1993/10/25 読売新聞朝刊
[地球を読む]常任理入り 国連は改革の時
中曽根康弘(寄稿)
◆国民的論議の喚起必要
◆揺れる首相答弁
細川総理は九月二十七日の国連総会演説で、「改革された国連においてなしうる限りの責任を果たす用意がある」と述べた。また、十月五日の衆議院予算委員会では、「自然体でいく」と答弁した。しかし、十月七日の参議院予算委員会の答弁では、「国連改革がなくても推されれば国連安保理常任理事国として参加する」趣旨を述べた。このように国家の運命を決める基本方針について揺れることは、一国の総理として主体性を欠き、甚だ心もとなく日本を漂流させている。
冷戦が終わって世界情勢は激変した。米ソの覇権的立場は消え、国民世論や財政的理由から、世界は各地域または多国間に張りめぐらされた安全保障、政治、経済等の多元的重層的な組み合わせによる機能的な統合力で動かされるに至り、その頂点に位置するものが国連である。一九九五年の国連創立五十周年を目前にして、かくて国連の改革論が国際世論の主流となってきた。イデオロギーや膨大な軍事力から解放され、協調的な新たな国際秩序を求め、また、深刻になった地球上の南北格差や民族、宗教等を原因とする地域紛争や、非軍事的脅威と言われている環境、貧困、難民、人口等の地球的規模の問題が新しく隆起し、国連の改組が課題となった。言い換えれば、国連存在の正統性とその在り方について新たな検討が必要となってきたのである。
日本の世界政策に対する消極性には常に日本が大国主義や膨張主義の路線にいくのではないかとか、国民世論が未成熟であるからとかを根拠にして、日本がまた悪いことをする危険があるとの被虐的思想や積極的理念を欠いた傍観者的自己弁護が隠見する。それは日本の憲法に書かれている「国際社会で名誉ある地位を占めたいと思う」という言葉に背反する姿勢である。
◆拒否権と軍事委
国連創立五十周年を前にして、この夏、六十九か国が国連に改革の「意見書」を提出したが、大多数の国が以上の理由から「国連改組は必要である」と述べていることは一つの歴史の流れであり、この流れを止めることはできない。そのような流れの中で、安全保障理事会の常任理事国が「核兵器を保有する五大国」のみであるという事実に対する反発も強い。アジアを含む世界の国々の中で、日本やドイツがその経済力に見合った役割を政治面でも果たすことになぜちゅうちょするのか理解できないとする国もある。
国連には今、その常任理事国の構成の正統性、その構成バランスの公正性、国連の機能の十全性、財政的危機等について、大きな検討課題が提供されているのである。事実、日本やドイツの国連通常分担率は米国の二五・〇〇%に次いで、日本は第二位、一二・四五%、ドイツは第三位、八・九三%なのである。
国民の税金でこのように多額の金銭的負担をする国が政治的活動に引っ込み思案なことは、国際社会においては奇異なこととして受け取られている。
この関連で、「常任理事国には軍事的な貢献が伴うので、日本国憲法上、日本が常任理事国になる資格があるのか」という意見がある。日本国内の慎重論もこの点を考慮しての議論であろう。確かにこの点は重大問題である。
この問題については法律的な側面と政治的な側面を共に考える必要がある。まず、法律的な側面については、国連憲章の中で常任理事国とその他の加盟国の間でその地位に差が現れるのは拒否権と軍事参謀委員会への参加という二点に尽きる。
よく言われている国連軍への参加については憲章第四三条が定めているが、「すべての国際連合加盟国は、安全保障理事会の要請に基づき、かつ一または二以上の特別協定に従って」「必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する」こととされており、すべての国に対する規定で常任理事国とその他の加盟国との間で特段の区別はない。
また、いわゆる多国籍軍は国連自体の行動ではないし、また平和維持活動(PKO)は国連憲章が当初から想定していたものではないある種の便法であり、国連憲章上の根拠はない。従って、「常任理事国になれば、国連軍への参加や平和維持隊への参加といった形で軍事行動に関与せざるを得なくなる」とする説は法律的には正しくない。
◆「先送り」政治の怠慢 軍事制裁の問題
すべてはその時の新たな国民意思の決定によって国連協力の問題は決められるのである。
軍事参謀委員会の任務は安全保障理事会に対する諮問的役割を主とし、問題点は「国連軍の戦略的指導」の意味いかんであるが、その内容は国連憲章では別に規定がない。ただ、憲章第四七条三項は、「この兵力の指揮(コマンド)に関する問題は、後に解決する」として、将来解決されることで、別に決められていることではない。以上の議論は第二次大戦がまだ終結していなかった時点で起草された現在の国連憲章を前提とした学問的な整理である。
他方、常任理事国の政治的道義的責任や役割という問題は残る。
ガリ国連事務総長が昨年発表した「平和への課題」によれば、国連の平和機能の重点は、〈1〉紛争の未然防止〈2〉紛争の平和的解決のための努力〈3〉平和維持活動〈4〉国家の基盤強化と信頼醸成〈5〉貧困、社会的不正、政治的抑圧といった問題への取り組み――の五点であるとされる。この点に関しては日本は既に多くの点でそのような責任を果たしているか、または果たしうると言うことができる。日本は国連に対し、世界第二の財政的貢献を行っているし、政府開発援助では量的に世界の一、二の最高水準に達している。最近のPKOに対する貢献、中東和平に対する援助はもとより、通常兵器の移転登録制度は日本のアイデアである。
問題は平和の破壊行為があった時の究極的手段としての「軍事的制裁措置」への参加である。このような活動への日本の参加については、「現在の日本国憲法の許す範囲内にとどめることとし、国外に初めから武力行使を目的とする自衛隊の派遣はできない」との主張を厳守することは可能である。諸外国も日本の現憲法の範囲内での貢献で常任理事国への参加は十分資格があると認める国が多い。
将来の事態に応じて憲法との調整をいかにするかの問題は、別に憲法問題調査会を作って国民の間で将来の課題として大いに議論すべきであろう。むしろ日本が常任理事国になった場合、果たすべき役割は世界の抱えている多くの問題に、日本独特の観点から常に目を光らせ、そのような問題の解決に積極的に知恵を出していくところに値打ちがある。
国連憲章及びその精神は当分、世界政治の重要な一つの「価値の中心柱」である。しかし、今日の多元的世界においては各文明の歴史の知恵の発掘による補助柱を必要としている。一つの考え方で世界を取り仕切ることはできない。世界が直面する対象は予測不能な千変万化であるから、これに対する主体も全方位の極めて弾力性のあるものでなければならない。時によっては聖戦論のような正義の平和も必要である。しかし、時によっては民族や宗教の問題など妥協と寛容による「矛盾の共存」、時間的経過を待つ解決が必要にもなる。日本人の持っている柔軟な発想はその発言の地位を得れば、かなり平和の確立や回復に貢献できると思う。
◆平和的役割の拡大
そのような場面は日本には従来十分には与えられてこなかった。私は一九八三年にウィリアムズバーグ・サミットで、「アジアと欧州の安全が不可分である」と主張し、日本は従来とどまっていた経済的枠組みから平和のための政治的枠組みに前進することを明らかにしたが、日本が常任理事国になれば、平和的役割を、独自に更に大きく果たすことができるのである。
この問題について、「国民的合意がない」との意見をよく聞く。私が気になるのは、その言葉が国内向け発想で、時間を稼ぐ口実に使っているのではないかとも思われる点である。今の日本のように平和のための国民合意が確立し、言論・出版の自由が認められている限り、日本が大国主義や覇権主義に赴く可能性はないと断言できる。
最近のある世論調査によれば、日本が常任理事国になることについて、四七%が「賛成」、一一%が「反対」、三八%が「わからない」と答えている。国民の多数は常任理事国入りを望んでいるように思われるが、他方、「わからない」とする三八%は更なる国民的議論の必要性を示している。
ここで大事なことは、政府が確信をもって常任理事国になる希望の理由と意味を正しく伝え、その是非を問いかけ、国民的大議論を引き起こすことである。最も怯懦(きょうだ)なことは、「国民的合意がない」と言って、問題を先送りすることである。
二十一世紀における日本の国際的地位と、その責任を果たさねばならない時代的環境を予見すべきである。再び言おう。日和見主義は日本の取る道ではない。「理想なき国家は軽べつされ、やがて滅ぶ」のである。
◇中曽根康弘(なかそね やすひろ)
1918年生まれ。 東京大学法学部卒業。 元衆議院議員、元首相・自民党総裁。
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