1997/12/10 読売新聞朝刊
[ビッグインタビュー]明石康・国連事務次長(中)個性豊かな調停者たち
◆平和に尽くした歴代事務総長
――国連事務総長は、いわば“国連の顔”だ。四十年間に直に接した歴代総長の横顔を語って欲しい。
「直接付き合った事務総長は、二代目でスウェーデン出身のダグ・ハマーショルド氏(在任五三―六一年)からだ。五四年、朝鮮戦争で中国側の捕虜となった米人飛行士の釈放交渉に成功したり、五六年のスエズ危機で国連緊急軍の事実上の創設者となった業績が示すように、外交調停手腕と情勢分析能力に優れ、さん然と輝く不世出の総長だ」
「他方、六〇年のコンゴ動乱は試練となり、彼はソ連(当時)と対立した上、アフリカ諸国の分裂に苦しんだ。しかし、積極果敢な紛争調停などを通じて国連事務総長の役割定義を後世に残してくれた。スウェーデンなまりの英語ながら、その弁舌は説得力に富み、話した言葉が、そのまま整然とした文章になるほど緻密(ちみつ)で頭脳明晰(めいせき)な人物だった」
――ハマーショルド氏が飛行機事故で亡くなった後に選出された三代目のウ・タント事務総長(六一―七一年)は先代に比べて地味な存在と受け取られているが。
「ハマーショルド氏を、理論家肌の欧州型外交官とすれば、ビルマ国連大使から事務総長に選出されたウ・タント氏は、敬けんな仏教徒で、論理一本やりというよりは、やや情緒的な側面を持つアジア的調停者だった。二人は対照的だ。華やかなハマーショルド時代の後、ウ・タント氏は地味で損な役割を引き受けながら黙々と職務にまい進し、“国際社会の良心”を体現した。人当たりは柔らかいが、ベトナム戦争をめぐる対米批判で、米国と対立した事実が示すようにしんの強い人でもあった」
――オーストリア外相から四代目事務総長(七一―八一年)に選出されたクルト・ワルトハイム氏は、また異なった意味で華やかな印象だが。
「エネルギッシュなやり手であり、冷戦構造の中で国連が軽視されないように懸命に説き続けた。ただ、世界中を精力的に動き回った割に大きな成果を上げられなかったのは残念だ。仕事に対する執念が人一倍強い人で、仕事の進み方が遅い時はかんしゃく玉を破裂させることもあった」
「ペルー出身の第五代ハビエル・ペレス・デクエヤル事務総長(八二―九一年)は、いぶし銀のような人だった。フランス語は得意だったが英語は雄弁とはいえない。だが、直観力に優れ、外交調停などに乗り出す時機を実に良く見極める人だった。フォークランド紛争(八二年)の際、加盟国から介入を盛んに要請される圧力に耐えながら時機を待ち、調停を始動させた」
――米国の圧力で再選を阻まれた六代目のブトロス・ブトロス・ガリ事務総長(九二―九七年)は、最も印象深いのではないか。
「母国エジプトの外務担当国務相としてキャンプデービッド合意(七八年)の立役者だったガリ氏が、一流の外交官として期待されたのに、最後は追われるように事務総長の座を去ったのは本当に残念だ。ガリ事務総長は自分なりのビジョン、アイデアで国際社会を引っ張ろうと試み、その限界を知らされる格好となってしまった」
――ガリ氏と米国のオルブライト前国連大使(現国務長官)との確執はよく知られていた。
「二人が政策面で対立したのは事実だが、この優れた二人の人物のケミストリー(相性)の問題も部分的にはあったように思えてならない。米国によるガリ事務総長再選阻止の背景には米国の内政事情もあったが、エジプトの上流階級出身で、フランス的知識人であるガリ氏の持つ雰囲気が、オルブライト女史にカチンと来た、というのも一要因になっていたのではないか」
「だが、対米関係では、実際には私の方がガリ氏よりも頑固だった側面もある。ボスニア紛争をめぐって、ガリ氏が米国の圧力で方針変更へ動こうとした時も、私はガリ氏を説得して思いとどまらせた。私が、ボスニアでの事務総長特別代表を務めていた九五年当時、オルブライト女史から『だれから給料をもらっているつもりなのか』などと批判されたが、私は特に気にもとめなかった。あくまでも国連平和維持活動(PKO)の王道を歩むだけだと心に決めていたからだ」
(聞き手 ニューヨーク支局 水島 敏夫、古本 朗)
◇明石康(あかし やすし)
1931年生まれ。
東京大学教養学部卒業。バージニア大学大学院修了。
日本国連代表部大使、国連事務次長、国連カンボジア暫定統治機構代表、事務総長特別顧問などを歴任。現在、東洋英和女学院客員教授。
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