1999年 『公営競技の文化経済学』芙蓉書房
第一章 公営ギャンブルの歴史
佐々木晃彦
一、競馬
私たちの先祖は、紀元前三〇〇〇年頃から馬を家畜として利用したと推定されている。家畜家禽の牛や鶏から闘牛や闘鶏が生まれているように、馬が人と結び付いて競馬が誕生するのは自然の理、何も不思議なことではない。しかもその起源をたどると、紀元前一〇〇〇年以上も前から行われていて、古代オリンピックの競技種目にも加えられていたというから(1)、競馬は昔からスポーツとして認められ、親しまれていたことになる。
我が国の近代競馬は一八六二(文久2)年、幕府の出資でできた横浜根岸の外国人居留地で行われたのが最初で、外国人主催者による「ヨコハマ・レースクラブ」であった。
ここで江戸時代の経済状況に若干触れるが、江戸と言えば停滞と言われてきた。しかし近年の数量経済史の研究から、江戸時代の新しい見方が出ている。「停滞」から「元気」への変換は、一八〇〇年代に入って三〇〇〇万人になった幕府調査による人口増加からもうかがえる。一六〇〇年頃は一〇〇〇万人から一二〇〇万人であった推定人口が、一七〇〇年代には伸び悩んでいたものの、農業生産力の上昇、商品作物の栽培、農民的商品経済の発達などで、人口が増える環境ができた時代であった。人口と経済は大いに関係がある。人間の生活のほとんどが経済活動と関わっているからだ。人口増加は即ち消費が増えることで、それに伴い、市場規模が拡大して経済活動は活発になっていく。一八五九(安政6)年七月からは幕府との条約の下で自由貿易が開始され、外国人が商館を構えて日本人と商取引を行っていた。当時の主要輸出品目は生糸、茶、蚕種で、主要輸入品目は綿織物、毛織物、艦船などであったが、その商取引が行われた場所が、開港場の特定区域である外国人居留地であった(2)。
横道にそれてしまうが、我が国のカメラやレンズが、安価で良質なものを大量生産されるキッカケになったのは、戦時中に軍需品工場に指定されたからだ。実は、速さを求められる馬が賭博の対象となるのも、戦争と無関係なことではない。日本が開国した当時の欧米列強は、アジアやアフリカに進出しての貿易取引はもちろんのこと、植民地を求めようと躍起になっていた時代である。こうした列強国から守るために我が国がとった富国強兵策は、具体的には清国に、そしてロシアに対抗するための軍備であった。一八七四(明治7)年の台湾征討以来五〇年の間に一〇回以上、海外に兵を出している。一八九四、九五年には朝鮮の権益をめぐる日清戦争を、一九〇四、〇五年には日露戦争を戦った(3)。こうした戦中に、輸送や戦闘に使われていたのが馬である。その日本産馬が、北清事変(義和団事件、一九〇〇年)、日清、日露の両戦争などで、力強さやスピードが清やロシア産の馬より劣っていることがハッキリしたのだ。「これでは戦争に勝てない」と、当時の明治政府は「馬政三〇年計画」を立て、本格的に馬の品種改良を始めたのである。
種馬も輸入されて改良増殖が盛んになった裏には、馬事に関心を持った明治天皇による「より速く走る馬を」との競馬奨励の後押しもあった。刑法では賭博が一切禁止されていたにもかかわらず、「馬産改良」という錦の御旗のもと、一九〇〇年前後からは能力検定の競馬が行われ、政府は馬券の発売を黙認してしまった。三井、三菱、住友、安田などがコンツェルン形態の財閥を組織化し、貿易、造船などの新規産業を市場に植え付けて、我が国の近代産業が形成されていった時期である。たちまち一般大衆の心をつかむことになった背景には、講和条約への憤懣が大衆に渦巻いていたこともある。いつの時代だってガス抜きと呼ばれる“はけ口”は必要だ。それを大衆は、賭けに求めたのであった(4)。しかし、そこから多くのギャンブル・フォーリックを出し、少なからぬ弊害が現れ始めたのも事実であった(5)。
一九二三(大正12)年に加納久宜子爵らの努力で競馬法が制定され、馬券発行の再許可が下り(6)、一九三六(昭和11)年に全国一一か所にあった一一の競馬クラブが統合されて特殊法人日本競馬会が生まれ、公認競馬を施行することになった。一九三七年、政府は役員を日本競馬会に送り、一九四八年からは政府が施行者(いわゆる胴元)となる競馬が誕生したのである。そして、一九五四年に政府出資の法人として日本中央競馬会法が制定され、現在に至る特殊法人の同会が設立された。
月日は流れる。一九九六年四月、中央競馬会に女性騎手三人が誕生し、現在では五人になっている。なかでも牧原由貴子騎手の人気は大きい。パドックにはアイドルを見つめるようなファンが増え、ギャンブル・オンリーの雰囲気は失われつつある。それを「寂しい」と思う中高年層は多い。しかしかつての、男の匂いがプンプンした競馬場を懐かしむ声は消されがちだ。
ここで公営競技が次々に誕生する背景を理解するために、当時の戦争経済の決算を振り返りたい。太平洋戦争期の戦死者は二四〇万人、民間人の死亡・行方不明者は三二万人と推定されている。一九四一年の内地の人口は七二二二万人であったから、3.8%もの人命を失ったことになる。「日中戦争・太平洋戦争の戦争経費は、約二一八五億円にのぼると推計される。国民総生産は、一九三七年から一九四四年までの八年間合計で三六〇三億円と推定(経済企画庁『国民所得白書』一九六五)される。仮に一九四四年値(七四五億円)から敗戦までの八か月間を四九七億円と計算して、戦時期の総計を約四一〇〇億円と見れば、国民総生産の約五三%が戦争に費やされたことになる」(7)。
主要経済指標の、戦前水準(一九三四〜三五年平均)と一九四六年度を比較すると、国民総生産は69.3%、一人当たりの個人消費支出は57.1%など、大幅に下げている。そのような時代にアテになるものはなく、自力で生き抜くことしかなかった。娯楽にも既製品などあるわけがなく、自分で「夢」をつかむしか道は開かなかった。そのような時代であるから、公営競技は、夢をもたらすという大衆からの期待を担って誕生したのである。
ところで一九四八年に公認競馬が国営になったその時、中央競馬から分離する形で誕生したのが地方競馬である。地方競馬は、その名の通り、地方自治体が運営し、収益金は地方自治体に納付される仕組みで、現在は二五団体(四道府県、一二県市組合、七市、二市町村組合)、三〇か所の競馬場で開催されている。地方競馬は次々に新しいアイディアを取り入れている。特筆ものは、今では伊勢崎オートレース場や桐生競艇場でも行っているが、一九八六年七月にスタートした大井競馬場の「トゥインクルレース」(8)と銘打ったナイトレース。競馬のイメージを刷新させ、新しいファン層の開拓につながっている。
「みどりの日」の一九九八年四月二九日、大井競馬場は「ナイトレース」の最終日であった。春場所を真近に控えたお相撲さん、土佐の海と付け人の二人がポシェットを抱えニコニコしながら雪駄の音を響かせて場内に消えていった。場所前の朝稽古を終え一眠りした後の気晴らしだろう。偉くご機嫌な二人であった。お相撲さんだけではない、親子連れや若いアベックも目立つ。特設ステージからはジャズの生バンド演奏と歌声が場内に響く。実に明るく、アメニティー・スペースのなかに競馬場があるといった感じなのだ。これからの公営競技場には、「すった、すられた」だけの賭け重視ヘビー型から、いろいろありのアメニティ空間を楽しむ、ライトファン型ニーズに応えられるマーケティングが要求される。自由・個性・楽しみを満たす(9)レジャーランド化への期待、そんなことを競馬場で体感したのだった。
二、競輪
西武新宿線西武園駅から屋根付き歩道をゆっくりと一分歩くと、コンサートも行える劇場空間、西武園競輪場に到着する。選手の控室とバンクをつなぐ間に、選手所有の自転車がズラリと一〇〇台ほど並んでいる。赤、黄色、緑、ピンクなど、きれいに塗装した自転車は芸術作品のようだ。ここに、あの柔らかくて太い体が乗る。ハンドル、ハンドルポスト、ギヤクランク、ギヤ、ペダルなど、ほとんどが軽合金で軽量化されている。ブレーキがなく、ハンドルも前かがみにならないと握れない。試乗した。乗っただけで体が前に放り出されそうになって進むどころではない。その数分後、仲間に見送られながらバンクに出て行った選手は、ゴール前を競走馬より速いと言われる時速60キロのスピードで疾走した。凄いっ! と言うほかない(10)。
競輪の発祥は一八八七(明治30)年に不忍池で行われた競技大会まで遡らなければならないから、もう一〇〇年以上も前のこと。ゴムタイヤが外国から入り、自転車への関心が高まってきた時代であった。競技用の自転車が輸入されたのは一九〇五年で、新聞社などの主催によるロードレースが行われている。一九三四(昭和9)年には「日本自転車連盟」が結成され、レースへの関心も高まってきていたのに、戦時中に乗物として動員されスポーツどころではなくなって中断したのは残念であった。
戦後の一九四七年に職業的サイクリストの団体「日本サイクリング協会」が設立され、各地で競走大会を開いて観衆を集めている。しかし占領下にあった当時は「自転車競技法」の成立にGHQの意向が強く反映され、その結果、「施行者は地方自治体とする。競技の実施は、地方毎の自転車振興会に委任できる。競輪収益による自転車産業の振興については国が施行者から収益の一部を国庫納付せしめ、この枠内で業界に還元することにより行う」という内容の「自転車競技法」及び「同法施行規則」が交付施行された。
一九三五年の工業生産水準になるのに一九五四年まで待たねばならないほど、戦時中の生産力は破壊され、海外植民地の喪失、軍人の復員、海外引き揚げや占領軍経費などの各種戦後処理、特に戦時の賠償問題などを抱えた社会的混乱が極度に達していた時代である。そこで取られた政策が傾斜生産方式であった。新たに創設された復興金融公庫から、経済復興の鍵を握る鉄と石炭の増産に少ない財源を重点的に配分しようというものである。
「敗戦直後の一九四六年には年間二〇三八万トンと、最盛時の五四%近くに下がっていた。一九四七年には二八〇〇万トンの全国目標が掲げられており、これが四八年には三〇〇〇万トン、四九年には三八〇〇万トンとなり、ピーク時の一九五二年頃には四〇〇〇万トンになっていた」(11)。炭鉱に働く人は家賃や光熱費がただ同然で、生活視察に来た占領軍の指示で住環境は改善され食料の心配もなかった。当時の都会での、食うや食わずの生活に比べれば、炭鉱で働く人々は恵まれていた。そうした時代背景からも、周辺に炭鉱街が広がる小倉は、競輪開催に最も相応しい場所であったと言えよう。
自転車競技法に基づく最初の競輪は、全公営競技のトップを切って開催された記念すべきもので、一九四八年一一月に小倉市(現在の北九州市)が主催している(12)。四日間の入場者数五万五〇〇〇人、単勝・複勝の二種類であった車券売上は一九七〇万円であった。地方財政の財源が窮乏していて、少しでも財政に繰り入れることのできる財源が欲しかった時代である。
しかし、国体やオリンピックに出場することを最大目的にしていた選手は、アマ規定に抵触することを恐れて賛成しなかった。肝心の選手が集まらなかったのである。
「様子見を兼ねて五、六人連れて参加しました。四〇〇〜五〇〇人も入れば良いと思っていたのに、初日はグラウンドも駅も大変な人でした。珍しさからだろう、と思っていたら二日目はもっと人が多いのです。街へ出てあちこち歩くと大変な人気で、選手と分かるともてるのです。こりゃあ野球より盛んになるかも知れないと思いました。小倉がやるまでは、どちらかと言えば選手は厭がっていましたから」(13)。
同年一二月に大阪住之江競輪が六日間にわたって開催され、その入場者数は六万七〇〇〇人、車券売上は三六八二万円を記録した。
(1)競馬に比べて狭い敷地で済む
(2)市街地に建設が可能で入場者を集めやすい
(3)戦災都市、水害被災都市をはじめ、財政の窮乏していた地方公共団体が多かった
これらの理由で地方公共団体の多くが競輪場建設の申請を行い、今では北は函館から南は別府、熊本まで、全国の五〇か所に競輪場がある。
三、女子競輪復活への期待
惜しむらくは、一九四八(昭和23)年の小倉競輪場でオープンレースとして登場した女子レースが、東海道新幹線が走り、東京オリンピック競技大会が開幕した一九六四年に消えたことである(14)。その十六年間は、時には婦人雑誌のグラビア写真で特集を組まれるほどの人気で、高木ミナエ(岐阜)、黒田智子(福岡)、渋谷小夜子(神奈川)、田中和子(奈良)などが女王として君臨した。宝塚の試験を落ちて競輪選手になった人、元警察書記など、いろいろな選手がいた。選手は遠征旅費を浮かすために目的地を前に途中下車し、自転車を組み立て、それに乗って競輪場に行く。それが格好な宣伝効果となり、沿道からは声援が飛んだりした。女子競輪の魅力、それは闘争と美の双方が備わっていたことだろう(15)。
「美人が人気を呼ぶなんて失礼だわ」という声が女子選手から上がったりもしたが、舞台裏は「競輪選手を主人公にした映画ができるかも知れない」などと、話題は服の流行と映画の話ばかりで、実に和やかな雰囲気であったと当時の『アサヒグラフ』は伝えている。元選手の遠藤せつ子(登録番号第四五一番)は、「選手時代の思い出といえば、みんな楽しかったことばかりです。大きな事故は弥彦競輪に出たとき落車をして、両親が迎えにきてくれた時ぐらいでした」と語っている。
一九九五年春の東京六大学野球では、アメリカから来日したジョディ・ハーラー(明治大学)が東京大学を相手に投げた。やや丸型のジョディが投じる豪速球は弓なりの緩球で、キャッチャーの野村克則(現ヤクルトのカツノリ)は何度もピッチャープレートに足を運んだ。コントロール不足からランナーをためて三回に降板したが、ともかく東京大学は点を入れることができなかった。バックネット最前列で見ていて、野球そのものより、ハーラーが球場を爽やかな雰囲気にしたことへの関心を強く抱いた。
夏の甲子園の谷間に、もう一つの甲子園がある。それは年齢のない大会としてスタートした定時制通信制の大会で、毎年、「欽ちゃん」こと萩本欽一が応援している大会だ。チアガールもブラスバンドもない質素な大会だが、一九九六年の大会で岡山操山高校の吉本高子が初めてベンチ入りし、静岡中央の柴田紗苗が二塁を守った。以来、女子選手のベンチ入りは珍しくなくなっている。いずれも教育機関における「男女共同参画」(16)への取り組みであるが、男女が一緒になってするスポーツを見るのは楽しい。
米女子プロバスケット(WNBA)で活躍するクリーブランド・ロッカーズのスージー・マコーネル・セリオ(32歳)は、四人の子供を出産した現役バリバリのママさん選手だ。一九八八年のソウル五輪で金メダル、一九九二年のバルセロナ五輪では銅メダルを獲得した実力派ガード。コートでは激しい闘志で魅了し、「女性だって環境次第では何でもできる証明」との声が周囲に巻き起こる。バスケットと言えば、バスケットボール女子日本リーグ機構は女子選手の地位向上をテーマに掲げ、一九九八年から女性審判員を起用している。歴史を紐解けば、女子スポーツの進出と女性の社会進出には大きな関わりがあることに気づく(17)。
今やスポーツの領域は、“するスポーツ”と“見るスポーツ”の二極化が進んでいる。賭け事としての公営競技に、もっと見て楽しむスポーツの面があっても良いのではないか。私たちは競馬のジョッキーや競輪選手、競艇選手、オートレーサーの技量や振る舞いを“楽しむ”こともある。そこには勝ち負けだけにこだわる悲愴感、空しさ、息苦しさはない。
結果のためには手段を選ばない、ひたすら「我が社」のために右肩上がりを求める経済活動の物差しには、「富」があっても「豊」がない。真の経済の活性は文化土壌に根ざす。真、善、美の伴う文化土壌である。文化としての広がりを感じさせる、将来性ある豊かな公営競技を考える時、のびのびと生きることへの主張を繰り返してきた女性選手の役割があると思う。
四、競艇
競輪、競馬、オートレースが開始され、ドッグレース、ハイアライ(18)、闘牛法案まで論議を呼んだ時代である。モーターボート・ファンから「モーターボートを公営化し、競輪のように行いたい」との構想が生まれても不思議ではない。ここにあるのは「楽しみとしての賭け事」(19)である。
ライフ誌のモーターボートのグラビア写真を見て、「海洋国日本の復興は海への発展しかない」とモーターボートのレースをイメージした、当時A級戦犯容疑者として東京巣鴨の獄中にあった笹川良一、「モーターボートを競馬のように公営競技にできないものかなぁ」と考えていた福島世根、一九五〇(昭和25)年五月に戦後初の日米対抗モーターボートレースを企画具現化した渡辺儀重らの構想が、モーターボートを競走させる競艇へと形を整えていったのは良く知られている。
第一回の競艇は一九五一年八月一〇日、長崎県モーターボート競走会が運輸大臣による設立認可を受け、一九五二年に九州の大村湾で大村市主催で三日間開催された。その普及ぶりであるが、一九五二年には、津、琵琶湖、大阪狭山(一九五六年に住之江に移転)、尼崎、丸亀、芦屋、若松、鹿島と九場があいついでオープンした。翌年は、半田、三国、鳴門、常滑、唐津、浜名湖、徳山、福岡の八場とどんどん増えて、現在では北は桐生から南は長崎県大村まで全国二四か所の競艇場で、一七七の県市町村が施行者となって行われている。
競走運営を支援・指導する立場の社団法人全国モータボート競走会連合会では、「いつでも、どこでも、おもしろい競走」の具現化に向けて業務を行っている。競艇が他の公営競技と違うのは、女子選手の活躍が目立つことだ。女子選手第一号は一九五二年五月一日付けで登録された一九三二年一二月一五日生まれの則次千恵子選手。一九九八年九月一六日現在で一三五名の女子選手が登録されている。気になる収入だが、一九九六年の最高賞金獲得者、山川美由紀選手は五〇〇〇万円を越えた(20)。
実は、公営競技は一〇年毎に黄金時代を分け合ってきた。一九六〇年代の競輪、七〇年代の競艇、そして八〇年代の中央競馬、と。ところが九〇年代にはオートレース時代が到来せず、全公営競技における中央競馬の占有率が増す一方となっている。競艇は最高時の30.8%(一九八〇年)から22.1%(一九九五年)まで落ち込んで、中央競馬が一時のキリンビールのように50%を占め、「ガリバー型独占」をしている。
さて、出走する六艇は、レース開始の合図とともにピットから猛スピードで発進し、得意なコース取りをしょうとする。もうレースの駆け引きが始まっている。プッカプッカ浮きながらの待機行動、そして大時計が0秒から1秒を指す間のスタート、1マークでは最近流行のモンキーターンだ。ターンスピードやどこに艇を向けるかなど、一瞬の判断で、他艇と実力以上の差が出てしまう。選手の力量が問われるのは当然で、それだけにファンの声援は熱い(21)。
それにエンジンが大切。性能が均一であること、取り付けや分解が簡単であること、低速運転が可能であることなど、性能や構造面に独特の考慮が追求されてきた。当初は外国製のマーキュリー、エビンルード、クリスクラフトコマンダーなどが主流であったが国産化も進み、アメリカ製のエビンルードから国産第一号の「きぬた15型」(一九五二年)が、ドイツ製のケーニヒFCから「フジKB―1型」(一九六五年)が製品化された。この改良の歴史を重ねながら、純粋和製と言うべき「ヤマト70型」(一九七四年)、「ヤマト101シリーズ」(一九八一年)などのエンジンが登場するのである。
五、オートレース
世界で初めてオートバイが完成したのは一八八五(明治18)年で、ドイツ人のゴットリーブ・ダイムラー(Gottlieb Daimler)であった。オートバイの技術開発はフランス、イギリスなどで積極的に行われ、我が国にはヨーロッパで実用化された時期にあたる一八九六年に輸入されている。当時は自転車の普及が著しく、一八九八年には「自転車取締規則」が制定されている。日露戦争にも勝利を収め、重工業が発達していた時代である。オートバイ国産化にも拍車がかかった(22)。そんな世相のなかでオートレースは開催された。
オートレースの名称は、オートバイレースを簡略化した和製英語だが、この最初のレースは一九一〇(明治43)年一一月に不忍池のほとりで開かれた自転車競争の余興であった。オートレースとしては一九一四(大正3)年に兵庫県鳴尾競馬場で行われたのが最初で、翌年には東京目黒競馬場で行われている。
一九一〇年といえば、製糸業先進国であったフランスから技術を導入し、生糸の輸出と生産が伸びを見せて、農業部門における養蚕経営が拡大した時期に重なる。渋沢栄一によって見いだされた技術者や経営者が綿紡績業を大きく育てた時代でもあり、それは、鉄道、造船、海運などの近代的輸送手段が著しい発展を遂げたことと大いに関係がある。オートバイの生産台数も、この時代に飛躍的に伸びた。しかしながら、日中戦争による戦時体制下の石油消費規制から燃料の使用が窮屈になり、一九四〇(昭和15)年にはオートバイレースも全面禁止となった。オートバイメーカーの生産は、連絡用などに使う軍用大型サイドカーに代表される軍需品に切り替えられ、この状態は一九四五年まで続くことになる。敗戦後の二輪車生産を担ったのは新たな参入組で、小型自動車工業会未加盟メーカーも含めると約一五〇社を数えた。それも、性能、部品の潤沢な供給、アフターサービスなどが求められる時代になり、淘汰されていくことになる。
このような歴史をたどりながら、オートバイの普及とともにレースが盛んになり、一九四九(昭和24)年に多摩スピードウェイで開催された「全日本モーターサイクル選手権大会」に集まった三万人は、選手のパフォーマンスに酔いしれたとの記録が残っている(23)。しかし、それまでは、楽しむレースに過ぎなかった。
賭けができるオートレース開催を望む声が高くなったキッカケは、一九四八年に競輪が開始され成功していたことによる。最初のレースは千葉県主催で、船橋オートレース場を舞台に一九五〇年一〇月二九日から六日間開催され、入場者は九万八四三九人であった。一九五一年一〇月には兵庫県主催レースが園田オートレース場(一九五四年に廃止)で、一一月には大阪市主催レースが長居オートレース場(一九五二年に廃止)で開催されたが、国産オートバイの性能不良が原因で車券売上は不振であった。
ル・マンやパリ・ダカがマシンの性能向上に寄与しているように、オートレースの発展もまた、オートバイの開発と生産技術開発の歴史である。
「オートレースやグランプリレースなどのレース用エンジンは、高強度な材料、高精度の加工、正確な組立によってつくられ、こうした製造技術は一般市販のオートバイや自動車の製造工程ラインにフィードバックされ、高性能市販車の製造を可能にしている。また、エンジン性能向上のための技術のノウハウ、たとえば各部フリクションロス低減や部品軽量化等も、一般市販車に応用されることがある」(24)。
オートレースの大きな目的は、国産オートバイの品質を高め、オートバイ工業の技術水準を上げることにあったのだ(25)。
技術は経済発展の重要なファクターであり、技術革新と経済学は密に繋がっている。実際、今日まで、多くの先学が、技術革新の普及と経済発展の関係について研究してきた。「企業の技術開発には、その技術を独占的に専有し、利益を上げる『専有可能性』と、情報が広く『流出』して独占性はないが、他企業の技術開発、生産活動を活発化させ需要を向上させる効果、の二つの側面がある。この二律背反をうまく利用するか、そして『技術機会』と『発展の自然軌道』をいかに迅速に掴んで競争上の優位を確保するかは進化経済学での核心の課題」(26)である。経済の発展には、快適な乗り心地やデザインなどが、社会進化の過程で消費者にどのような満足感を与えるかも大きく関わってくる。
つまりレース場はオートバイ・メーカー各社の性能テストを兼ねており、その結果を踏まえて生産されるオートバイは諸外国に土砂降りのように輸出され、KAWASAKI、YAMAHA、HONDA、SUZUKIの名前が世界中に響き渡ることになるのである。全世界で一〇〇近いオートバイメーカーがあったのが、今やこの四社で世界の80%以上のシェアを占めている。
ギャンブルとして特殊化していくオートレース専用のマシンは、トラックレースのみに適合できる特殊な進化を遂げて今日に至っている。
(1)接近戦レースの追突を避けるためにブレーキがない
(2)左回りの狭いコースを終始傾斜して走るので、傾斜時の安定性向上のために左ハンドルが高い
(3)軽量化を図るために、各種メーター、ランプなど、競走に不要なものは一切取り除かれている
(4)セルマーターや始動キックペダルがないから、エンジン始動には押してもらう
(5)カーブでの接地性を良くするため、タイヤは競技専用に開発された三角タイヤを使っている。接地性をより一層高めるために、選手はサンダーで削る作業も行う
楕円形の五〇〇メートル走路を舞台に、九〇メートルに満たない直線では、「突っ込み・立ち上がり」を繰り返し、コーナーをアクセルワークで駆け抜ける(27)。タイヤの寿命は三、四レースに過ぎない。そんな苛酷な使用に耐え得るレース専用エンジンも開発され始めている。その特徴には、以下の四点がある。
(1)多くのレースに使用しても、故障や性能変化がない
(2)適切なエンジン出力と、良好なエンジンブレーキにより、安全性が高い
(3)点火時期など、各部の調整によるエンジンチューニングが容易にできる
(4)車体に適したエンジン重量、寸法として、車体操縦性が高い(28)
佐々木晃彦(ささき あきひこ)
1946年生まれ。
九州共立大学経済学部教授。
(1)文献にみられる最初の競馬は、詩人ホーマーが、叙事詩『イリアッド』で謳っている戦車競馬である。ホーマーは紀元前八〇〇年くらいの詩人であることから、競馬は紀元前一〇〇〇年以上の昔から行われていたと考えられる。そして今日の近代競馬の形態を整えたのは英国で、各国とも英国を範として競馬を行っている(中央競馬ピーアール・センター編『中央競馬のすべて』一九九三、日本中央競馬会、一八頁)。
(2)中村隆英『日本経済』(一九九三「東京大学出版会、五三〜六二頁)と、三和良一『概説日本経済史』(一九九三、東京大学出版会、二〇〜二八頁)に詳述。
(3)前掲『日本経済』四六頁、同『概説日本経済史』七二〜八三頁に、日清・日露戦争と日本経済について詳述。
(4)賭けで勝った優越感から、他人に話したり、勝ち券を見せて羨ましがらせたりして大いなる満足感に浸る。飲み屋などで、同僚に自慢して悦に入る。この満足感こそ効用に他ならない。ある消費から得られる効用を手に入れるために、どれだけの費用を負担するかということを考えて、一定の予算制約の下で効用を最大化できれば、それは経済学が想定する合理的な消費者なのである(岩田規久男『経済学を学ぶ』一九九四、ちくま新書、三六〜三七頁)。
(5)法律の賭博を禁ずるのは賭博による富の配分そのものを非とする為ではない。実は、唯その経済的ディレッタンティズムを非とする為である(芥川龍之介『侏教の言葉・西方の人』一九六八、新潮社、六四頁)。
(6)政府の馬券再発行は、馬産改良を口実にした財政への収入源確保であった。当初は勝馬投票券によって的中者に商品を出す方式だったが、新たな競馬法の施行で本格的な馬券発行に踏み切った。もともと地方競馬は、戦前に地方競馬規則が制定されており、日中戦争勃発後は軍費調達の一環として額面三円以下の「優等馬票」が発売されていた(紀田順一郎『日本のギャンブル』一九八六、中央公論社、二二四頁)。
(7)三和良一『概説日本経済史」(一九九三、東京大学出版会、一五一〜一五二頁)。
(8)一九八〇年には一日当たり九億二千万円あった売得金が第二次オイルショックで一九八五年には七億円に、入場人員は七万一千人から四万四千人に減少した。年間九二億円あった収益金も二一億円に激減した。そうした状況でのナイター化検討であった。馬の生理、調教時間、夜間ライティングによる競走への影響、また、騎手の夜間騎乗危険度、来場アクセス、交通量調査、周辺住宅地の騒音調査、鳥類への影響、航空機(羽田空港)との関連などである。「光による演出効果」アップを目的に年間二〜三億円の費用も投下した結果、ギャンブル場はレジャー施設に、ファンはギャンブル愛好者の中高年層から女性層にまで拡大した。また、元々一人で来場するギャンブル場に、グループ来場が増えるようになった(『公営競技高度化研究会』小宮晋六郎「ナイター導入施策と将来の地方競馬の展開」一九九六、三菱総合研究所)。
(9)A・H・マズロー(Abraham Harold MASLOW、1908〜70)は、人間とは生涯を通じて“何かを欲求している欠乏人間”であって、一つの欲求がある程度満たされるとより高い欲求が頭をもたげるとして、(1)生存欲求、(2)安全への欲求、(3)所属と愛の欲求、(4)評価・承認の欲求、(5)自己実現、(6)知ることと理解することへの願望、(7)審美的欲求を段階的にあげている。この理論は多くの共感者を得て、今やマーケティングの世界にまで幅広く活用されている。つまり、(2)の欲求には大量生産・大量消費による十人一色の対応で済むが、(3)の欲求には十人十色の対応が必要になる。このようにエスカレートする欲求には、終局、感性と知性を充足させる消費の提供、「心の豊かさ」や「ゆとり」を満たすサービスの提供、一人十色の対応が求められることになる(伊藤正視『人が集まるテーマパークの秘密』一九九四、日本経済新聞社、二一八〜二二二頁)。
(10)スピードへの欲望は、しばしば、いわゆるスリルの希求として説明される。それは、具体的に言えば、スピードの追求が何らかの危険の可能性を内包しており、その可能性を感知することが不安や緊張感などをもたらす、それらの不安や緊張に堪えることの希求である。なぜ、そのような希求が生じるのか。それは、一般に人間が、特に青年達が、その生活のなかに適当な質量の不安や緊張感を必要とするのに、それらが得られていないからである(副田義也『遊びの社会学』一九七七、日本工業新聞社、一一二頁)。
(11)下川浩一『日本の企業発展史』(一九九〇、講談社現代新書、六四頁)。
(12)当時は占領下にあったため、原案作成に当たってGHQから出された指示は、この種の競技は、地方自治体によって行われるべきである。競技実施の主体となる特権団体の誕生は、その業務内容がいかなるものにせよ好ましくない。特にこれを全国一本建とすることは好ましくない、というものであった。これは、成立したばかりの独占禁止法、事業者団体法などの立法趣旨を取り込むものであった(『競輪関係資料』一九八七、日本自転車振興会、一三頁)。「その頃の石炭は黒ダイヤと呼ばれて掘ればいくらでも金になった。炭鉱で働く人々は金の使い道に困ったほどでした。しかし遊び場がなかった。酒か、女か、賭博、どれかに走るわけです。そこで、コソコソ隠れてやる遊びでなく、白昼堂々とやれる施設を提供したいと、という考えもあって踏み切りました」(浜田良裕 小倉市長、『昭和二万日の全記録』一九八九、講談社、二三一頁)。
(13)日本自転車振興会『競輪30年史』より、横田隆雄選手(登録番号14、一九一七年生まれ)のコメント(一九七八、同振興会)。
(14)女子マラソンは一九八四年のロサンゼルス・オリンピック、女子柔道は一九九二年のバルセロナ、女子サッカーは一九九六年のアトランタから正式種目になった。女子スポーツと女性の社会進出は無関係ではない。女子競輪にも“ミス・ケイリン”として華やかな時代もあっただけに、今でも「女子選手を復活させたら・・・」「現在なら定着するんじゃないか・・・」の声がないわけではない。女子競輪が凋落していった理由は、ほとんどのレースが本命・対抗の人気通りの結果になり、配当は一二〇円、一五〇円などというのも珍しくなく、賭け事の魅力を失ったためだ。ゴール前のデッドヒートもなくなって、プロ選手として出走機会が得られず、一九六四年には在籍の選手数はわずか二三〇名であった。女子競輪盛衰の詳細は、『競輪四十年史』(一九八九、日本自転車振興会、三七九〜三八四頁)。
(15)ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga)ライデン大学総長は、一九三三年、「文化における遊びと真面目の限界」と題した総長演説を行い、この講演は一九三八年に著わされた『HOMO LUDENS』(邦訳、高橋英夫『ホモ・ルーデンス―人類文化と遊戯―』一九六三、中央公論社)となり、文明の発達における遊びの役割を証明している。同著によれば、遊戯の要素を表現することができる言葉はほとんど大部分が美学的な領域に属した言葉である。我々を虜にし、呪縛し、魅惑する遊戯は、何ものかを求めての闘争であるか、あるいは何かを表す表現であるか、そのどちらかで、この二つの機能は、遊戯が何ものかを求める闘争を〈表現する〉というふうにして、また、遊戯が最も表現の優れている者を選び出すために競争の形を取るという具合にして、一つにまとめられることもあり得ないではない(ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』一九六三、中央公論社、二七〜二八頁、三二頁)。
(16)「男女共同参画」とは、女性と男性が対等な立場でお互いをパートナーとして認め合うこと。そして「男女共同参画社会」とは、男女が、社会の対等な構成員として、自らの意志によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に文化的、経済的、政治的、社会的利益を享受することができ、かつ共に責任を負うべき社会、つまり、女性があらゆる分野に参画していくことについて、周囲の人々もそれをごく自然のこととして受け入れる、そんな社会の姿をめざす言葉(文部省生涯学習局婦人教育課『社会教育』一九九七・八、(財)全日本社会教育連合会、三〇頁)。
(17)近年、伊達公子、沢松奈生子、杉山愛などの女性テニス選手を輩出しているが、その出発には平塚らいてふ(明治19年生)、山川菊栄(同23年生)、市川房枝(同26年生)、羽仁説子(同36年生)など“新しい女性”によるローンテニスの普及活動がある。テニスは女性権利拡大の歴史でもあった。ここに、速さ、距離、高さ、強さなどの客観的判定(男性的論理)である数量化される記録をめぐる争いから、軽快さ、しなやかさ、バランスなどの美的判定(女性的論理)がスポーツに入る縁が見られる。シンクロ、新体操、フィギアスケートなどは、技術点+「芸術点」で競い、芸術性+美しさという、文化の在り方に依存する世界でもある。
(18)jaialai(バスク語)。フロントン(fronton)またはフロント・テニスとも言われる賭け事。室内にスペイン特産の堅い石または大理石で壁をつくり、コルクを木綿糸で巻き、皮革で包んだボールを壁に交互に打ち付けて争う競技の勝敗に賭ける。スペイン、フランス、イタリア、アメリカ、フィリピンなどで行われている。
(19)ある人が、毎日小さな賭け事をして退屈せずに日を過ごしている。毎朝この人に、この人が一日に儲けるだけの金を与え、その代わり賭け事はしないと約束せしめるがよい。君はこの人を不幸にするであろう。人は言うかも知れない、この人は賭け事の楽しみを求めているのであって儲けを求めているのではないと。それではこの人をして、金を賭けないで勝負事をさせてみるがよい。この人は熱中すまい。そうして退屈するであろう。だからこの人の求めるものは、ただ楽しみだけではない(Blaise Pascal『Pensees』1897、Hachette. Oeuvres de Blaise Pascal、 XII、XIII、XIV、edition, Lbrunschvicg, Hachette, 1904. 邦訳ブレーズ・パスカル著、津田穣訳『パンセ』一九五二、新潮文庫、断片一三九[慰戯]、上巻一〇〇〜一〇一頁)。
(20)一九九七年女子選手獲得賞金順位((社)全国モーターボート競走会連合会の資料から)
1位 谷川里江 36,233,000円
2位 鵜飼菜穂子 32,660,333円
3位 角ひとみ 32,437,000円
4位 藤家妙子 31,801,000円
5位 大島聖子 30,279,000円
6位 山川美由紀 26,710,350円
7位 柳澤千春 26,629,000円
8位 寺田千恵 26,409,000円
9位 若山美穂子 23,096,333円
10位 西村めぐみ 23,044,000円
(21)応援の心理を考えると、そこには脇役の主役化とでも呼びたい特性が見いだされる。応援する者の主観においては、応援に熱中すればするほど、この主役と脇役の境界線が曖昧になっていく。心理学的にいえば、応援する人々は応援される人々に自己同一視を行い、自らもあたかも主役のように感じることができる(副田義也『遊びの社会学』一九七七、日本工業新聞社、一九〇〜一九一頁)。夢や感動を自らつくるのは難しい。一九九八年のサミー・ソーサ(カブス、29歳)とマーク・マグワイア(カージナルス、34歳)のホームラン争いは、世界を巻き込んだ「夢の共有」であった。「時代の夢」を測るバロメータとして、葬儀の参列者数が考えられる。
1位 X-JAPANのHIDE(享年33歳) 50,000人、98.5
2位 美空ひばり(同52歳) 42,000人、89.7
3位 吉田茂(同89歳) 40,000人、67.1
4位 尾崎豊(同26歳) 37,500人、92.4
5位 渥美清(同68歳) 35,000人、96.8
黒澤明(同88歳) 35,000人、98.9
7位 石原裕次郎(同52歳) 33,500人、87.8
(22)日本で純国産のオートバイ第一号を完成させたのは、当時21歳の島津楢蔵(一八八八〜没年不明)で一九〇九(明治42)年であった。個人の力でエンジンからフレームまで完成させた努力と、技術者としての能力は驚嘆に値する(日本自動車工業会編『モーターサイクルの日本史』一九九五、山海堂、二四〜二七頁に国産化に向けた、当時の詳細記述)。
(23)世代を越えたアイドル、長島茂雄を思えば分かりやすい。つまり、長島さんは守備練習一つするにしても、ただ確実に取って投げるだけでなく、常にファインプレーのイメージ、大衆が思い描くことができる球の取り方、投げ方をプレー(演技)できるような猛練習をした。長島さんのプレーは常に観衆の賞賛と共感を引き起こし、大衆の応援と興奮が長島さんに乗り移り、長島さんと観衆の間に、ある種の一体感が高まる。そのような陶酔のさ中で彼の自己愛もまた、ものすごく満たされたに違いない。しかも自己愛が満たされれば満たされるほど、人間の心は高揚し、その才能をフルに発揮する(小此木啓吾『英雄の心理学』一九九一、PHP文庫、一八八〜一八九頁)。「長島ブランド」のカリスマ性である。
(24)日本小型自動車振興会
(25)公営競技が経済に影響を与える側面として、技術革新との関係がある。土肥原洋はスポーツと技術革新の一般的な関係を「スポーツ用具の向上は技術の進歩によってもたらされ、スポーツの発展が技術革新を促進した」と述べ、木材、鉄、ゴム中心から、プラスティック、化学繊維、グラスファイバー、炭素繊維、防水透湿素材の開発でスポーツ用具の小型化、高性能化を進めたことを立証した。炭素繊維などの新素材はアメリカでは、宇宙・航空用が中心だが、日本ではレジャー・スポーツ用が過半である(土肥原洋「スポーツの経済学」、池上惇・山田浩之編『文化経済学を学ぶ人のために』一九九四、世界思想社、一四八〜一四九頁)。
(26)弘岡正明「技術革新のダイナミズムと進化経済学」進化経済学会編『進化経済学とは何か』(一九九八、有斐閣、一五六頁)。
(27)F1グランプリ人気に陰りが見えている。それはレース内容が単調で、勝つドライバーがいつも決まっているからだ。そこで競馬のように、成績が良い馬には重りを積んで付加を与え、ハンデでコンディションをイコールにしようという規則が生まれた。その点、オートレースは最初からハンデキャップ制を取っている。モータースポーツの最先端をいっているのだから、面白くて当たり前だ。それにオートレースはシビアだ。車の整備では一〇〇〇分の一ミリが、速さでは一〇〇〇分の一秒が競われる。年間を通して良い成績をあげるには、鍛えられた精神力が何よりも大事で、選手には人間的成長が求められる(館内端「もうひとつのモータースポーツを知ろう」『Let's Try!』一九九七、日本小型自動車振興会、四頁)。
(28)日本小型自動車振興会
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