1990/11/07 読売新聞朝刊
天皇陛下即位の礼特集 とけあう皇室と現代 三浦朱門氏と木村尚三郎氏の対談
天皇陛下が即位後朝見の儀で平易な言葉で「憲法を守る」と述べられてから一年十か月、その新しいスタイルが、多くの国民に新鮮さと親しみやすさを感じさせている。即位の儀式を前に、歴史・文化の中の天皇を振り返りつつ、昭和天皇との違いや国際化時代における皇室への期待、注文などについて、作家三浦朱門、東大名誉教授木村尚三郎両氏に話し合ってもらった。
(司会は後藤文生編集局次長・文化部長)
◆国民の親近感一段と
〈変化〉
−−新しい陛下は、新任の大使が伺うと、単にあいさつされるだけでなく別室で必ず懇談をなさるとか、国民に近いレベルでお話をされるイメージがある。新しい陛下になって、印象的にどういうところが変わったか、そのあたりからお話し願いたい。
三浦 天皇について、かつて「上御一人」という言葉があった。普通の人間とは別の、特別な人間だったわけだ。普通の人間の上にいたから、「対話」というのはあり得なかった。昭和天皇の場合、園遊会でも一言質問され、相手がお答えする。それで多くの場合、会話が途切れてしまう。その点、今の陛下は子供の時から、他の人たちと一緒に学校生活を送り、小学校上級の時に敗戦を迎えられている。そういう中で、人間として他の人たちと会話するという、社交的な場というものをつくられてきたと思う。
◆喜び、悲しみ分かち合う
木村 わが家にも昔、神棚の近くに、御真影が飾られてあった。明治天皇、大正天皇、昭和天皇の写真があり、拝む対象だった。学校へ行っても奉安殿というのがあって、そこにも御真影が飾られ、学校行事の時は必ず頭を下げていた。終戦後、神棚の写真ではなくて実は人間だったと宣言されたのが昭和天皇だった。今の陛下は、御真影というような存在からは全く切り離された新しい天皇で、その意味では、明治以降の天皇制という私たちに重くのしかかっていた枠がとれて、国民と血肉を分かち合っている存在になった。病院へ視察においでになる時も、ひざを折って患者の頭と同じレベルで話をされる。私たちの喜び、悲しみ、悩みをともに分かち合う存在になられたと言っていい。
三浦 家庭のつくられ方にしても、昭和天皇が側近に囲まれ、孤独な状態で育てられたのに比べると、今の陛下は戦争に負けるまでは非人間的な状態で育ったが、戦後は人間関係もでき、国民である一人の女性と結婚された。我々の考える生活と非常に似た形の夫婦生活、親子関係、家庭生活をつくられている。
−−昨年一月の即位後朝見の儀では憲法を守るというおことばもありました。
木村 明治天皇であれ、昭和天皇であれ、自身の気持ちと国家のありようについて言えば、国家の側の要請の方が強かったのが事実と思う。戦後の昭和天皇、現在の陛下はそういった国家的要請というものをはずされ、国民とともにある、国の憲法とともにあるということだと思います。
三浦 明治憲法は複雑で、立憲君主制みたいな文言があるかと思うと、絶対君主制みたいなのもある。服装にしても、明治天皇から軍服を召された。その軍服とは無縁で、神聖な存在ではなく、国家の憲法の中に規定されている天皇、憲法の外側でも、憲法に優越する存在でもなく、憲法の中にあるという意味で一般国民と同じなんだ。それが、朝見の儀での「憲法を守り」ということなのではないかと私は理解している。
−−今の陛下のお考えには当然のことながら、時代や環境というものが影響していると思いますが。
◆平和国家準備した昭和天皇
三浦 陛下は、小さい時から戦争の中で育たれた。明治憲法では、皇太子は満十歳で陸海軍の少尉になる。陛下が満十歳になられたのは昭和十八年、ちょうど戦争が不利になっていったころ。幼い皇太子が少尉になって、形の上だけでも前線に行かれれば、戦意高揚に役立つと思われたのに、そういうことをしなかった。明治、大正、昭和の天皇と違い、今の陛下は一度も軍服を着ておられない。それは、だれかが今日を見通して、平和国家日本の天皇になられる準備をしていたような気がしてならない。私は、それが昭和天皇ではないかという気がする。
木村 陛下が皇太子時代に沖縄に行った時、火炎瓶か何かを投げつけられても、じっと耐えておられたという。私たちの怒りとか、苦しみとか、そういったものを一身に背負っておられるところが親近感を与える理由だと思う。国民と一体になっている感じが強い。
三浦 学習院大学の学生だったころ(昭和二十八年)、エリザベス二世の戴冠式に昭和天皇の御名代として出席された。当時、イギリスの対日感情は悪く、戴冠式の序列も低かったという。帰って来ると、こんどは出席が足りないから卒業させないと大学の先生が言う。そういう内外の“いじめ”にあわれた。それにも、じっと耐えられた。天皇になるべくして生まれた、その重荷を背負っていらっしゃるという気がする。
〈歴史〉
−−ここで視点を変えて、歴史的な観点からお話を。
◆時代の波受けた時も
木村 明治になって、天皇を「エンペラー」と訳したが、これは「インペラトール」というラテン語から来ている。並ぶ者のない、専断的な権力を持つ存在という意味で、少なくとも中世以降、こんな天皇は明治までいなかった。古代には、大和朝廷は稲作技術を持つ先進的な文明の掌握者で、人々を心服させたということがあった。だが、封建社会になってからは、ある意味での宗教的な存在で、武士が力を持ち、将軍が政治権力を握っていた。
「すべらぎ」とか「すめらぎ」という言葉があるが、これはもともと「統ぶ(すぶ)」という言葉から来ているといわれる。天皇とは「統べる人」ということだが、「統ぶ」というのは「すぼめる」という意味だと「大言海」には書いてある。要するに、人々の気持ちをすぼめて一つにしていく人、それが「すべらぎ」「すめらぎ」だという。「エンペラー」と規定される天皇ではない。ヨーロッパでいうと、法王と大変似ている。
◆日本の「普遍性」象徴
三浦 国家は穀物が確保されたときに成立するんです。大和朝廷と穀物が結びつき、日本的な文明圏が初めて成立する。その過程で、今の天皇家が、それ以前から存在していた宗教、というよりもっと漠然とした自然観、価値観と結びつき象徴的存在になったのは確かだと思う。それが木村さんのいう「統ぶる人」につながる。しかし、歴史時代に入ると、天皇家が軍隊を率いて、日本各地を征伐して回る状況はもはやなくなった。武の方面では何もない存在になった。一方、ヨーロッパをみると、君主はもともと武人、軍人で征服者だった。その子孫たちも、領土を保つために軍服を着て、敵と戦っている。明治に入り、日本の国家権力を代表し、よその君主にひけをとらないために、天皇が軍服を召されるようになるわけです。明治天皇は、武装した神聖君主という感じが非常に強い。
木村 明治以前は、大体、一般の人々に知られるところはほとんどなかったと思う。名前ぐらいは聞いていたかもしれないが、将軍とか地方の大名とかの方がはるかに重量感があった。明治になって、近代国民国家をまとめるために、啓蒙(けいもう)君主制がどうしても必要となった。そうすると、国民の前に天皇が顔を出さなくてはいかんということで、軍馬にまたがる姿を見せることになる。そういう国家的要請があったと思う。
−−明治、大正、昭和の三代に限るとどうか。
三浦 この三代は、日本の歴史の中でちょっと異常な時代だったと言えるのではないか。まず、幕末から明治にかけて近代化の波が押し寄せた。今までの日本ではダメだというのでヨーロッパ風、ヨーロッパ風と一生懸命やる。もう完全にマスターしたから、自前でやっていくと言って失敗したのが第二次大戦だ。戦後も、ヨーロッパだ、アメリカだ、社会主義だと言ってきたが、どこもあまり成功していない。最近では、しょせん日本は日本で、今までダメだダメだと言って恥ずかしがっていたものの中に、日本のオリジナリティー、あるいは日本が洗練することによって普遍的なものになりうるものが隠されているということが、ぼんやり考えられてきた。私は、そこに日本の皇室の新しさというものを発見し得るような気がする。
◆為政者たちが虚像をつくる
木村 戦前までは、日本全体が欧米に対して必死だったという点がある。うっかりしたら欧米列強の植民地になってしまう。そこで明治の初めに天皇を神格化し、同時に統帥権を持った存在としてつくり出したと言っていい。明治、大正、昭和の天皇は、実像とは関係なく、当時の為政者たちによってつくられたと言えるように思う。いわゆる天皇制というのは、伝統的な天皇のあり方に横やりが入ったようなもので、天皇自身が国のために利用されたという面が強かった。
ただ、明治天皇の場合は、開明的な、日本の近代化のために果たした役割は大きかったと思うが、欧米が国家の一致協力体制を強めていく中で、日本では軍部の力がだんだん大きくなった。日本が世界の新しい秩序の再編成に乗り遅れてしまうという恐怖感もあった。天皇も、開明的存在から利用される存在へと、だんだん変わらざるを得なかったのだと思う。戦後になって、これが一転したわけだ。
◆終戦時の危機救う
三浦 昭和二十年に日本が戦争に負けて、アメリカが進駐してくる。それとよく似た状況が徳川時代の終わりにあった。英国の艦隊が鹿児島を焼き払う。四か国の連合艦隊が下関に上陸する。あの時、例えば幕府がなくなって皇室もない状態だったら、どこまで行ったか分からない。ひょっとしたら分裂していたかもしれない。その時、拡散しようとする日本にとってひとつの歯止めになったのが、天皇という存在だった。いわば防波堤、ダムです。そのダムを承認することによって、そこに日本のエネルギーがたまって、明治以降、ダムの水を使っていく歴史がつくられる。
−−終戦時の状況もそれに似ている、と。
三浦 そう。あの時、日本の皇室がなくなったら、本当にどこまで行ったか分からない。志賀直哉なんていう文壇の大家までが、日本語をやめて、いっそフランス語にしたらいいじゃないか、と言った時代だった。そうした日本人の漠然とした不安感の中で、昭和天皇が一貫して、名前だけにせよ、天皇という名前であり続けた。だから、日本は変わるかもしれないけれど、それには歯止めがあるんだと。これはやはり、ひとつの「ダム」だったと思う。
戦後、メーデー事件(昭和二十七年)が起きて、デモの人たちがわあっと二重橋の方に押し寄せてきて、一度は車止めを押し倒したが、それをまた引き起こして、引き揚げていった。これを見て彼らが皇居を占拠しようなんて気は全然ないと思った、という話を皇居の裏側にいた警官から聞いたことがある。
皇室制度というのは、日本が伝統とかアイデンティティーを失うか失わないかの瀬戸際にあって、二度にわたって歯止めになってきた。それによって守られたものがいいかどうか、それはまた別問題だが、とにかく、多くの国民がその歯止めを認め、受け入れて、それ以後の難局の処理に当たってきたということは確かだと思う。
〈文化〉
◆生活感覚分け合う
−−日本文化を考える場合、天皇が果たした役割はどうでしょう。
三浦 文化には、学問とか芸術といった上部構造とは別に、生活文化というのがある。朝飯に何を食うかとか、顔を洗うか、ふろに入るかといった、人間の生活感覚に根ざす価値観。それが、どこの社会でも文化の下層にあって、レベルになる。それを土台に、上部構造としての文化が出てくる。天皇の果たす役割は、下部構造としての生活の保障みたいなものじゃないかと思う。だから、もし明治天皇が米を食べずにパンだけをあがり、日本語を話さないでフランス語ばかり話されるとかしたら、日本人は違和感を持ったはずだ。作家、石坂洋次郎のエッセーに、子供のころ駐在のおまわりさんが、身欠きニシンをうまそうに食っていて、「おそれ多いことだが、陛下でもこんなうまいものは食っておられんだろう」と言ったという話がある。国民が、陛下も自分も同じ物を食べている−−同じ生活のフィーリングを分け合っているという感覚。これが割と大事なんじゃないか。
◆知的な息吹伝える
木村 皇室の生活は大変質素で、そういう意味ではわれわれの生活文化と基本的に変わることはない。けれども、その一方で、なぜ京都が、現在でも自分の言葉を保持し、東京に対して文化的誇りを持っているかといえば、やはりそこに天皇がおいでになって、殿上人(てんじょうびと)の生活が日本文化の代表としての意味を持ち続けてきたからだと言えると思う。
ヨーロッパのエスプリとかスピリットとかいう言葉は、もともと吐く息のことで、カトリックでいう精霊も、要するに神様の息を指している。息だから実体はないが、そこには軽やかだが知的なものがある。日本では、その時代に求められる最高の知恵のようなものが、このエスプリみたいな存在として、天皇家とか京都といった所に保持されたと言えるのではないか。古気候学といって、古い時代の気候を再現する学問があって、日本も協力しているが、その資料になるのは、京都の殿上人が毎年記した桜の開花記録だ。花をめでる美意識も京都で伝えられてきた。
三浦 自然とかかわっているんですね。それから「万葉集」の面白さというのは、天皇の歌もあれば、名前が分からなくて方言が混じっているような防人(さきもり)の歌もあって、それが全部、別に序列も何もつけずに入れてある。これは、歌を詠むという意味では全部平等だということ。宮廷の命令によって編さんされるんだけれども、文学としては平等なわけで、それは、形は変わっても今の新年の歌会なんかに、かなり濃厚に残っている。その意味で、皇室が文化の保護者というか保証者というか、裏書きする存在だということは、やはり歴史的に言えるような気がする。
〈関心〉
−−昨年末、読売新聞が行った世論調査の結果を見ると、天皇、皇室への関心度がそれほど低くなっていない。国民はどこに関心を持っているのだろうか。
三浦 昭和天皇は、ちょっと恐ろしいところがあった。私自身、元二等兵で、トップとどんじりだから恐ろしい。だが、今の天皇ご一家は、日本の抽象的な意味での理想的な家庭、理想的な暮らしをされ、それがいろいろな意味でひとつのスタンダードになっているのではないか。日本中が今、右往左往している時に、日本人の家庭としての、生活のあり方としての原点を、我々はひとつの基準として見ているのではないかという気がする。
◆変わらぬ「国の顔」
木村 要するに、日本の「顔」なんですね。首相はクルクル変わるが、ご一家は変わらない。外国の人が日本の顔として思い浮かべるのは、陛下とか、ご一家ではないかと思う。不透明な世の中で、どちらの方向に歩めばいいか分からない。その時に、天皇ご一家は人間的な愛情で結ばれ、スポーツもし、音楽の演奏もされる、学問もなさる。私たちも、ああなれたらいいな、と思う。私たちが親しめる、一体感を持って接することができるご一家、そこが昭和天皇の時との大きな違いであり、私たちの希望ではないかと思う。
〈国際化〉
−−皇室外交という言葉があるが、国際化社会の中で、どんな役割を期待されますか。
木村 一九七〇年代半ばの第一次オイルショック後、世界的にあすの時代がよく見えなくなって、新しい世界秩序の再編成が、今の中東紛争のようなきしみを伴いながら進行している。そうした中で、何よりも大切なのは、海外に人間関係の信頼があるかないかということ。人脈のあるなしがこれから政治、経済の面で非常に大事になってきている。この点、陛下は、バイニング夫人から始まって、外国に豊かな人脈を持っておられる。国際的にお互いに結び合おうとされる精神とともに日本にとってひとつの救いだと思う。
◆外国人への最高のもてなし
三浦 変ないい方だが、パリのルーブル美術館へ行くと、だれもがミロのビーナスとかモナリザを見たがる。それを見ないとルーブルへ行ったような気がしないという。そういう意味で、外国の要人たちは天皇に会うと非常に喜ぶ。これぞ、日本だというふうにね。それは崇敬の念などからではなく、やはり日本の象徴としてだと思う。だから、政治的に利用することはよろしくないが、吉野の桜や京都の紅葉と同じく、天皇陛下に会ってもらうことも外国人に対する最高のもてなしのひとつだと思う。
木村 日本は世界で最先端の産業技術の国だが、その底には意外と古い、伝統的な生き方が依然としてある。そのことを外国人に実感させるのはやはり天皇なのでしょう。東京には神社やお寺があったりして、外国人は非常に新しくて、古いと感じる。その伝統と現代の調和が日本を大きく発展させた秘密かと考えたりする。天皇の存在は、欧米流になかなか定義できないが、古来ずっと続いている日本文化の核のようなものではないか。
〈期待〉
◆みんなで支えて
−−最後に、皇室と周辺の役所や側近に、期待や注文があれば。
木村 以前、成人の日の「青年の主張」の審査委員長をしていた。スピーチが終わり、選手と控室で待っていると、皇太子時代の陛下がご夫妻で入ってこられた。そうすると、僕らは緊張してかしこまって立っているわけだが、若い人は、一斉に「こんにちは」と言った。一瞬、陛下もちょっとたじろがれたが、すぐ「こんにちは」と返され、非常にアットホームな雰囲気になった。若い人たちには、もっとフランクにという気持ちがあると思うんだが、そこに厚い壁ができていて、なかなかできない。無制限に壁を取っ払えとは言わないが、もうちょっとお互い個人的に付き合える雰囲気が欲しい。
もうひとつ、皇室はいろんな民間からの進物を断っている。宣伝に利用されるのは困るのだろうが、将来は、経済的に皇室を守り育てていく方法を考えてもいいのではないか。
私は先日、スペインのバルセロナから帰国したが、あそこにはガウディのサグラダファミリアという大きな教会があり、完成まであと二百年ぐらいかかると言われている。(建設の)お金は、一般からの寄付で、日本人を含め世界中の人が教会をつくるために働いている。ああいう姿は、これからの日本の皇室の場合にも非常にいいんじゃないか。単に伝統を引きずっているだけではなく、みんなが支える雰囲気の中で、皇室もまた成長していただきたい。
◆国民とも握手を
三浦 陛下は特別な方で、特別と普通の間に、ある程度パッキングがいるというのはわかるが、あんまりパッキングが厚いと、特別な人がはるかかなたな存在になってしまう。パッキングの構造について、もう少し考えた方がいい。
私がシンガポールに行った時、ジュロンというところの造船所の工員が、オレは日本のプリンセスと握手したんだと非常に誇りにしていた。とても美しい人だったと。だけど、泥だらけの手の人が天皇、皇后と握手できるのは外国でだけだ。日本の天皇なのに、外国人はできて、日本国民はなぜできないのかという感じはありますね。
−−長時間、ありがとうございました。
◇三浦 朱門(みうら しゅもん)
1926年生まれ。 東京大学卒業。 小説家、元文化庁長官。
◇木村尚三郎(きむら しょうさぶろう)
1930年生まれ。 東京大学文学部卒業。 東京大学教授を経て、現在、静岡文化芸術大学学長、国土緑化推進機構理事長、東京大学名誉教授。
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