意思があるかを確認することにあり、終始友好的な姿勢で臨み、幕府に意思がないことを確認すると、直ちに出航しようとした。しかし、風が凪いだために、この画のように諸藩の御用船に曳航されることになった。七年後に来航したペリーは、ビッドル艦隊の教訓に基づいて威圧的に幕府に対応した。
18 島津斉興届書写(しまづなりおきとどけしょうつし)(「新伊勢物語(しんいせものがたり」巻二末) 一冊
冊子写本 二七・一×一八・八
福山誠之館同窓会
天保十五年(一八四四)以来、琉球にフランス・イギリス軍艦が度々来航する中、弘化三年(一八四六)、阿部正弘は薩摩藩世子・島津斉彬(しまづなりあきら)を帰国させ、問題処理にあたらせた。これに対し薩摩藩主・島津斉興(しまづなりおき)(一七八九〜一八五九)は自らも翌春の帰国を願い出た。
幕府は琉球が日本国外であるとして、フランスとの貿易を黙認し問題の処理をはかろうとした。一方で阿部正弘は、これを契機に自らが評価する斉彬を藩政に参与させ、幕府の外交政策に協力を得ようとした。正弘の藩政介入を排除したい斉興は、帰国してその動きを阻止しようとしていた。
19 七言律詩(しちごんりっし)「地震歎(じしんたん)」 阿部正弘(あべまさひろ)書 一幅
弘化四年(一八四七)軸装 紙本墨書 三五・二×五〇・〇
個人
弘化四年(一八四七)三月二四日、信濃(しなの)善光寺(長野県長野市)を中心に大地震が発生、大きな被害を与えた。この漢詩は、信濃大地震の被害を悼んで阿部正弘が詠んだものである。
地震歎
信越二州地大震 信山往々裂
維歳丁未三月末 地中殷如雷声振
地軸掀翻天柱折 有山飛去慎河津
下流水渇可掲渉 上流作湖渺無恨
其他城市皆家倒 圧死驚死幾万人
况又処々吹火出 一時烟焔漲九旻
如此災変誰能免 親在夫児児失親
公邑私地生者少 竭力共当救残民
相臣如余審無状
君上与天固其仁 嗚呼死者無由活
此罪万々在相臣
阿部正弘稿
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