1999年 『公営競技の文化経済学』芙蓉書房
第二章 公営競技の現場から
佐々木晃彦
一、競馬―セレクトセール
一九九八年七月一三、一四日、日本では初めてという本格的な競走馬のセリ市、「セレクトセール」があった。場所は北海道苫小牧市の観光牧場「ノーザンホースパーク」。競走馬の故郷は青森、岩手、宮城、福島、栃木、千葉、宮崎、鹿児島まで分布しているが、何と言ってもメッカは北海道である。なかでも日高は、日本全体の80%を占める。「予想の倍以上に高くなった馬もいました。ただ、問題は買っていただいた馬が二、三年後にどれだけ走るかなんです。高い馬が必ず走るとは限らないし、どの馬が走るかは誰にも分からない」(1)。つまり、中央競馬の運営機構図で説明するなら、その入り口で、もう賭けは始まっている(2)。
運営機構図で、特に分かりにくいと思われる箇所に説明を加えたい。運営審議会は中央競馬会に関する運営面での重要事項を諮問し、答申を受けて施策に反映させる会議体である。生産者と呼ばれる生産農家は約二二〇〇あるが、個人で生産するのは経済的に難しく、今では法人組織もある。毎年、一万二〇〇〇から一万三〇〇〇頭が競走馬として生産され、そのうち実際に走っているのは七〇〇〇頭である。生産者が競りに出す馬を買う馬主にも、個人馬主と法人馬主がある(3)。
バブル崩壊で馬価格は急降下し、ここ数年の競走馬取引は曲がり角にある。そこで従来の庭先取引と呼ばれる場主に直接売る方法を改め、上場することにしたのだ。初めての本格的なセリ市である。
「新しい調教師とか場主は、牧場に行ってもつながりがないと馬を売ってもらえない。馬を見せてくれない牧場さえある。そして、そんな人達が外国に馬を買いに行っているんです」
「買う人は全ての馬を見て、選んで買える。予算内なら、どんな馬も自由に選べるわけです。そうやって競り落とした馬が、高いかも知れないし、逆にものすごく安く買えるかも知れない。こんなにエキサイティングなものはない」(4)。
アラブ首長国連邦、アメリカ、オーストラリアなど海外から参加の一〇〇人を加え、総勢一五〇〇人のバイヤーが集まった。上場された二三〇頭のうち一四九頭の売買契約が成立し、総売上は五〇億九三五五万円と盛況で、一億円を上回った馬は七頭を越えた。「ダービーに勝てば一億三二〇〇万円の賞金が入る」と、バイヤーの視線は熱かった。我が国の美意識の根底には、茶道における所作、生け花における木や花の幹の流れ、書にある筆線の流れ、屋根の稜線などを大切にすることに見られるように、“流れる線の美しさ”がある。ここにいる美術作品のように個生的な馬(5)は、その線の美しさに量的躍動感を加え、ファンに夢を与えてくれる。しかし、今までの国内セリ最高売却額の一位サンゼウス(三億六〇五〇万円)、二位モガミショーウン(二億六五〇〇万円)、三位ハギノカムイオ(一億八五〇〇万円)は、獲得賞金に種牡馬としての種付け料を加えても採算割れだ。
こういう事実がある一方で、五三五万円で落札された萱野浩二調教師が教育するカオリチェリーは、デビュー戦五着で六〇万円、二戦目優勝で六〇〇万円を獲得し、わずか二戦目で賞金額が“自分の値段”を越えてしまった。同調教師は金額を越えた「賭け」の面白さを、萱野厩舎の助手二人、厩務員六人とともに、体重四一〇キロの小柄なカオリチェリーに託している。
―地方競馬―
踊り、武道、書などに見られるように、無駄のない流れるような線の美しさは、私たち日本人がもつ美意識の基本である。競馬人気を支えるのは、そのような流線に力感が加わった馬の力走にあることは前述した。時速60キロで最後の直線を美しく駆け抜ける。スタンドでは女性ファンの声が一段と高まる。鮮やかな服色に包まれた若手ジョッキーが、スタンドのファンに向かって応える。最近は競馬場のマナーが良くなって、汚い罵声を耳にすることは少ない。
はずれ馬券には一〇〇円の一点買いが目立つ。このような買い方をするのは、10パーセントを越えてきた女性ファンに多いが、彼女たちの参入は、競馬を国民文化に押し上げた。競馬だけではない、公営競技の盛衰は彼女たちが握っている。偶然の支配するレジャー空間を、積極的につくり、過ごす。これは文化的にも満たされた時間でもある(6)。
その一例だが、全国の地方競馬で活躍する二〇人の女性騎手による、女性ジョッキーナンバーワンを決める「卑弥呼杯」が、一九九七年から中津競馬で行われている。女性騎手による華麗な戦いは、競馬場を華やかなムードに包む。「女性が生活する喜びを満たしていることは、余暇活動の参加率から見ても分かる。清らかさ、美しさ、ゆとりなどは、どうしても女性と結び付く。女性が能動的役割を果たす覚悟と責任を持つ段階にきている」(7)
経済が成熟すれば高質のホンモノを求める。「限られた時間とお金を有効に使いたい」と、美学を備えたサラブレッドに魅力を感じてもおかしくはない。サラブレッドは記憶力が良い。思考をつかさどる前頭葉から、記憶が保存されている側頭葉への直感回路の働きが極めて優れているから、良いことも悪いことも、ずっと覚えている。だからトレーニングは慎重に行われる。
いま救世主の期待を集めているのがハクホウクン(牡6歳)。「白馬は走らない」のジンクスを押しのけ、一九九八年八月二八日現在で二勝している。この貴公子が走る時は『美』を求める女性ファンの数が増える。
岐阜県笠松競馬場正面に、手塩にかけて育てられたオグリキャップの銅像がある。一九八八年、九〇年の有馬記念に優勝した名馬だ。ハイセイコー、オグリキャップを生んだのは地方競馬だった。その晴れ舞台を夢みて、九〇〇人の調教師と六五〇〇人の騎手、厩務員が必死に地方競馬の生き残りにかける(8)。
その具体策に、「月七五〇〇円であなたも馬主」がある。地方競馬では特に、「賞金が少なく、預託料を払えない」と馬主のなり手が少ない。そうした状況下、中津競馬場では共有馬主制度の運用を弾力的にゆるめ、年間所得五〇〇万円以上を二〇〇万円まで下げ、馬主の制限も四人から二〇人にした。主婦も世帯主の同意があればグループ馬主のメンバーになれる。馬は中津競馬組合が中央・地方の現役馬を無償、または低価格で取得して、大分県と福岡県南部を対象に馬主を募集する。中央競馬で人気の「一口馬主」では、会員が正式な馬主資格を持てない。しかし、このグループ馬主は、月額数千円から数万円支払う預託料等の負担金だけで、地方競馬全国協会の馬主登録を受け、馬主席での観戦や勝馬との写真撮影に参加できる。賞金や出走手当等は、年度末に一人ひとりについて精算し、各人の口座に振り込まれる。
現在、中津競馬は、馬主二二七人、馬三四〇頭と、一九七〇年代の全盛期のほぼ半分に落ち込み、九七年度末までの累積赤字は一一億四三〇〇万円になっている。馬場とファンが一体化した「参加型競馬」が地方競馬復活の救世主になるだろうか、関係者の期待は熱い。
二、国際GIを制す
柔道や重量挙げなどと違い、より速く、華麗に走る、時計を使った“時間競技”のスポーツは、日本人には不得意と言われてきた。馬も太刀打ちできなかったが、一九九八年八月九日、歴史的快挙を武豊騎乗のシーキングザパール(5歳、牡馬、栗東・森秀行厩舎)はやってのけた。日本で調教し、日本のレースで活躍した馬と日本人騎手が国際GIを制覇したのは史上初めてである。日本馬による海外遠征屈辱史にピリオドを打ったのはフランスのドーヴィル競馬場での「モーリス・ド・ギース賞」(一三〇〇メートル、直線芝、12頭)であった。海外21勝目に当たる仏GI制覇の快挙を武豊は、「スタートは速すぎるくらいだったが、自分のペースでリラックスしていけた」と圧勝の意義をコメントしている(9)。
これは一九八〇年代、私がフランスで生活していたころの光景だが、ドーヴィル競馬場は町の人々の生活圏にシッカリおさまっていた。馬場の緑、馬、ジョッキー・・・、全てが特別なものではなかった。パドックから本馬場に入ってきた女性ジョッキーが5〜6歳の子どもに手を振り、馬上からニコニコ笑いながら話しかけていた。競馬は自宅の庭で観ているかのように、馬場と生活者は一体化された文化装置なのである(10)。
舞台は変わり、パリ郊外のロンシャン競馬場でのことだが、「今日は人が多いね」などとのんびりとしたことを言っていた。それが二四〇〇メートル芝コースで争われる、欧州最高峰レースの一つ、凱旋門賞(優勝賞金四〇〇万フラン)と知ったのは翌日の新聞というギャンブル音痴であった。フランスはギャンブルに疎い者が行っても、違和感なく楽しめる場所なのである。
武豊が悲願達成した翌週の八月一六日、今度は岡部幸雄騎乗のタイキシャトル(5歳、牡馬、美浦・藤沢和雄厩舎)が同競馬場での「ジャック・ル・マロワ賞」(一六〇〇メートル、直線芝、8頭)で優勝した。こちらもアマングメン、ケープクロスという、英国GI優勝馬と競り合っての優勝だから価値が高い。
「海外の馬はバテてるように見えても違うので最後まで分からなかった。海外でも普通にできればいいけど、普通にするのが難しい」(11)。
日本での実力を「アウェー」のフランスで発揮することの難しさを、海外13勝の岡部騎手にしてこう実感させている。
一九五八年に天皇賞馬ハクチカラがアメリカに渡ったのが遠征第一号だが、以来、何度もぶ厚い壁に当たって跳ね返されてきた。それは、気候、風土、時差、食事などの違いから平常心を失い、体調維持が難しくなることにあった。夢のまた夢と言われてきた欧州GIを二週制覇した勝因を、藤沢和雄調教師は「日本で口にしていた水、食べ物を大量に持ち込んだ。そして、日本にいる時と同じく、軽い調教でレースに臨んだ」と語っている。欧州での二勝は、遠征ノウハウを積み重ねた勝利でもある。
三、競輪
プロ野球の年間観客動員数に匹敵する二三〇〇万人が入場する競輪場だが、一九九八年一〇月には全天候型多目的イベント、北九州メディアドームが誕生し、オープンの三日間で二万人が来場した。そのような本場入場者に加えて、ほぼ同数のファンが電話や場外を通じて参加している。売上が一兆数千億円、競輪事業に直接関わっている人が一万人だから、その事業規模は大手ゼネコンに匹敵する。
選手から見て他の公営競技と違う点は、馬やモーターなどのように他力を得ず、自分だけが頼りという点である。競輪学校では競走用自転車と接する、腕、腰、脚を支える筋肉を中心に、瞬発力(白い筋肉)、持久力(赤い筋肉)を鍛え、スピードを強化しながら競走に適応できる走行技術を身につける。何と言っても肉体の特徴は、太ももとなる。中野浩一氏(一九九二年六月二六日付で引退)の太ももは左右平均63センチあったが、現役選手では70センチを越える人もいる。と同時に、競技規則を遵守したレースができるよう指導も受ける(12)。つまり、この競技、脚力だけあれば良いわけではない。
アトランタオリンピックに、神山雄一郎(スプリント)と十文字貴信(一kmタイムトライアル)の両選手が出場し、十文字選手は銅メダルを獲得して話題になった。神山選手は一九九七年に、競輪界初の年間賞金獲得額二億円を突破している。二〇〇〇年のオーストラリア・シドニー開催「第27回オリンピック」自転車競技には、「ケイリン競走」が正式種目として採用される。柔道に次いで日本が生んだ二つ目のオリンピック競技種目である。他の公営競技と決定的に違う、この「スポーツ文化」(13)をどう育てていくか、競輪の将来はここにかかっている。
さて、競輪では四四〇〇人の選手が、S級(1〜3班)、A級(1〜4班)、B級(1〜2班)の三級九班に分かれている。毎年、競輪学校から入って来る、ほぼ一五〇人の卵の数に見合うだけの現役選手が去らねばならない。入れ替えは熾烈だ。S級1班の定員は一三〇人だが、一九九八年度前期(四月〜七月)適用級班では四一名の入れ替えがあった。なかに二人の注目すべき選手がいた。デビューから一二年の年数をかけてS1に到達した大澤嘉文選手(57期)と、四五歳でS1に復帰した不死鳥の男、高橋健二選手(30期)である。不屈の努力が成し遂げた達成への賛辞の声が、あちこちから届く(14)。
S1選手の最年長記録は引退した竹野暢男選手の47歳だが、現在のスピード競輪を考えれば、高橋のそれは遜色のない大記録と考えて良い。年齢とともに忍び寄る肉体の衰えは、いかんともし難い。そこに、競輪場に来た同世代ファンとの共生感が芽生える。「頑張れよ!」の激励は、そのままスタンドでこだまし、激励したはずの自分に跳ね返ってくる。ここにあるのは占いとして発展し、都市財源としての役割を担い、社交手段や娯楽としての競輪ではない。人々を無我夢中にさせ、生きがいを満たし、情熱を充足させる競輪である。「俺も頑張るか」と思わせる勇気や希望を生成する人間関係が、こだまとなって四方八方からスタンドを包む(15)。無我夢中にさせる「遊び」にこそ、希望への芽が隠れている。
四、競艇
競艇界の相関関係はやや複雑で、他の競技団体の役割を、全国モーターボート競走会連合会と日本船舶振興会の二つで分担している。つまり、金銭的な面での問題が起きないようにとの配慮から、全国モーターボート競走会連合会が担う競技運営面と、(財)日本船舶振興会が担う補助事業がハッキリと分離されている。
競艇選手募集要綱には、「視力裸眼〇・八以上、体重55キログラム以下、身長一七〇センチ以下で健康である者」と記載されている。現役時代に二六〇キログラムあった元大関小錦がボートに乗ったことを想像して欲しい。ボートは仲々進まないし、ターンも難しいだろう。水面を走る競走艇は、抵抗が少ないほど有利だ。蜷川哲平選手(16)は母親が競艇場で働いていたことがキッカケで見た、競艇のスピード感にスッカリ魅了された。加えて「体を動かす仕事をしたかった」ことからこの世界に入った。
競馬はレース前の調教を調教師と騎手がする。二五万円から三〇万円が相場というレーサー(自転車)と、エンジンだけで八〇万円というオートレースのオートバイは選手個人のものだが、この三競技、つまり競馬、競輪、オートレースは本レース前の練習が心行くまでできる。ところが競艇は事情が違う。選手が競走挺を所有することはできないし、例えできても騒音公害で水面を自由に飛ばせないだろう。だからボートもモーターも、施行者である自治体の持ち物だ。
ボートとモーターはレース前日抽選で割り当てられるから、レースではどれが自分に当たるか分からない。選手のできることは、普段からマラソンなどをし、野菜食中心に減量に心掛け、モーターの取り付けとプロペラの修正など整備技術を身につけ、本レースを重ねて腕を上げるしかない。競艇選手に不可欠なのは気力と技量の集積、そして工具とプラグだけを手に、北は桐生から南は大村まで全国二四か所の競艇場を行き来する体力である。
一度競艇場に足を運ばれれば分かることだが、轟音とともに水面を走るにしては何とも可愛いらしいボートである。それはデザイナーの行動規範(17)の集積である。各競艇場ごとに管理され、約一年で廃棄処分されるモーターとボートの値段だが、「モーターが五九万二〇〇〇円、ボートが五〇万五九一〇円。締めて一〇九万七九一〇円。水しぶきを受けるユニフォームは四万円」とか(18)。
競馬の逃げ馬、さし馬、競輪の打鐘後の駆け引きに比べ、競艇はスタートでほぼ決着がつく。言い換えるなら、競馬や競輪のスタート時には緊張感が少ないが、徐々に盛り上がりを見せる。競馬では発走を嫌がる神経質な馬がスタートを遅らせても、馬のしていることと許される。しかし競艇の場合は、一瞬遅れただけの後続艇でも引き波に影響されるから、ゴールでは大差がついて写真判定は稀れである。最高に盛り上がりを見せ、緊張(19)するのはスタート時、いや、正確にはその前かも知れない。スタートの二分前から、もう競走は始まっているからだ。
競艇では70パーセントの選手がインコースを望み、競走の合図とともに、ピットから2マーク付近に猛スピードで艇を進める。スタート枠を奪い合う待機水面での駆け引きだ。オレンジ色の12秒針が大きく動く。スタートまで七〜八秒、スタート時刻後の一・〇秒以内にスタートしなければならない。外から二〇〇メートル先のスタートラインを目がけて飛んでくる。ファンは轟音と共に通過するその瞬間に、何とも言い難い快楽を覚える(20)。いや、正確にはラインはないから、動物的勘が水面の見えないラインをつかむのだ。スタートラインを通る際は時速80キロメートルを超える。スリットカメラが特に活用されるのは、このスタートだ。
撮影されたフライング艇、出遅れ艇は、二〇秒後には結果が出て欠場艇となる。相撲は立ち会いでほぼ決すると言われるが、競艇は軍配が返る前に激しい取り組み(レース)が始まっていることがお分かりいただけたと思う。レースそのものは二分弱。一レース全体で五分の集中が要される。電子の目が写した画像を読み切るのは審判長の肉眼である。その間の審判室は、凍りついたようにシ〜ンとなる。「メリハリの世界」とは、多摩川競艇場の鈴木豊・審判委員長の表現である。音楽も、いつもフォルテシモでは、演奏者、聴き手とも体がもたない。審判室にもメゾピアノやピアニシモがあると説く。緊張の谷間で、大学ノートを出してくれた。「今は俳句に凝ってるんです」。
湯気立ちて黄昏時の夫婦(めおと)ソバ
梅雨寒(つゆざむ)やふと気がつけばカーディガン
今日の、今までのレースをどうして勝ったかを、隣の賭け仲間に語り、虚栄心を充足させていた者(21)も、スタート時は静かだ。そして競艇が一周すると「もう勝負あり」と席を立つ者さえいる。ともかく、ファンを魅了し、若者の心をキャッチする魅力あるモーターボート競走は、徹底してスピードを争うボート・モーターでなければならない。そこで、今までは勘で作り上げてきたボート・モーターを、学問的、かつ科学的に研究し、新しいボート・モーターを開発するとともに、ボートのニューデザインへの取り組み(22)もスタートしている。
五、オートレース
レーサーは直線で時速一五〇キロメートル前後、コーナーでも一〇〇キロで飛ばす。一〇〇メートルを三・三から三・四秒台で走りながら、一周五〇〇メートルのフィールドを通常は六周、GI、GIIレースの優勝戦は八周、SGレースの優勝戦になると一〇周、五一〇〇メートルの距離で争う。こうしたスピードへの欲望(23)は誰にでもある。そのスピードとスリルを満たすのがオートレースである。六場には九七名の選手がA(二〇名)、B(五七名)、C(二〇名)の三級に分かれて所属している。六場の計五八二の選手がホームグラウンドを主戦場に、ほかのレース場にも出場する制度になっている。「一日に1レースしか走らなくても七〜八時間は整備をする。一生懸命取り組めば、答えが出ると信じて皆働いているが、完全ということはない。とにかく整備半分、技量半分だよ」は、川口レース場の佐藤竹男選手(登録番号665)のコメント。ちなみに公営競技では、競輪とオートレースが一日一回乗りとなっている。
マシン・スポーツは若者に人気があるから、公営競技のなかでもオートレースのファン年齢層は低い。バリバリとしたエンジンの爆音はストレス解消になると言われているが、この爆音がまた厄介者だ。公営競技で内燃機関を使用するのは競艇とオートレースだが、競艇はコースが水面であるだけに排気を水中で行える。つまり消音装置である程度の騒音は緩和できる。しかしオートレースは、ストレートに音を弾き出す。だから飯塚レース場では立派な防音壁をまわし、周辺住民の悪感情を和らげている。
レース場裏手にあるロッカー(二輪車整備場)で、レースを控えた中村政信選手が入念な手入れをしていた。勝負師からは、目がギラギラしていて、肉体的にも頑丈で・・・、のイメージを持ちがちだが、中村選手は実に静かで、戦闘的な「ヤル気」のようなもの(24)が伝わってこない、柔和な人柄であった。
オートレースは一九七〇(昭和45)年九月から、二年に一度、成績下位の選手を消除している。そうしたなかで中村選手は、一九九七年の獲得賞金額が一億二〇五万五六〇〇円(日本小型自動車振興会)と全選手のなかでも堂々の二位で、日本のトップレーサーである。飯塚にはもう一人の、獲得賞金額の大きい選手がいる。同年に五七九〇万八六七五円獲得した永富高志選手だ。「養成所を出た時の力量は変わらないが、最初、悪いエンジンに当たると次のステップ到達に時間がかかる」。レースのない日は自宅にいて、時々買い物に行く。「レースを見る時は親しい人を応援するが、ヘルメットを被って走路に出たら自分を買った客のために走る。抜きつ抜かれつが激しく、ゴールするまで分からない。それがオートレースの魅力」と語る。
佐々木晃彦(ささき あきひこ)
1946年生まれ。
九州共立大学経済学部教授。
(1)吉田照哉・社団法人日本競走馬協会副会長のコメント。
(2)ロジェ・カイヨワが指摘しているように、遊びはその表現のいくつかにおいては、逆に、極度の利益や損失をもたらすものであり、また、それが遊びの運命なのである(『遊びと人間』一九七〇、岩波書店、六頁)。本来ならチャンスを嫌う経済体系だが、「恩恵もあり得る」という見通しが、敗者を慰め、敗者に希望を残してくれる。チャンスの誘惑の、根強さを物語るものである(同二三四頁)。
(3)詳しくは本譜88頁の図版「中央競馬に関わる人々」を参照。
(4)吉田照哉氏のコメント。浮世離れした異様なムードのなか、淡々と、健全にセリは進んだ。会場の外の大きなテーブルにはテレビが設置され、バイヤーは食事やアルコールを楽しみながら目当ての馬が登場するのを待った(江面弘也「セレクトセールが馬を変える!?」『優駿』一九九八年九月、日本中央競馬会、一四〜一八頁)。
(5)美術品を経済学的にみると、その特徴は一点一点が個性的・独創的―経済学の用語では異質的―であり、したがって希少性をもち非代替的ということである。メンテナンスが良ければ、耐久性が高く、耐久消費財という性格をもっている。その市場価格は美術品に対する需要価格によって決定される。そのため、美術品の本来あるべき価格、あるいは専門家の評価額と市場価格は必ずしも一致しない(山田浩之「文化産業と地域社会」池上惇・植木浩・福原義春編『文化経済学』一九九八年、有斐閣、九二頁)。
(6)偶然《とともに》遊ぶとは、偶然《に対抗して》遊ぶことである。人は運を「試す」のであり、適切な手段を講じて敵を「手玉に取り[遊び]」、征服する。彼は偶然に対抗して遊ぶやり方、偶然と共に遊ぶやり方がいくらでもあるということを承知している(Jacques Henriot 『LEJEU』1973, Presses Universitaire de France, Paris. ジャック・アンリオ著、佐藤信夫訳『遊び』一九七四、白水社、一一二頁)。
(7)佐々木晃彦「今こそ問われる女性の役割」同編『企業と文化の対話』(一九九四年、北樹出版、一〇四〜一一四頁)に詳述。
(8)農水省競馬監督課によれば、一九九六年度決算で黒字だったのは、神奈川県、石川県、金沢市、兵庫県競馬組合、広島県福山市、佐賀具競馬組合の六つしかない。「興業色の濃い競馬は、素人の公務員には難しい。一部事務組合をつくって『プロ化』が目標」(渕澤克巳・北海道競馬事務所長)との声も強い(一九九八年五月一九日、朝日新聞)。最近の高崎競馬の経営指標をみると、九二年度から純利益はマイナスで、九二年度▲二億九〇〇〇万円、九三年度▲三億円、九四年度▲五億一〇〇〇万円、九五年度▲六億三〇〇〇万円と赤字で推移し、しかもその額が増えている。総合収支では九二年度一億四〇〇〇万円、九三年度四〇〇〇万円と黒字が続き、九四年度はプラマイゼロであったが、九五年度は三億八〇〇〇万円の赤字となった。この赤字補填のために、積み立ててきた「競馬場施設整備基金」から三億七四八〇万円を切り崩して凌いでいるのが実情である(長谷川秀男『地域産業政策』一九九八、日本経済評論社、一七一頁)。
(9)一九九八年八月一〇日、朝日新聞
(10)我を忘れ熱中する、観ていて感動する、お酒落な・・・などスポーツの前に形容詞を付ければ数限りなく浮かぶ。この形容詞こそスポーツにリアリティを与えるものだ。このリアリティの差異が我々を熱狂させる。リアリティの差異、それは文化の差異と言っても良い。スポーツのリアリティは、文化を表現する、あるいは文化を映し出す鏡のようなもので、その意味でのスポーツは、C・W・ミルズが言うところの「文化装置」であると言っても良いだろう。この文化装置としてのスポーツを丹念に読んでいけば、そこに、人間がつくり上げてきた文化の一端を見ることができるのではないか(杉本厚夫『スポーツ文化の変容』一九九八、世界思想社、五頁)。
(11)一九九八年八月一七日、朝日新聞
(12)秩序のない世界に、文化的、経済的な心地良い賑わいを期待することはできない。伊豆・修善寺の日本競輪学校で12か月の訓練を受けるのも、スポーツの根底にあるルールや公正な精神を学び、「フェアネスの倫理」を習得することが文化的空間を形成するうえで欠かせないからだ。スポーツの素晴らしさは、戦い合うことで人間のもって生まれた可能性を追求し、発展の喜びを分かち合うことにある(拙著『文化経済学への招待』一九九七、芙蓉書房出版、一五五〜一五八頁)。
(13)ルネッサンス期には情感や衝動という感性が解放されて、「芸術」という文化を生み、宗教における観念や思想という知性から解放されて、「科学」という文化が生み出されたという。しかし、身体は解放されていなかった。そこで、第二のルネッサンス期と言われる現代において、その身体を解放する可能性を秘めた、「身体文化」としての「スポーツ文化」を解読することは、現代文化を知る上で非常に興味ある(杉本厚夫『スポーツ文化の変容』一九九五、世界思想社、一九頁)。
(14)人の欲求に関する著名な研究者、アメリカのマレー(Henry Alexader Murray, 1893〜?)は、「達成」という欲求について、次のように定義している。「むずかしいことを成し遂げること。自然物・人間・思想に精通し、それらを処理し、組織化すること。それをできるだけ速やかに、できるだけ独力でやること。障害を克服し高い水準に達すること。他人と競争し、他人を凌ぐこと。才能をうまく使って自尊心を高めること」(『Exploration in personality』 1938, Oxford Univ. Press. 八木訳『動機と情緒』一九六六、岩波書店)。宮本美沙子『やる気の心理学』一九八一、創元社、が「やる気の基準」を詳述。
(15)情熱ももたず、仕事ももたず、娯楽ももたず、勤勉ももたず、全き休息のうちにあることほど人間にとって耐え難いことはない(ブレーズ・パスカル『パンセ』一九五二、新潮文庫、断片131[退屈]、上巻九二頁)。そして、これまたパスカルの見て取ったことであるが、全て遊ぶことのなかには、必ず情熱と乗り気と目眩がある。無我夢中にならずに、どうして遊べようか。酔いとこの理性喪失なしに果たして遊びは存在するだろうか? ドン・ジュアンの冒すリスクとは、自らに誘惑に身を委ねることである。あらゆる遊びにつきもののリスクとは、その遊びに無我夢中になる[心を奪われる]ことだ(ジャック・アンリオ『遊び』一九七四、白水社、一四八頁)。
(16)一九七七年五月二九日、東京生。五三kg。一九九八年九月現在B1。登録年月日、一九九七年四月二四日。経験年数一年。ジャニーズ系の顔立ちで、若い女性ファン層に人気大。一九九七年獲得賞金六〇二万円、一九九八年九月一六日現在、同七七四万六〇〇〇円。生涯獲得賞金一三七六万六〇〇〇円。
(17)(1)人の心を知っている、(2)モノの心を知っている、(3)人とモノが同じ原点から発しているという生命観をもつ、(4)高い品位の暮らしを、人々と共に求める、(5)人に、モノに、万物の慈悲の心をもつ、(6)本当に美しいモノをつくる、(7)本当に楽しいことを起こす、(8)自然に謙虚である、(9)人とモノがお互いに高め合う世界を構築する、(10)チャンとしたモノの見方を築く(榮久庵憲司『モノと日本人』一九九四、東京書籍、三八二〜三八三頁)。
(18)今井晶二・北九州市若松競艇事務所長
(19)非日常性とは緊張であり、その要素は、遊戯の中では特に重要な役割を演じて、日常生活の掟や慣習は、もはや何の効力も持っていないことを、ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』で述べている(ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』一九六三、中央公論社、二八、三一頁)。
(20)脳が進化するにつれ、五感から得られる快楽を意識的に追求するようになり、それにつれて文化が発展してきたと思われる。・・・スポーツでも、新体操やシンクロナイズド・スイミング、フィギュア・スケートなどは、視覚と聴覚から快楽を得る・・・(堀田力「文化がもたらす快楽のメカニズム」池上・植木・福原編『文化経済学』一九九八、有斐閣、一二三〜一二四頁)。
(21)自惚れの心は人間のうちに実に深く根差していて、兵士も従卒も料理人も人足も自分のことを誇る、そうして自分を称賛してくれる人々を得ようとする。哲学者でさえそれを望む(ブレーズ・パスカル『パンセ』一九五二、新潮文庫、断片150、[慰戯]一〇八頁)。 好奇心は虚栄に過ぎない。人は大抵の場合、話の種にしょうとしてのみ海の旅などに出る(ブレーズ・パスカル『パンセ』一九五二、新潮文庫、断片152、[高慢]一〇九頁)。
(22)我々を取り巻く文化環境として最も日常的であり多彩であるものは、文化産業の供給する文化商品ではなく、商品の発するイメージだろう。CM、パッケージ、広告、外観なども、文化として消費されている。ウィリアムズ・モリスは「生活の芸術化」を提唱したが、彼が強調したかったのは、・・・商品を洗練することこそ文化的生活の必須条件だ、ということだったと理解できる。マーケティングは、経済活動のうちでも、直接に文化に関わるものだと言える。と言うのもそれは、イメージとしても言葉としても未だ表現されざる不定形の消費者の欲望を探り、それに形を与える作業であって、文化の創作過程に似た要素を多分に秘めているからである(松原隆一郎『豊かさの文化経済学』一九九三、丸善ライブラリー、二八頁)。
(23)自動車事故による死を何かしら魅力的な死に方であるかのように感じる気分も、スリルの延長線上におかれよう。スリルの追及の一つの段階として、危険の極限に自己の生命の喪失をおくことができる。その限りでは、自動車事故による死に方を「いい死に方」であるとする意見は単なる少数意見ではない。それは、スピードへの欲望の肯定と本質的には共通しており、その肯定がもつ非人間的性格をいわば拡大して示している。内部の不安、緊張を求めるという意味で、求心的な努力である(副田義也『遊びの社会学』一九七七、日本工業新聞社、一一二頁)。
(24)やる気の特性に、(イ)静かに熟考する、(ロ)納得しないことはやらない、(ハ)感受性が強い、(ニ)精神的な悩みは少ないが現実的な悩みをもっている、(ホ)心に余裕がある、(ヘ)おとなしいが生き生きしている、(ト)人中では目立たない・・・などが考えられる。実在する「やる気」のある人は、教育ママが期待するようなまっしぐらに勉強に没頭するタイプばかりではない。むしろ、もっとゆとりのある、優しい人たちであるらしい。実在の「やる気」のある人は、おとなしいが生き生きしており、現実的な悩みもあり、喜怒哀楽に満ちたナマ身の人たちである。「やる気」とは、積極性や逞しさだけではなく、もっと静かで慎重な面も伴うものである(宮本美沙子『やる気の心理学』一九八一、創元社、七〜八頁)。
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