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昭和30年代(1955〜1964年)
 
河野発言と自粛開催(昭和30年1月)
 
 昭和30年1月、農林大臣河野一郎氏は、群馬県前橋市での記者会見の席上で、「競馬は、土曜、日曜、祭日以外は開催しないことを閣議で提案する」旨発言した。競輪もこれに同調し、翌日の定例閣議で「競馬、競輪等の開催については、今後、土曜日、日曜日又は休日以外の日には行わないものとするよう行政指導する」旨閣議申し合わせがなされた。
 これを受けて運輸省では、同年2月、事務次官からの依命通達をもって各施行者に健全な運用を図るよう自粛方要請を行い、続いて3月には、船舶局長からの依命通達により、(1)土、日の前後いずれか1日の平日を含む3日制もしくは土日を含む4日制をとることもやむを得ない。(2)休日には、国民の祝日のほか地方的な祭日も含み、前後いずれか1日の平日を含めることもやむを得ない。(3)平日は午後からの開催とする。という暫定方針が示された。
 
笹川良一氏が連合会会長に就任(昭和30年5月)
 
 昭和30年5月、初代会長の足立正会長が、多忙のため会長を退任し、当時副会長であり、会長代理であった笹川良一氏が、第2代連合会会長に就任した。
 
第1回全国地区対抗競走(昭和30年5月)
 
 昭和48年まで4大特別競走の一つとしてファンに親しまれてきた全国地区対抗競走は、その第1回の競走が昭和30年5月13日から17日の5日間、児島競艇場で開催された。
 売上は、5日間で38,273,100円、入場者は、同34,994人と大成功をおさめ、競艇業界をめぐる内外の情勢が極めて厳しいなかで、関係者に明るい話題を提供することとなった。優勝は関東地区、最優秀選手は金藤一二三選手であった。
 なお、同競走は、数々の名勝負とスターを生んだが、第19回の住之江大会を最後に廃止され、翌年には笹川賞競走が生まれている。
 
第1回地区対抗競走 団体優勝した関東地区選手
 
 昭和30年5月、第1回全国地区対抗競走が行われた児島競艇場において全施協臨時総会が開催され、若松市長の吉田敬太郎氏が第3代会長に選任され、競走の自粛開催の実行案をはじめ開催運営上の諸々の問題について、協議が重ねられた。
 
第1回モーターボート記念競走(昭和30年8月)
 
 昭和29年4月に開催された全施協総会で、「競艇の発祥を記念して競艇記念日を定め、記念行事を行ったらどうか」との提案があり、検討事項とされた。
 その後、30年5月の同臨時総会において、大村競艇場が初開催を行った4月6日を競艇記念日として定めるとともに、記念行事として第1回の記念競走を同年8月20日から23日までの4日間大村競艇場で開催し、その後毎年1回初開催の競艇場順に持ち回りで開催することが決定した。
 第1回記念競走の売上は、4日間で12,474,800円、入場者は、同3,775人で大村競艇場での初開催以来の売上の伸び悩みを払拭するまでには至らなかった。
 
大村競艇場 昭和30年代のピット
 
全施協事務局移転(昭和32年4月)
 
 昭和32年4月、全国市長会別館の改築工事のため全施協事務局は東京都中央区日本橋の兜橋ビルに移転した。また、同時期に事務局開設以来の功労者であった菊山事務局長が退任され、後任には運輸省出身の高橋百千氏が就任した。
 同年6月、競走法の一部改正により、国庫納付金制度が廃止され、連合会への交付金制度が新設された。
 昭和34年4月、事務局は、元市長会別館を改築して近代的なビルに生まれ変わった日本都市センターの一室に戻ることとなった。
 
 事務局の移転が済んだ昭和34年5月、4期4年間会長職を務められ、創業初期の業界発展に尽力された吉田敬太郎会長(若松市長)が、任期満了を機に退任され、後任の第4代会長には、徳山市長の黒神直久氏が選任された。
 黒神会長は、昭和36年5月まで、競走法改正前の多忙な2期2年を重任されたが、その間35年6月、事務局の機構を一部変更して専務理事制を採り、高橋事務局長が専務理事に就任、事務局長を兼務することとなった。
 また、昭和36年6月、府中市長小林茂一郎氏が第5代会長に就任され、黒神会長、小林会長の時代には売上もようやく上昇傾向を示すようになったが、一方では公営競技に対する風当たりがさらに強まり、その存廃問題が世の中に大きく取り上げられ、「公営競技調査会」の設置と「長沼答申」、そして法律改正へとその後の公営競技の方向が定まってゆく時代であった。
 
日本モーターボート選手会の設立法人化(昭和35年10月)
 
 「日本モーターボート選手会」(以下「選手会」という。)は、その前身として「全日本モーターボート選手会連合会」が昭和28年12月に結成され、鍋島弘氏(選手登録番号11番)が初代会長に就任、大阪に事務所を置いたが、31年4月に解散。32年1月に東京で再建され、法人化に向けて準備を進めた結果、35年10月、社団法人として認可、設立された。法人化後の初代会長には、三重県出身の選手登録第664番 山中弘氏が就任した。
 
選手会初代会長・山中弘氏
 
公営競技に対する批判と長沼答申(昭和36年7月)
 
 昭和34年6月、松戸競輪場において、選手の着順に対しファンが八百長だと騒ぎ出し、施設の破壊、選手への暴行、従事員の携行品の盗難等大きな紛争事件に発展した。
 新聞、ラジオ、テレビ等は、一斉にこの事件を報道し、これを契機に各地で公営競技の廃止運動が活発化した。
 この動きは国会で取り上げられるところとなり、政府は公営競技の存廃を審議するため、「公営競技調査会」(会長長沼弘毅氏)を設置することとなった。
 昭和36年2月に設置された同調査会は、その後、10回に及ぶ会合と4回にわたる公営競技の現地調査を実施し、競艇場の現地実態調査としては平和島競艇場を視察、平和島の関係者は、競艇事業の実態と大衆娯楽としての健全な発展について説明を行った。
 同年7月、同調査会は、公営競技に関する現行制度の基本的方策について、内閣総理大臣に答申を行った。これが、いわゆる「長沼答申」と呼ばれ、公営競技の存続を認めるものであり、その弊害をできる限り除去する方策を具体的に示し、その後の公営競技における運営の指針となった。
 
競走法の改正・時限法から恒久法へ(昭和37年4月)
 
 昭和37年4月、「長沼答申」の趣旨に沿い、健全化を図ることを主眼として競走法の改正が行われた。
 その主な内容は、従来の造船関係事業等の振興のための交付金制度に加えて、体育事業等公益の増進を目的とする事業の振興のための交付金制度を設けたこと、そして、これらの振興事業を行う団体として、日本船舶振興会に関する規定を設けたこと、競走の施行に関し、指定の必要がなくなった市町村がその指定を取り消すことが可能になったこと、施行者の収益の使途を明確にしたこと、勝舟投票法の種類を法定化(改正前は施行規則で規定)し、連勝複式を新たに規定化したこと等が挙げられるが、その他競走の公正および安全の確保と射幸心の過熱を避けるための法整備が行われた。
 さらに、この法改正によって、それまでの時限法が恒久法になり、法的基盤が確立されたことから、各地の競艇場では、本格的な施設整備が進められることとなり、折しも池田内閣による「所得倍増計画」が好況ムードをあおり、競艇事業は昭和30年代中盤から最初の成長期を迎えることとなる。
 
 昭和37年6月、全施協では、箕面市長若林義孝氏が全施協第6代会長に就任され、昭和39年5月まで2期2年務められたが、その間に、昭和37年9月、競走法の改正に伴う施行規則の改正が行われ、開催日取りの取り扱いや、20条交付金の問題等競走運営に直接かかわる内容であったことから、理事会、総会等で、運輸省担当官の説明を受け、改正前の対応および改正後に生じた問題等について、種々協議が重ねられた。
 
日本船舶振興会の発足(昭和37年10月)
 
 昭和32年の国庫納付金制度の廃止後、振興事業は、当初は連合会がこれを行っていたが、昭和34年8月に財団法人日本船舶工業振興会が設立され、その業務を引き継ぎ、さらに競走法の改正によって、37年10月、「財団法人日本船舶振興会」(以下「振興会」という。)が設立、認可され、法律に基づく振興事業を行うこととなった。初代会長には笹川良一氏が就任した。
 
日本船舶振興会会長に就任した頃の
笹川良一氏(昭和37年)
 
施設改善調査会の設置(昭和38年3月)
 
 この頃には、競艇が開始されてすでに10年を経過し、各競艇場とも施設が老朽化し、かつ不備な点も生じていたため、競走法が恒久化されるに及び、施設の改善が問題視されるようになった。
 そこで、運輸省の勧奨により同省、全施協、連合会、選手会それぞれの代表と、学識経験者等をもって構成する「施設改善調査会」を設置し、各場の実態調査と改善を促進することとなり、昭和38年3月から5月にかけて23場の調査を行い、必要な改善の勧告を行った。
 これが現在まで続くモーターボート競走連絡協議会施設改善専門委員会による現地調査の前身であるが、翌39年5月には同連絡協議会の設置要領が定められ、この要領に基づく活動が開始されることとなる。
 
体重別レースの実施
 
 全国初の試みとして、体重別レースが住之江競走場において開催された。軽量級レースは、昭和33年5月23日から26日までの3日間、重量級レースは5月29日から6月1日までの3日間開催された。体重別レースを実施するに至った経緯は、これまでのレースより接戦レースが多くなると考えたものであり、実際に接戦になるケースも多かったものの、軽量級の場合は事故も少ないが素直なレースが多く、レース自体にあまり面白味がない、重量級は勝率を上げるチャンスと闘志が先走り、フライングが多発するなど、メリットばかりとは限らなかった。







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