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44 水府老君御密議(すいふろうくんおんみつぎ)(海防愚存)(かいぼうぐぞん)
江戸時代後期 冊子写本 二四・三×一六・五
個人
 七月三日、徳川斉昭は阿部正弘の推挙で幕政参与に就任した。就任直後の七月九日付けで「十条五事の建議」を提出、外国と和すべきでない理由十条と対策五事を記している。斉昭の主張は、当面の戦争を避けるために、表面上「戦」を鼓舞しつつ内実は外国と「和」するというものであった。正弘は巻末に、この建議に感銘を受けた旨の書付をした。
 なお、斉昭は八月三日にも「海防愚存」と称する建議を提出している。斉昭の自筆原本は水戸彰考館にある。
 
45 徳川斉昭肖像(とくがわなりあきしょうぞう) 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:財団法人水府明徳会彰考館徳川博物館
 
46 初度存寄書案(しょどぞんじよりしょあん)・別段存寄書下書(べつだんぞんじよりしょしたがき) 一巻
嘉永六年(一八五三) 巻子装 紙本墨書
(初度存寄書案)一八・五×一二八・〇
(別段存寄書下書)二五・五×二二四・一
彦根城博物館(重要文化財 彦根藩井伊家文書)
 彦根藩主・井伊直弼(いいなおすけ)の意見書の草稿。直弼の主張は避戦・開国で、さらに朱印船を復活し積極的な海外進出をすべしと述べている。具体的対応策を提示しない現状維持の意見書が大勢を占める中で、直弼の意見書は開国に積極的である。
 
47 井伊直弼肖像(いいなおすけしょうぞう) 狩野永岳(かのうえいがく)画 【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:清凉寺(写真提供:彦根城博物館)
 桜田門外の変の二か月前に描かれたといわれる肖像で、作者の狩野永岳(かのうえいがく)(一七九〇〜一八六七)は彦根藩御用をつとめた京狩野家九代目である。直弼が自詠の和歌を自賛している。
 
48 七言絶句(しちごんぜっく) 頼聿庵(らいいつあん)書 一幅
安政二年(一八五五) 軸装 紙本墨書 一三二・三×二八・〇
個人(頼山陽記念文化財団寄託)
 頼山陽の長男で広島藩儒者・頼聿庵(らいいつあん)(一八〇一〜五六)が、嘉永六年(一八五三)のペリー初来航直後に詠んだ漢詩を安政二年に書として三上主殿(事蹟不明)に贈ったもの。将軍(幕府)の対応を「寛大」と皮肉っている。
 
旗色秋高浦賀関 浮城影滅乱濤間
欲知寛大将軍政 雲表芙蓉万仭山
安政乙卯復月既望
重録癸丑初秋書懐詩
似 主殿三上老弟
狐飛山人 頼協
 
49 七言律詩二首(しちごんりっしにしゅ) 門田朴斎(もんでんぼくさい)書 一幅
嘉永六年(一八五三) 軸装 絹本墨書 一三三・〇×五五・〇
福山誠之館同窓会
 嘉永六年のペリー初来航直後に詠んだ福山藩儒者・門田朴斎(もんでんぼくさい)の漢詩。ペリー来航に対する朴斎の危機感がうかがえる。
 
大瀛環合地成球 時見妖気波上浮 須閃剣光威水怪
不驚蜃気現珠樓 三檣渠己誇雲鷁 一網誰當捕翠
予我足心相対処 亦開針路神州
 
扶桑樹上燿紅輪 何事蛮戎敢問津 万古聖神恢九服
八州形勢勝三秦 巨艟大砲任渠長 物則民彝成我春
当発偏師加撻伐 誰非男子国中人
右二首在江都所作 朴斎
 
50 門田朴斎肖像(もんでんぼくさいしょうぞう) 【写真パネル】
現代 原資料:福山誠之館同窓会
 
51 ロシア使節上陸並応接之図(しせつじょうりくならびにおうせつのず) 一巻
江戸時代後期 巻子装 紙本著色 三一・五×三六二・五
個人
 ペリー艦隊が退去して間もない嘉永六年(一九五三)七月一八日、E・V・プチャーチン(Evfimii Vasilievich Putyatin、一八〇三〜八三)率いるロシア帆走軍艦四隻が長崎に来航、阿部正弘は三奉行の上申を受けて、八月一九日に長崎奉行に国書を受領させた。プチャーチンは一旦出帆後再来航し、一二月一四日から正弘の命で長崎に派遣された大目付格・筒井政憲(つついまさのり)、勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)らとの交渉が始まった。ロシアの要求は、通商のほか樺太における国境の設定が含まれていたことが特徴である。
 
52 魯艦内部略図並艦員所作図(ろかんないぶりゃくずならびにかんいんしょさず) 一巻
江戸時代後期 巻子装 紙本著色 二四・七×二一九・五
個人
 一二月一七日、幕府使節がロシア艦内を見学した際の記録である。プチャーチンは威嚇的なペリーと対照的に、融和的な姿勢で日本との交渉を進めようとした。
 
53 江都書翰(こうとしょかん) 一巻
嘉永六年(一八五三) 巻子装 紙本墨書 一六・二×二〇九・七
個人
 門田朴斎が国許にあてた嘉永六年一一月二七日付の書状。一三代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)の就任、ロシア艦隊の長崎一時出帆、米露両国艦隊再来航の際の対応、三浦半島の警備配置図と品川台場の建設、松平慶永養女・謐子(しずこ)の阿部正弘への輿入れなどを記している。
 阿部正弘は、米露両国艦隊が再来航した際は返事を先延ばしする方針に決定し、万一相手が戦争を仕掛けた場合の備えを進めていた。朴斎は「誠ニよき御取計と奉感服候」と述べている。一方で、海防強化が諸藩や農民の負担になっていることにも触れている。
 
54 ポーハタン模型(もけい)
縮尺五〇分の一 全長二〇五・〇 高さ一三〇・〇
神奈川県立歴史博物館
 ポーハタン(Powhatan)は、嘉永七年(一八五四)の日本再来航時のペリー艦隊9隻の旗艦。二四一五トン、船長二五三フィートの外輪式蒸気フリゲート艦で、一八五一年に完成した。
 安政五年(一八五八)の日米修好通商条約は本艦内で締結され、同七年にはその批准交換の日本使節をアメリカに運ぶなど、日本とのかかわりが深い艦である。
 
55 福山御城之図(ふくやまおしろのず)・神辺駅之図(かんなべえきのず)
(「菅波信道一代記(すがなみのぶみちいちだいき)」前編巻之三〇)
【写真パネル】
江戸時代後期 原資料:個人 広島県重要文化財
 嘉永七年(一八五四)一月一六日、ペリー艦隊は再び神奈川沖に来航、その報を受けて江戸へ出発する福山藩士の図である。早飛脚が福山に到着するや合図の鐘・太鼓が鳴らされ、藩士は家の奥から出した鎧櫃を背負って登城、夜半には江戸へ出立したと記されている。
 「菅波信道一代記(すがなみのぶみちいちだいき)」は、神辺宿で本陣役を勤めた菅波信道(すがなみのぶみち)(一七九二〜一八六八)の自叙伝で全三九巻。安政七年(一八六〇)までを記している。
 
56 御出陣御行列役割写帳(ごしゅつじんごぎょうれつやくわりうつしちょう) 一冊
嘉永七年(一八五四) 横帳写本 三四・三×一二・一
当館(黄葉夕陽文庫)
 ペリー再来航の際、阿部正弘が巡視あるいは戦争で出馬することを想定して、福山藩江戸藩邸が作成した出陣計画書を菅自牧斎が写したもの。正弘は、ペリー再来航に対して避戦の方針を決めていたが、アメリカ側から戦争を仕掛ける可能性を考慮していたことがわかる。
 
57 白地家紋入火事装束(しろじかもんいりかじしょうぞく) 一領
江戸時代 丈九六・二、裄六六・〇
福山城博物館
 白色羅紗(らしゃ)の火事装束用の羽織で、背に阿部家家紋の「丸に鷹の羽」が入っている。「御出陣御行列役割写帳(ごしゅつじんごぎょうれつやくわりうつしちょう)」によると、非常時には阿部正弘は火事装束で江戸城へ登城する予定であった。
 
58 黒漆塗四方白家紋入陣笠(くろうるしぬりしほうはくかもんいりじんがさ) 一頭
江戸時代 鉢高一三・四
備後護国神社(保管・写真提供:福山城博物館)
 兜鉢(かぶとはち)の天辺から四方に篠が垂れるものを四方白といい、火事装束に付属する火事兜や陣笠に使われていた。
 
59 ペリー横浜上陸(よこはまじょうりく)の図(ず) ハイネ画 【写真パネル】
19世紀 原資料:横須賀市自然・人文博物館
LANDING OF COMMODORE PERRY, OFFICERS & MEN OF THE SQUADRON, TO MEET THE IMPERIAL COMMISSIONERS AT YOKU-HAMA, JAPAN, MARCH 8TH 1854
 幕府とペリーはまず交渉場所で対立したが、横浜(神奈川県横浜市)において行うことで妥結した。二月一〇日、正装した陸戦隊が整列する中、横浜に上陸するペリー一行。右端に見える樟(くすのき)は二代目が現存しており、現在は横浜開港資料館の敷地内にある。
 
60 横浜(よこはま)での会談(かいだん) (「ペリー提督日本遠征記(ていとくにほんえんせいき)」)
【写真パネル】
一八五六年 原資料:神奈川県立歴史博物館
COMMO. PERRY MEETING AT THE IMPERIAL COMMISSIONERS AT YOKUHAMA
 横浜の応接所に迎え入れられるペリー一行。この日から、ペリーと大学頭・林復斎(はやしふくさい)以下幕府応接掛との条約交渉が始まった。
 
61 亜米利加使節饗応之図(あめりかしせつきょうおうのず) 高川文筌(たかがわぶんせん)画 一巻
江戸時代後期 巻子装 紙本著色
(一)四〇・八×六二・七
(二)三〇・八×六五・九
(三)四七・六×八六・二
個人
 (一)は二月一〇日、最初の交渉後に行われた幕府主催の饗応の様子。右端にいるのがペリー、左端で筆を執る人物はハイネとみられる。(二)(三)は黒人に扮したアメリカ水兵によるショーの様子で、二九日のアメリカ主催の饗応で行われている。この図は、松代(長野県)藩士・高川文筌(たかがわぶんせん)が描き阿部正弘に贈ったものである。
 
62 金海奇観(きんかいきかん) 二巻
江戸時代後期 巻子装 紙本著色
乾二七・〇×九三七・〇
坤二七・〇×九九二・〇
早稲田大学図書館
 嘉永七年(一八五四)のペリー再来航時の軍艦・人物・献上物等を描いた絵巻。仙台藩(宮城県)儒者・大槻磐渓(おおつきばんけい)(一八〇一〜七八、蘭学者・大槻玄沢の次男)・津山藩(岡山県)絵師・鍬形赤子(くわがたせきし)、高川文筌、関藍梁(せきあいりょう)(事蹟不明)らが描いた図で構成されている。題字は日米和親条約の条約文を起草した幕府儒者・河田迪斎(かわだてきさい)(一八〇六〜五九)による。当時多数描かれたペリー艦隊に関係する絵のほとんどは作者を特定できないが、この資料は作者が明らかな例である。
 
63 献上品の引渡し(けんじょうひんのひきわたし) (「ペリー提督日本遠征記(ていとくにほんえんせいき)」)
【写真パネル】
一八五六年 原資料:神奈川県立歴史博物館
DELIVERING OF THE AMERICAN PRESENTS AT YOKOHAMA
 条約交渉が行われる一方、二月一五日にアメリカ大統領から将軍への献上品が横浜に荷揚げされた。献上品を荷解きする様子を日本側の役人が興味深げに見ている。







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