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4.WHOとの協力関係
 当財団の活動の特徴の一つは、WHOとの非常に密接な協力関係ですが、それは最初に申し上げたように財団設立とほとんど時期を同じくして、笹川良一会長がWHOのハンセン病対策を強化するために、毎年資金を提供することを申し出られたからです。天然痘根絶対策の最終段階で日本船舶振興会からの資金援助に頼っていたマーラー事務局長(Dr. Halfdan Mahler)も、ハンセン病対策資金の受け入れにはいささか慎重でした。せっかくお金を頂いても天然痘根絶運動のようにそれに見合う結果が出せないのではないかとの不安があったからです。
 実際1975年から毎年出された100万ドルの使い方について、毎年ジュネーブに行って相談にのった私も相当苦労しました。また数年の後、日本財団が毎年の提供額を倍額の200万ドルにしてもよいというお話があった時も、当時のWHOハンセン病担当官のサンサリック博士は「それはとんでもない、100万ドルでも苦労しているのに、200万ドルなんかとても使えない」と断りました。しかし1982年にMDTが始まってからは事態が一転し、毎年400万ドルが提供されましたが、MDT拡大のために資金はいくら頂いても多すぎるということはないという状況になりました。
 
 皆様ご存知のように、笹川記念保健協力財団の運営活動資金は、ほとんど100%を日本財団に頼っていますが、実はWHOのハンセン病対策もこの30年間ほとんど日本財団からの援助によっています。したがってこの30年間に世界のハンセン病の状況が驚くような変化を遂げ、笹川良一会長の夢物語が、現実の活動目標となり得たのは、日本財団からの当財団とWHOへのこの30年間の200億円以上の資金援助なしにはまったく不可能であったことを皆様にご理解いただきたいと思います。
 同じハンセン病のために日本財団が出資するのに、当財団とWHOと二つの別々なチャンネルを使う必要があるのかという議論がたびたびあったと聞いております。しかし財団の創始者グループが笹川良一会長に進言したこのやり方は、今振り返ってみても実に適切なものであったと思います。国連の一機関としてのWHOは世界各国の保健省へ直接指導する立場にあり、またWHOの名の下で世界中のハンセン病専門家を集めることができました。しかし一方、国連機関という立場上、いろいろな仕事上の制約もあり、また官僚的な態勢の煩雑さや仕事の遅さもあります。
 一方、一民間団体の当財団には、身の軽さからくる仕事の迅速性、またその時々の実情に対応できる柔軟性があります。しかし同時に私たちが各国政府に直接アプローチするにはいろいろな制約がありました。この両者の長所と短所をうまく組み合わせて、それぞれだけではなし得ない仕事ができたのが、今日までの30年間ハンセン病対策上でのWHOと当財団との緊密な協力関係だったと申し上げてよいと思います。
 
5.世界のハンセン病の変遷
 以上で笹川記念保健協力財団の世界のハンセン病対策について一応まとめてお話しいたしましたが、ここでこの30年間の財団とその世界的協力者であるWHO、世界救らい団体連合(ILEP)、さらにハンセン病蔓延国の対策担当者の共同作業によりどれほどの成果が上がったかを簡単にご説明します。
 
 30年前の財団創立時、全世界で約1,000万から1,200万人のハンセン病患者がいると推定されていました。WHOは1965年に10,786,000人という推定患者数を発表していますが、これは世界各国政府から報告されてきた推計患者数の総計で、特にハンセン病の多い発展途上国の当時のデータベースを考えれば、10万台以下はきわめて信用しがたい数で、1,000万から1,200万と考えるほうがむしろ妥当だと思われます。
 登録患者数は推定患者数と異なり、実際にハンセン病と診断された患者数の総計ですから、より正確な数と考えられ、WHOは1976年に360万、1985年には540万と発表しています。また、WHOはハンセン病患者数が人口1万人につき1人以上の国をハンセン病蔓延国と定義づけましたが、それに従えば、財団創立後10年経った1985年には122がその指定を受けていました。
 1982年に発表され、当財団もWHOと協力してその実施の拡大の努力をしたMDTも最初は各国、特にハンセン病担当者からの反対が強く、財団が指導的立場にあったアジア10カ国、その他数カ国以外では、その進展は歯がゆいほど遅いものでした。
 それでも、1990年頃にはほとんど世界の各国で、それが国の一部の地域だけに限られていたとしても、MDTはハンセン病のコントロールの主な手段として使われるようになり、患者登録も目に見えて減少してきました。これに力を得てWHOが1991年5月、ジュネーブでの世界保健総会で、「西暦2000年までに、公衆衛生問題としてのハンセン病を制圧する」という決議案を出し、それが満場一致で採択されたことは皆様すでにご存知のことと思いますが、この全世界的な運動により、2004年の現時点では、全世界の患者登録総数は50万以下、ハンセン病蔓延国は10と、どちらもこの20年間に10分の1以下になりました。これはWHO主導で行われた世界規模のプログラムの中でも、天然痘、そしてポリオ根絶運動に次ぐ大きな成果で、もし笹川良一会長、石館守三先生がここにおられたら、きっとご満足いただける結果で、この財団を設立した意義があったとお考えいただけると思います。
 
 WHOは2000年末の時点で、インド、ブラジル、ミャンマー等が目標に達し得なかったために、この制圧運動期間を2005年末までとし、さらにこの運動のための各国政府の政治的決断を確かなものにするために、笹川陽平日本財団理事長にハンセン病制圧のためのWHO特別大使になっていただくことを要請しました。これを受けて笹川理事長はほとんど毎月のように、インドをはじめハンセン病蔓延国を訪問、政府の要人にこの運動の促進を促すと同時に、患者さんたちにも会って慰めと希望のメッセージを伝え、さらに国連の人権委員会に訴えて、ハンセン病にかかった人、またその家族全員が、社会の一員として認められ、彼らの基本的人権としての居住、就学、就業、結婚等の自由が守られるように日夜努力されております。
 
 当財団はハンセン病対策を中心に設立されましたが、実は設立当初から寄生虫症対策も行っており、さらにその後必要に応じて日中笹川医学奨学金事業、チェルノブイリ原子力発電所事故対策、ブルーリ潰瘍対策、エイズ関連事業等にも関与し、資金提供も行ってきました。さらにこの数年は米国のアンウエイ・ローさん(Mrs. Anwei Law)が中心になってハンセン病体験者が自分たちの努力で、ハンセン病についてまわる社会面での問題を解決するために世界の多くの国で立ち上げたIDEA(共生・尊厳・経済向上のための国際ネットワーク)への協力も大きくなってきました。
 今後この方面に対する財団の協力は、笹川陽平理事長のWHO特別大使としてのご活躍とともに、ますます大きくなると考えられます。しかし本日は、この財団設立の第一目的であり、しかも私が直接責任を負ってきたハンセン病医療対策のみに絞って話をさせていただきました。
 
6.結び
 何か大きな仕事をするためには「人」が必要だと笹川陽平理事長はいつもおっしゃっています。笹川良一会長と石館守三先生、それに日野原重明先生、笹川陽平理事長、紀伊國献三さんと、財団の設立の時から人は揃っていました。私はその5人に、残念ながらここにはおりませんが、財団初代の事務局長、故鶴崎澄則さんを加えたいと思います。財団初期の1年半、財団の事務局を育て上げただけでなく、二つの国際セミナーも開催しました。彼は私よりずっと年若でしたから、私が去った後も彼さえいれば財団の運営は正しく行われることを信じていました。プログラム作成は私の仕事でしたが、そのプログラムに必要な資金確保は彼の責任でした。彼から予算がないからそのプログラムは駄目ですといわれた覚えはまったくありません。彼がこの30周年の式典にいないのは実に残念です。
 
 大きな仕事をするのに、必要なものの第二は「時」です。素晴らしい計画も適当なタイミングがない限り成功しません。財団の誕生はこの点でも非常に恵まれていました。ハンセン病に関わる仕事を目指す者にとって、この30年ほど働き甲斐のある時期は以前にも今後にもないと思われます。財団が5年早く創立されていたら、将来のないダプソン単独療法の中で、是非これをという仕事は見つからなかったでしょうし、5年後ではMDTの波には乗れても、それを作り出すという先駆者的仕事はできなかったと思います。
 
 敬虔なクリスチャンであった石館先生は、この財団の発端となったあの昼食会は、単に偶然の出来事ではなく、神の摂理によるものだといつもおっしゃっておられました。この財団の設立、そしてその後の発展は偶然の積み重ねではなく、一般の人の言葉によれば、運命の糸にひかれたもの、クリスチャンとしての私には天からの御導き、神の御手によるものだと信じております。
 
 私はこのハンセン病史上、きわめて重要な時に、私なりの働きができる当財団の医療部長という仕事に就くことができたことは、身に余る大きな幸せであると感じ、財団の設立そして運営にお力をいただいていた多くの方々、特に日本財団の皆様に心からお礼申し上げて、私の話を終わらせていただきます。
 
 
(講演会では時間の都合上割愛した部分と説明不十分なところがありましたので、本稿ではそれを加筆し、あわせて誤りの訂正、表現の変更などをいたしました。)







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