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コラム
高松宮殿下と住之江
 
 高松宮殿下が初めてモーターボート競走をご覧になられたのは、苦境時代の狭山でのことである。昭和29年9月、開催中の狭山、大阪競艇場に殿下をお迎えしたが、当日は入場者も少なく売上も微々たるものであった。
 だが「宮様がお越しになる」というので、関係者は当然のことだが、狭山池周辺の町村から日ごろ競艇とは無縁の人たちも大挙してお迎えしたので、この日ばかりはこれが売上不振に悩む大阪競艇場とは思えない華やいだ雰囲気であった。
 
昭和29年9月 狭山池競艇場でレースを
ご観戦になる高松宮殿下
 
 関係者は「われわれを励ましにお越し下さったのだから・・・その後の奮起のこころの支えにした」と、当時を知る関係者は今も興奮気味に語る。
 大阪競艇場が住之江に移り、名も住之江競艇場と変え、施設も充実、売上も業界トップの座を占め、名実ともに日本一の競艇場として力強く歩み出した住之江競艇場に、高松宮殿下、高松宮妃殿下をお迎えしたのは、第一次電化が完成した電化完成記念特別競走に高松宮杯が下賜された、昭和47年7月6日(電化記念初日)だった。
 貴賓席にお着きになった殿下は「大きくなったね」と、おっしゃられた。18年ぶりにご覧になられる競艇、そのお言葉に狭山時代を思い出し、感無量の関係者の目に光るものがあった。
 その翌年、昭和48年11月27日、高松宮杯争奪第19回全国地区対抗競走の最終日、高松宮殿下がご台臨された。全国地区対抗競走が19年の歴史を閉じる最後の競走だった。優勝した井上弘選手に、お手ずから栄光の賜杯を手渡された。当の井上弘選手は「緊張で足が震えました、これほどの感激は言葉にいいあらわせません」と、頬を紅潮させて喜びを語ったのが印象的であった。
 一時、モーターボート記念競走に下賜されていた高松宮賜杯が、高松宮杯として住之江に戻ってきたのは、昭和53年12月に開催された第7回高松宮杯争奪特別競走からである。あるときは初日に、あるときは最終日に高松宮殿下はご台臨され自ら優勝選手に賜杯を、レプリカを手渡され、どの選手も先の井上弘選手と同じように「足が震えた」と、感激を語る。
 
第19回全国地区対抗競走
優勝した井上弘選手へ
賜杯を授与される高松宮殿下
(住之江競艇場 昭和48年11月)
 
 第10回(昭和56年10月1日・初日)には、再び妃殿下を伴われて両殿下おそろいで住之江の貴賓席からレースをご覧になり、関係者に励ましのお言葉があった。住之江で毎年行われる高松宮杯特別競走は、すでにファンにも定着していて、ファンも拍手で殿下をお迎えしている。
 
 (昭和58年3月発行の「住之江・三十年のあゆみ」から転載。「高松宮杯競走」は、殿下が昭和62年2月にご逝去された以降は「高松宮記念競走」と名称を変更した。)







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