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3.財団の協力事業
3.1 国際会議
 医療部長として私が就任して始めた仕事は、まず手のつけられる財団のプログラムの作成でした。
 財団設立直後の1974年秋と1975年夏(昭和49年、50年)に鶴崎事務局長のもとで、二つの国際セミナーが東京で開かれました。招かれた10カ国あまりの発展途上国のハンセン病対策責任者から、彼らの直面する問題について説明を聞き、それに関してWHO、ILEP、それに日本の代表を含む専門家から提案がなされ、さらに全員での討論を経ていくつかの共通した重要な課題が示されましたが、その第一には、ハンセン病対策要員の不足、彼らの知識・技術の向上の必要性が挙げられました。
 私もこの二つの国際セミナーにはネパールの代表として出席していましたし、また私自身のネパールでの体験から、要員育成のためのキャパシティビルディングの重要性は十分に心得ていましたから、私の選んだ財団のプログラムの第一は、ハンセン病対策要員のための研修に話題を絞った国際ワークショップをバンコクで開催することで、これは計3回、1976年、1979年、1980年(昭和51年、54年、55年)に開かれることになりました。バンコクを選んだ理由は、現地のチュラロンコーンおよびマヒドン大学の研修に関する有能な専門家のサポートが得られることでした。
 
 財団設立当時から、当財団の当面の活動対象は、東および東南アジアの国々、しかし西はミャンマー(当時はビルマ)までとし、私がいた関係でネパールは含めるということで、実際に私たちが最初に直接接触したのは韓国、台湾(中国は1980年代になってから)、ベトナム、フィリピン、マレーシア、タイ、インドネシア、シンガポール、ミャンマー、ネパールの10カ国でした。
 これら国際ワークショップは、上述10カ国それぞれからの保健省ハンセン病対策責任者を含む2、3名のほか、その会の主題に沿った日、欧、米および主催国からの専門家、WHOとILEPの代表も含めた総勢40名前後で行われ、上述研修の3つがバンコク、化学療法がマニラ、民間団体の役割についてジャカルタ、社会問題がカトマンズ、疫学的統計がクアラルンプール、診断法が台北、そして都市部でのコントロールはシンガポールと、計9つの同じ形式のワークショップが財団設立後9年間のうちに開かれました。このワークショップそのものが、各国からの出席者にとって研修の良い機会になったのは当然ですが、さらにこれらの会のかなり詳細な内容を含んだ議事録が英文で、それ自体が研修のための教本にもなるように作成され、広く配布されました。
 
 前述の世界救らい団体連合の中には、ハンセン病の広い領域に多くの専門家がおられますが、私たちのワークショップには進んで参加してくれました。英国救らいミッションからは、私の個人的指導者でありまた後見人でもあったスタンレー・ブラウン博士(Dr. Stanley G. Browne)、また当時化学療法の第一人者であったマイケル・ウォータース博士(Dr. Michael F. R. Waters)、英国救らい協会のコリン・マクドゥーガル博士(Dr. Colin McDougall)、ベルギーのダミエン救らい協会のミシェル・ルシャ博士(Prof. Michel F. Lechat)、アメリカ救らいミッションのフェルトン・ロス博士(Dr. Felton Ross)、またこの連合の一員ではありませんが、米国カービル療養所のロバート・ジェイコブソン博士(Dr. Robert R. Jacobson)もその一人でした。またアジアからは、世界的権威者でもあるミャンマーのチャウリン博士(Dr. Kyaw Lwin)、フィリピンのギント博士(Dr. Ricardo Guinto)も有力な協力者でありました。日本の諸先生方の中では、特に犀川一夫、石原重徳、西占貢、伊藤利根太郎、阿部正英、中村昌弘、松尾吉恭、硲省吾先生から貴重なご協力をいただきました。
 
 これらのワークショップが、ハンセン病を抱える各国においてお互いにこれらの問題点をいかに対処しているかを知る有力な情報交換の場、あるいは各国での経験を相互に共有しあう機会になることは当面の公表された目的でしたが、もう一つの背後にあった目的は、これら10カ国のハンセン病対策責任者同士、さらにこれらの会議の大半に出席していた上述の数名の国際的ハンセン病専門家、特にILA(国際らい学会)、ILU(国際ハンセン病連合)、そしてWHO関係で重要な地位を占め、世界的指導力を持っていたブラウン博士とルシャ博士、それに当財団の当事者との間に自然に発生したパートナーシップの強化育成に役立つこととなりました。
 保健省の中でのハンセン病担当者の地位は一般的に低く、何かと孤立することが多かったのですが、当財団の催すこれら国際ワークショップのレギュラーメンバーになったことで、彼らは強力なパートナーを同じ境遇にある隣国に得ることになり、しかも毎年1、2回は会議出席のため海外出張もあることから、彼らは以前とは打って変わった羨望の目で見られるようになりました。彼らの中でも特に財団との関係が深かったのは、韓国の金道一博士(Dr. Kim Do-il)、タイのティーラ博士(Dr. Teera Ramasoota)、インドネシアのアンディー博士(Dr. Andy A. Louhenapessy)、フィリピンのホセ博士(Dr. Fernando Jose)、マレーシアのリムクヮンジュー博士(Dr. Lim Kaun Joo)等でした。
 
 しかし、1980年代半ばになると、数年前に始まった多剤併用療法(MDT)拡大のため、WHO主催の国際会議が多くなり、私自身もそれらの大半に出席する必要から、財団独自で企画する国際会議は少なくなりましたが、それでも主としてWHOと当財団が共催する会議は毎年一つ以上は続き、これらは財団の世界的貢献として広く歓迎されました。この中でもノルウェーのヤイロでの「ハンセン病の疫学に関する会議」、およびオスロでの「ハンセン病免疫に関する会議」等は、その専門的見地から特筆に値するもので、その議事録は『Leprosy Review(レプロシー・レビュー)』の特別号として発刊されました(1981年12月号)。その他にもジャカルタでの「疫学」、バンコクでの「基礎研究」、ミクロネシアでの「予防内服」等の会議の議事録が『International Journal of Leprosy(国際らい学会誌)』の別刷として発刊されました(1999年12月号。第67巻4号)。
 
 当財団が主催または共催したハンセン病の国際会議は40ほどになりますが、その中でも特に財団がWHOとハノイ、デリー、ヤンゴン、アビジャン、ブラジリアで共催した5つの「公衆衛生問題としてのハンセン病を制圧する国際会議」は、今日の世界的成果の達成には不可欠なものだったといえます。
 
3.2 化学療法
 財団の二つ目の貢献は、ハンセン病の化学療法に関するものですが、「日本のハンセン病の化学療法の父」とも呼ばれた石館守三先生が初代理事長であった当財団としては当然の成り行きでした。財団発足当時は、それまでのハンセン病コントロールの主力であったダプソン単独療法が、それに耐性を持ったらい菌の全世界的な発生のために使えなくなる状況になっていましたが、将来を危惧した一部の化学療法の専門家たちがそれぞれ独自に対策を考えてはいても、世界的規模でこの対策を協議することはWHOも行っていませんでした。
 そこで当財団は、1977年(昭和52年)1月にマニラで開催したワークショップの主題を「ハンセン病の化学療法」とし、この方面の世界的権威数名を含む有力な講師たちを招いて5日間の有意義な討論の後、結論として、ダプソン単独療法の早期廃止、そしてそれに代わる二つ以上の治らい薬による併用療法の早期導入を提唱しました。これはWHOがジュネーブで開催し、そこで今でも続いている多剤併用療法(MDT)を提案したハンセン病化学療法の研究会より4年も前のことでした。
 
 この二つの会が出した勧告は基本的にはほとんど同じですが、大きな違いは、私たちの会は準備期間が非常に短かったために、今後のMDTのために韓国、フィリピン、タイ三国の間で共同研究を始める必要があるというのに止まりましたが、この会に刺激を受けたWHOが研究グループをTDR(熱帯病研究)プログラムの中で発足させ、ジュネーブの会議ではこの研究グループの結論を基にして現在も使用されている多剤併用療法を提唱できたことです。そしてここで採択された新しい治療法が、単に当初の目的であったダプソン耐性菌の発生を防ぐだけでなく、その治療効果が当初の予想をはるかに超えたものであったことから、WHOはこれが全世界で組織的に活用されれば、ハンセン病制圧、患者数の減少も可能だと判断した上で、1991年(平成3年)、第44回世界保健総会で「公衆衛生問題としてのハンセン病を各国それぞれに制圧する」という歴史的な決議案を提出、満場一致で採決されました。これにより各国単位で人口1万人につきハンセン病患者1人以下にするという世界的運動が展開することになりました。
 マニラで開催した私たちの国際会議が口火となってWHO主催のジュネーブでの化学療法研究会となり、それがこの世界保健総会の決議と繋がったことで、財団創設時の笹川良一会長の“この世界かららいをなくそう”という夢は、実現の可能性がある全世界的運動となったのです。
 
 その成功をより確かなものにするために、当財団とWHOとが共催し、ベトナム政府がホストとなった1994年(平成6年)ハノイ会議の席上、笹川陽平日本財団理事長が発表されたのが、今後5年間、全世界のハンセン病患者すべてにMDTが無償で届けられるように、年間1,000万ドル(約11億円)を5年間WHOに提供するということでした。これにより多額の薬代を心配してどちらかといえば消極的だったインド政府も全国的MDT拡大に取り組むことになり、2000年(平成11年)のゴールに向け、世界的な運動が展開されることになりました。
 私が聞き及んだことですが、実は笹川良一会長が財団の創立の時に、お祝いとして世界の20カ国に必要なダプソンをあげようといわれたのに対して、創立者グループは、「今、薬を出しても、それが患者さんの手に無事渡る保証はありませんから、まず要員育成のほうが先です」といってお止めしたということです。笹川陽平理事長のハノイでの発表は、まさに御尊父の願いを20年ぶりに果たしたことになります。
 
 もちろん必要な薬の関係各国への提供は当然当財団のプログラムの柱の一つであり、財団設立当初からかなりの予算をそのために使ってきました。これについての最初の大きな仕事は、ちょうど財団創設当時に、UNICEFが10年以上行ってきたダプソンの無償提供を中止したことから、UNICEFに代わって財団が必要なダプソンの全量をインドネシア、ミャンマー、フィリピンに提供することでした。
 
 MDTがWHOから発表された1982年(昭和57年)4月以降、財団はそれまでの上記3カ国を含む10カ国以上へのダプソンのみの供給は止め、MDTに必要な薬、ダプソン、リファンピシン、クロファジミンの同時提供に切り換えたことによって、財団と関係のあったアジアのこれら諸国は、世界の他の国に先駆けてMDT実施を始めることができました。その後、MDTの全世界的実施の拡大に伴い、薬の提供を主とした当財団の協力範囲も、アフリカ、中南米を含む二十数カ国にまでになりました。
 
 当財団はWHOとの共催でデリー、アビジャン、ヤンゴン、ブラジリア等でこの「ハンセン病制圧」の世界運動の推進についての国際会議を開き、笹川良一会長が最初に目指したようなWHOと当財団とのパートナーシップで「らいをやっつける」ということは、単なる夢物語ではなく、実は壮大なビジョンであったことが証明され、現在もその最終目的である「ハンセン病のない世界」の実現への努力を続けております。
 
3.3 ハンセン病関係研究
 化学療法に次いで石館理事長の個人的ご関心は、先生が長年関わってこられた研究という分野でした。財団の初期には、毎年予算の1割近くがそのために支出されていました。予算配分は1年ごとに行われるので、一応、年度末に提出される報告書によって審査した上で翌年の予算配分を行うという建前にはなっているものの、実際そういった形での評価は難しく、鶴崎さんや私などが、成果が上がっていないのではないかと心配しても、石館先生は、研究助成は将来の発展のための投資と考えておられ、毎年どれほどの成果が上がったかについてはそれほど気にする必要はないし、しかもネガティブな結果も場合によっては、ポジティブな結果より貴重なこともありうるのだからと、きわめて鷹揚な対応でした。
 
 1970年代は、アルマジロと免疫力を抑えたネズミによるらい菌の大量の生産が可能になり、ハンセン病関係の諸研究が大いに拡大した時代でしたので、当財団でもコンビット、カーチハイマー、印南成司先生等のアルマジロ関係への資金協力、また大阪大学微生物病研究所の伊藤利根太郎教授の下でのヌードマウスによるらい菌増殖にも協力しました。
 
 また、大量のらい菌の存在は、らい予防ワクチン開発への関心と意欲を刺激し、日本国内・国外でのその方面への資金協力も行われました。さらに、従来からの一部の研究者によるらい菌の人工培養に関する努力は日本でも依然強く、財団設立当時からの協力者の中にも久留米大学医学部の中村昌弘教授を含む数人の専門家がおられたことから、この方面への研究助成も石館先生の関心の一つでした。
 
 動物内でのらい菌増殖以外のそれらの研究は、これという成果には直接つながりませんでしたが、この時期に、今までハンセン病には関心のなかった多くの基礎研究者がこの方面の研究に加わったことから、やがてらい菌のゲノム解明やらい菌の構造の理解、ハンセン病の世界規模での疫学の解明等につながり、それを契機に再びらい予防ワクチン、新しい診断法、治療効果の判定、再発の予知、新しい治らい薬等、多くの分野での研究が盛んになりましたから、財団の今までの研究助成も、現在のハンセン病関係研究の基礎作りにある程度貢献できたことは確かなことであります。
 
 当財団のこの方面への目に見える形での貢献は、バンコク郊外のタイ保健省構内に、タイ国立保健センターに隣接して建てられた笹川研究施設(SRB)です。笹川良一会長から米寿のお祝いとして集まった6億300万円あまりをそのままそっくり当財団に頂いたので、タイ国王の60歳の誕生記念のために何か目に見えるものがほしいというタイ保健省の要請に応じるためにも、石館先生は、建物の寄贈はしないというそれまでの原則の数少ない例外として、当時での最新の動物舎設備を持った研究施設を3億円かけて作ることをお決めになりました。それには当時日本でのヌードマウスを使ったハンセン病研究の第一人者である伊藤利根太郎教授から、大阪大学退官後ご自身がその研究所の直接の責任者として運営の責任を負うというお申し出があったからです。
 
 事実、タイの皇太子をお迎えして開所されたSRBは、伊藤先生の下、当財団の全面的財政支援によって仕事が始められましたが、自国であるタイの研究者が育たなかったために残念ながら十分には活用されませんでした。しかし、一時期にはタイと日本とのエイズワクチン共同開発のためにその動物舎が活用され、この数年では、現在のらい菌に関する微生物学研究の第一人者であるコロラド州立大学のブレナン教授(Prof. Patrick J. Brennan)と、マウスを用いた研究の世界的権威であるイスラエルのレビー教授(Prof.Louis Levy)による直接指導のもとで、有望な若いタイの研究者が仕事を始めることになり、SRBの将来にも明るい希望が持てるようになりました。
 
 このほかにも財団の研究費は、京都大学の西占貢先生他による電子顕微鏡によるらい菌構造の解明、国立多摩研究所の阿部正英先生他によるハンセン病診断テストの作成等にも使われましたから、かなりの紆余曲折はあったものの、研究助成の面でも当財団はそれなりの貢献はできたものと考えます。
 
3.4 ハンセン病対策要員の研修・育成
 バンコクでの「ハンセン病対策要員育成」に関する3回のワークショップの結果、財団の予算内でこの方面に関する支出がかなり重要な地位を占めることになりました。各国国内での自国語によって行われるハンセン病に関する研修の助成はもとより、英語による国際研修も数多く行われました。
 財団設立直後は、各国からの要望もあり毎年何組かのハンセン病担当医師たちが来日しましたが、より実質的、より現実的な研修はむしろハンセン病蔓延国内のほうがよいとの判断から、インドのカリギリやエチオピアのアジスアベバにある国際ハンセン病研修センターにおける医師、検査技師等の研修、バンコクにある皮膚病センターや他の大学のマスターコースでの医師の研修の助成を行いました。さらに財団の最もポピュラーなプログラムの一つは、普通海外出張の機会のない各国のシニア・コメディカルを対象とした交換研修プログラムで、ミャンマーからインドネシアへ、インドネシアからフィリピンに、ネパールからベトナムにといった10日間位の現地訪問研修も実施しました。これはフィールドで実際にMDTを行っている人同士が、相互に学ぶ機会を得ただけでなく、ほとんどの参加者にとっては一生に一度の海外旅行ということで、帰国後の自分の仕事に対する大きな励みにもなったようです。その中でも私たちを喜ばせたのは、ミャンマーからインドネシアに行った数名が財団から支給された旅行費用を極度に節約し、帰路シンガポールで中古のオートバイを買い、それを帰国後自分の仕事にも使ってその能率を高めていたことです。
 
 もう一つ財団としての重要な研修事業は、1980年以降毎年フィリピンのセブにあるレオナルドウッド研究所を中心に行った多剤併用療法実施に関する標準化のためのワークショップです。これはその初期には、財団主導で始めた韓国、フィリピン、タイでの3カ国共同実験実施のためでしたが、1982年4月にWHOがMDTを発表してからは、各国でそれが正しく実施されるためのものに切り替わりました。講師はレオナルドウッドのギント博士(Dr. Ricardo Guinto)を中心に、パファルド(Dr. T. Fajardo)、セリオナ(Dr. R. Cellona)、アバロス(Dr. R.M. Abalos)、デラクルーズ(Dr. E. C. Dela Cruz)等のでしたが、財団のマニラでの「化学療法に関するワークショップ」にも出席し、WHO/TDRのTHELEP(ハンセン病化学療法部会)の主要メンバーのマイケル・ウォータース博士も毎年欠かさず出席して研修を指導してくれました。参加者も最初の3カ国から財団が直接薬品援助を行っていたネパール、ベトナム等を含む10カ国あまりに増えたので、これによって財団がアジアでのMDT実施に大きく貢献できたことは確かだと思います。
 
 また、ハンセン病対策の研修に関連して、当財団が1981年以来随時発行してきた『ハンセン病図鑑』があります。最初のものはレオナルドウッドにある莫大な数のハンセン病患者の写真の中から選んだ臨床皮膚所見40、顕微鏡写真36、臨床識別写真18を含んだもので、最初は英文の説明のものだけでしたが、次第に各国からの要求に応じて中国語、スペイン語、フランス語、アラビア語、ポルトガル語、それにインドネシア語、計7カ国のものが全部で約6万部作られ、各国に配布されました。
 その後もこういった図鑑への要望が続いたことから、財団は世界のより広い地域で使えるように皮膚の色の異なる各地から集めた40枚ほどの臨床所見を中心に、簡便な診断法、現行のMDTの説明等も含んだ『新ハンセン病図鑑』を、財団の昔からのサポーターの1人であるオックスフォード在住のコリン・マクドゥーガル博士の協力を得て4年前に作りました。前回同様まず英語版から始めましたが、既にフランス語、ポルトガル語、ヒンズー語版ができ、現在スペイン語、インドネシア語を作成中、さらにネパール語、ミャンマー語版もできる予定で、10万部をすでに超えています。これは一般保健要員によるハンセン病早期発見の手立てとして作られたもので、将来も世界のどこかにハンセン病が残っている限りこの図鑑の必要性はあるわけですから、今後どれほど発行部数が増えるのかわかりませんが、20万部は超えるでしょうし、財団の世界のハンセン病対策への貢献の一つとして長く残ることは間違いないと思われます。







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