2003/10/02 産経新聞朝刊
【国連再考】(29)第3部(9)UNHCR 人道的活動の裏に腐敗の温床
数え切れないほどある国連の下部機関、関連機関でも国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は一般の共鳴を最も強く得る存在だろう。戦争や迫害、飢餓で母国を追われた恵まれぬ人たちを救うという人道的な活動は、幅広く感謝もされてきた。
とくに日本では緒方貞子氏がトップの難民高等弁務官を二〇〇〇年末まで十年も務め、内外の高い評価を得てきただけに、この国連機関への敬意や親しみは深いといえる。過去の二回のノーベル平和賞受賞もこの機関をさらにヒューマニズムに光り輝く救世主のようにみせてきた。
だが残念なことにこの難民高等弁務官事務所も、その歴史をたどると、他の国連機関同様に不正や無責任による醜聞が目立つのである。
同事務所は一九五一年に国連総会の議決により発足した。最初は五年間だけの活動としたが、難民問題はいっこうなくならず、延長につぐ延長で組織も拡大した。いまでは本部をジュネーブにおき、世界百二十カ国合計二百七十七カ所に現地事務所を開いて、五千二百人の職員を抱える。これだけ寿命が長く、規模が大きくなると、必ず深刻なトラブルが起きるのが国連機関の宿命のようだ。
難民高等弁務官事務所は二〇〇二年にはナイロビで職員が難民の移住の便宜と引き換えに賄賂(わいろ)を受け取っていた事件や、アフリカ西部三カ国で職員が難民女性への食料支援と引き換えにセックスを求めていた事件を自ら公表した。だがもっと深刻なのは、積年のトップの腐敗だった。
まず一九七八年から高等弁務官となったデンマークのポウル・ハルトリング氏は自国の友人の旅行業者を登用して、同事務所の弁務官関連の旅行すべてを管理させ、次に調達部門の責任者とした。旅行や調達の奇妙な取り引きが続出し、やがてこの友人はジュネーブ本部事務所に出勤しなくても仕事をすべてこなせると宣言するようになった。
ハルトリング氏のデンマークの他の友人はやはり同事務所の高官に抜擢(ばつてき)されたが、難民の教育基金関連の書類を偽造して、資金を不正に得たと非難され、辞任した。ハルトリング弁務官による自国の友人、知人の大量導入は同事務所では「デンマーク・マフィア」と称されるようになった。
八六年に高等弁務官となったスイスのジャン・ピエール・オッケ氏も公金の使途に疑問があるとして追及を受けた。八九年に難民の教育基金のうち三十万ドル以上を不正に流用し、自分と夫人のファーストクラス便での観光旅行やその他の娯楽に使ったと非難された。非難したのはデンマーク政府や国連の高官たちだったから事態は重大だった。オッケ弁務官はこの非難のために八九年には辞任に追い込まれた。
この種の不正は個人の特殊な行動パターンだけではなく、組織全体の特異体質を反映していた。縁故人事や不正会計がふつうに起き、しかもほとんどの場合、厳しく処罰されることがないため、腐敗の土壌は変わらないという体質だった。この体質は難民高等弁務官事務所で十七年間も不正に不正を重ねながら懲罰されることのなかった一職員の軌跡が明示している。
ザイール人のシンガベル・ルキカ氏は一九七四年に同事務所のジュネーブ本部に採用され、八〇年代はじめにはアフリカ女性の売春組織を運営する伝説的な人物という定評となった。八三年にウガンダ現地事務所の責任者となったが、難民用の食糧や器材の横流しの疑いが浮かんだ。
ジュネーブ本部は八六年に特別調査を始め、ルキカ氏が食糧四十万ドル、小麦二十四万ドルなど百万ドル近く相当の難民用物資を不正に流用していた、と中間発表した。
だが当時のオッケ弁務官は「アフリカ・マフィア」からの圧力でルキカ氏を守り、特別調査を打ち切った。ルキカ氏はなんの罰もうけず、八九年にはアフリカ東部のジブチの現地事務所の代表となった。ここでも難民用の物資や器材が大量に行方不明になり始める。
九一年はじめにはジュネーブ本部から送られた会計監査官がジブチでのルキカ氏の管理下で合計百万ドルもの不正を裏づけたが、同氏に対してとられたのは結局、単に辞任させるという措置だった。ルキカ氏はなんの懲罰も受けず、九一年十月に難民高等弁務官事務所を辞めてカナダのオタワに住み、長年の蓄財と国連のたっぷりした年金で“引退”生活を享受するようになったという。
(ワシントン 古森義久)
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