日本財団 図書館


1998/03/03 読売新聞朝刊
「天皇」記載の木簡出土 「現人神」起源表す超一流の発見(解説)
 
 天皇の称号がいつから始まったのかは、古代史研究の最重要テーマの一つだ。「天皇木簡」の発見で、天武朝(六七三―六八六)には国家君主が「天皇」の称号で呼ばれていたことが確実となった。
(地方部(大阪) 林文夫)(本文記事1面)
 埼玉・稲荷山古墳出土の辛亥年銘鉄剣、熊本・江田(えた)船山古墳出土大刀銘(いずれも五世紀後半)には「大王(おおきみ)」の文字があり、この時点では倭国の王の称号は大王だった。 その大王が「現人神(あらひとがみ)」の意味を持つ「天皇」に改められた時期は日本国家の起源ともかかわることから、活発な論議が展開されてきた。
 古代国家完成期を七、八世紀とする見方は戦後の学界の通説で、〈1〉推古朝(五九二―六二八)〈2〉天智朝(六六八―六七一)〈3〉天武・持統朝(六七三―六九七)〈4〉文武朝(六九七―七〇七)説が主な学説となっている。
◆最有力の天武朝説
 そのなかで近年、最有力視されているのが天武朝説。東野治之・大阪大教授や山尾幸久・立命館大名誉教授らがこの説を唱える。両氏らは飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令の公式令・儀制令(六八一年編さん開始)によって初めて「日本天皇」の称号が公式化されたと指摘。今回の木簡は飛鳥浄御原令より古い可能性が高いが、君主号が法典に定着するには前提があるはずで、天皇木簡はこの説と矛盾しない。
 君主号が変わった背景には、古代史上最大の激動期という事情があった。大化の改新(六四五)、王族が二派に分かれて内戦を繰り広げた壬申の乱(六七二)と国内が揺れた。東アジアでは、六六〇年に唐・新羅の連合軍が百済を滅ぼし、援軍を送った倭国は六六三年に白村江の戦いで敗北。六六八年に高句麗が滅び、翌年、唐が倭国征伐を準備中との情報が伝わった。
 そうした情勢の中、わが国では法律や税制で支配する新しい国家作りが始まった。この大事業を推進するため絶対的君主の存在が求められ、内戦に勝利した天武天皇が神格化された大王となった。万葉集でも「大君は神にし坐せ(ませ)ば・・・」とたたえられた。この事実が内外に新国家創出を宣言する意味を持った。
 壬申の乱の前年にあたる新羅・文武王の書簡(六七一)では「倭国」とあったのが、六八六年または六八九年の中国・朝鮮半島の文字資料で初めて「日本」の国号が現れる。この時期、「倭国王」が「日本天皇」となったようだ。
◆「道教の影響」示唆
 天皇号の由来を道教の最高神で、現人神の「天皇大帝」とする見方もある。日本書紀によれば、天武天皇の和風諡号(しごう)は「天渟中原瀛真人(あまのぬなはらのおきのまひと)」。道教では瀛州(えいしゅう)に仙人の住む神山があり、真人はその真理を体得した人のことをさし、天武天皇が道教の影響を受けていたことを示唆するからだ。
 一方、唐の皇帝、高宗が六七四年に自ら「天皇」号を採用。この影響を受けてわが国でも君主が天皇と名乗ったとする説もある。
 天武天皇は古代神道、仏教、中国哲学にも造けいが深く、当時のあらゆる宗教を統合しながら、天皇制という日本独自の国家思想を生み出したのではないか。皇親政治、大嘗祭(だいじょうさい)、新嘗祭(にいなめさい)などの皇室儀式を打ち出した天武朝は、倭国王時代の為政とは一線を画した。今回の木簡群は現代にもつながる日本国家の出発点を考える上で、古代史上最大級の発見といえそうだ。
 
 
 
 
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。

「読売新聞社の著作物について」








日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION