昭和40年代(1965〜1974年)
全施協会報「志ぶき」創刊(昭和40年4月)
昭和39年6月、全施協第7代の会長に蒲郡市長逸見彦太郎氏が就任し、翌40年4月、逸見会長の下で、永年の懸案であった会報「志ぶき」が発刊された。
創刊号は、タブロイド判6ページモノクロという体裁で、その後、昭和43年1月からB5判、昭和49年には表紙カラー刷り、平成7年からはA4判となり今日に至っている。
創刊号で逸見会長は、「業界各関係機関に施行者の考え方を十分理解していただくことと、施行者相互の全国的な連携の下に事業の発展を期すことを発刊の2大目標としている。」旨述べており、この精神は、逸見会長の筆による「志ぶき」の題字とともに現在に引き継がれている。
「志ぶき」創刊号
戸田競艇場3年振りの再開(昭和40年10月)
戸田競艇場では、東京オリンピックの漕艇会場となったことから、昭和37年10月、会場整備のため競艇の開催を一時中止した。
オリンピックが終了すると、競艇の再開準備を進める埼玉県側とボートコースの専有化を狙う日本漕艇協会、さらには国会関係の政治勢力が加わり、競艇再開についての調整が難航したが、昭和40年5月、コースの使用は漕艇側が優先する等の条件の下で、両者共存することが合意された。
戸田競艇組合は、直ちに競艇場建設工事に着手、5カ月間の突貫工事により同年10月、鉄筋コンクリート6階建ての大スタンドが完成、3年振りに再開された戸田競艇場では「開設9周年記念競走」が盛大に行われた。
第1回鳳凰賞(総理大臣杯)競走の開催(昭和41年3月)
モーターボート競走に対する総理大臣杯の下付については、かねてから笹川連合会長が当時の岸信介総理、佐藤栄作総理に要請し、昭和40年2月には、全施協と連合会が連名で申請を行っていたが、同年3月、総理大臣杯を下付する旨正式通知があった。
連合会では、総理大臣杯を下付される競走を新たな特別競走として位置付け、「鳳凰賞競走」と命名した。
第1回鳳凰賞競走は、昭和41年3月10日から15日までの6日間、平和島競艇場において府中市主催により開催され、長瀬忠義選手が第1号総理大臣杯の栄位を獲得した。
41年6月に府中市長矢部隆治氏が全施協第8代会長に就任、1期1年の在任の後、翌42年6月津市長角永清氏が第9代会長に就任した。
第1回鳳凰賞競走
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