「宝島30」八月号の大内糺「皇室の危機」を皮切りに、マスメディアの皇室批判が相次いだが、小子は皇室内の民主化に尽力されてきた美智子皇后がお気の毒に思えてならない。今回の皇室批判の内実が旧来の「男尊女卑」の考えに根ざしたものであり、批判の矢が「人間」天皇と皇后の現代的な夫婦関係、家族関係に向けられていること、家父長制的な天皇制の復権、戦争中のような天皇の神格化を心情的に求めようとしている点にあるのは問題だと思うのだ。大内の「人間を超越した真の天皇像を求めていただきたい」「天皇の尊厳とマイホーム式の優しさは相いれない」「皇室の権威は失墜し、低下している」等々といった発言は時代錯誤も甚だしい。
「天皇、皇后両陛下がパーティーでダンスを踊り、軽やかなステップを披露された。欧米ならともかく、日本では質実さが貴ばれている」「皇后陛下がショートスカートの裾をなびかせてラケットを振られるお姿」「今の陛下の行幸はフルムーン旅行」「皇后陛下が『ダメ』とおっしゃれば、それですべてが覆されてしまう」「皇后陛下のお力が増大してしまった」「家族を重視した考え、徹底したマイホーム主義の路線」といった大内の皇室批判は、時代の必然により変わりゆく皇室のあり方についていけない旧勢力の嘆きにすぎないともとれるのだが、マスコミがなぜ、そのお先棒をかつぐ必要があるのか。皇室の民主化こそ国民の願いといったことは、戦後の象徴天皇制下のマスコミの決まり文句であった筈なのに、である。逆に「なぜ、今の陛下では嫌なのか。ひとことで言えば、権威に乏しいのである」といった発言を「宮内庁勤務」をなのる人物がマスコミで出来るまでに「民主化」されたということなのかもしれないが、だとするなら皇室の権威の失墜を嘆く大内自身が「権威の失墜」促進に荷担してしまったこと自体「パロディー」だという気がする。
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