2001/09/12 読売新聞朝刊
国家神道とは何だったのか−「靖国」から考える 思想統制の道具(解説)
戦後、痕跡消える
国家神道とは何だったのか。出口の見えない靖国神社問題で検証してみるべきだろう。
(解説部・笹森春樹)
小泉首相は、終戦日の靖国参拝を明言しながら、中韓両国の反発に配慮して八月十三日に前倒しして参拝した。各種の世論調査によると、首相の判断はおおむね支持されている。だが、今後も折に触れ問題は表面化するのは間違いない。解決の糸口として、戦前の国家神道体制がどのようなものだったか、今なおその残滓(ざんし)があるのか考えてみる視点があっていい。
国家神道は、天皇制を神社神道の中核に置いた制度だった。天皇の皇祖神とされる天照大神をまつる伊勢神宮を頂点に、全国の神社が序列化された。神社は、国や地方庁の管理下に置かれ、祭祀(さいし)費用や人件費は国など公の助成を受けて保護された。
国家神道が確立したのは、明治十年代後半のことだ。明治政府のごく初期の政策は、古代天皇制にならった神祇官(じんぎかん)の復活や神仏習合の風習を破る神仏判然令など、神道国教化の動きが読み取れる。だが、神道国教化には仏教勢力の抵抗があり、キリスト教国の西欧列強が見過ごさない。その中で出てきたのが「神社非宗教」説だ。
「明治政府は宗教を行政のコントロールに置くのはまずいと気づいたが、完全に政教分離するのも危険と考えた。そこで考えだされたのが神社非宗教説であり、それは天皇制と神社制度を守るための論理だった」と井上順孝・国学院大教授(宗教社会学)は言う。この論理は、明治憲法に反映され、「安寧秩序」を妨げず「臣民ノ義務」に背かない限り「信教ノ自由」は保障された。
国家神道が問題となるのは、昭和に入り極端な国家主義と結びつき、思想統制の道具になったからにほかならない。一部宗教団体への弾圧も行われた。
分岐点になったのが一九三五年(昭和十年)の美濃部達吉博士の天皇機関説事件だろう。天皇を立憲君主と見る天皇機関説は、多数派学説だったが、国家主義団体や在郷軍人会が最大勢力の政党だった政友会と連携して機関説排撃運動を引き起こし、その圧力に屈した政府が国体明徴声明を出し、機関説を公式に否定してしまう。この後、神がかり的な国体論が軍国思想と混然一体となって終戦まで国中を覆うようになる。靖国神社はその象徴的存在と言えた。
国家神道は終戦直後、GHQ(連合国軍総司令部)によって廃止された。神社は、ほかの宗教団体と同じ宗教法人になった。国家神道への反省から、国家と宗教を分離した政教分離の規定も戦後憲法に設けられた。
河原宏・早大名誉教授(日本政治思想史)は「国家神道は、唯一神の天皇を奉じるシステムとして作り上げたもので、自然や先祖を敬う日本の宗教風土ではもともと異例だった。だから、敗戦で廃止されると日本人の心の中に痕跡をとどめなくなった。もはや国家神道も軍国主義も存在しない」と見る。その上で「靖国問題は外交問題であり、中国などへのアフターケアが必要だ」と言う。
軍国主義を否定して始まった戦後日本の民主主義に自信を持っていい。反面、靖国問題が教科書問題とともに中韓両国によって「歴史カード」に使われるのは対外政策の未熟さの表れでもあるのだろう。
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