1999/11/23 読売新聞朝刊
前期難波宮から「648年」記す最古の木簡 「改新」肯定論を補強(解説)
◆律令・集権制の兆し示す
実態が見え始めた孝徳朝の難波長柄豊碕宮(なにわのながらとよさきのみや)は、「大化改新」による難波遷都で造営された宮城だ。「改新」実在を否定する見方も根強い歴史学界で、今回の発掘成果は、どう位置づけられるのだろうか。
(解説委員(大阪)・坪井恒彦)(本文記事1面)
教科書で学ぶ「大化改新」は、六四五年六月に中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足(藤原鎌足)が、政権を握っていた蘇我蝦夷・入鹿父子を打倒したクーデター劇に重点が置かれがちである。しかし、その本質は日本書紀によると、直後に皇位に就いた孝徳天皇が翌年正月に公布した「改新の詔(みことのり)」をはじめとする、六五〇年(白雉一)ごろまでの一連の内政改革ということになる。
詔は四項目から成り、〈1〉土地・人民は公有とする〈2〉中央・地方の行政制度を整える〈3〉全国の土地・人民を登録し、耕地を公平に割り当てる〈4〉全国の租税を統一する――という趣旨だ。
改新肯定論は、このような詔の背景に中国の隋や唐にならった公民制に基づく国家理念が認められ、現実的な地方制度や税制の規定が見られることから、中央集権を目指す律令国家の出発点と位置づける。
肯定論の特徴は、改新を「日本の国家形成史における重大な画期」とすることにある。さらに、当時の東アジアの情勢は、隋の後に興った唐が朝鮮三国に軍事侵略を始めるなど、次第に緊迫化し、日本も国家体制の強化を迫られるなど、国際的な動機があったとする。
これに対し、日本書紀の記述を批判的にみる研究者は、「改新の詔」は八世紀の書紀編者が造作したものと主張してきた。例えば、詔は後の飛鳥浄御原令(制定六八九年)や大宝令(七〇一年)によって書き換えられたとする実証的な研究や、国を構成する「評」を改新の詔は大宝令以後しか使われない「郡」で表記しているという指摘だ。各地で出土する木簡を見ても、大宝令を境に「評」から「郡」に表記が変わり、考古学的にも裏付けられるとされてきた。
改新否定(虚構)論の特徴は「改新の詔」の根本を成す第一条の公地・公民体制を認めないことで、改新による政治改革はなかったとする。「律令国家」の始まりは天智朝の豪族官僚化などの施策で、次の天武朝の私有民廃止によって本格化、大宝令により完成したとみる。
◆“原詔”の実在性
しかし、日本書紀は元来、原史料をそのまま編集したものではなく、八世紀の人々に理解しやすいよう現行制度によって修正された歴史書と言える。とすれば、否定(虚構)論者の批判も、効き目が弱まってくる。
とくに近年、「改新の詔」の表現は後世の脚色であっても、そのもとになった“原詔”の実在性は、当時の東アジアの情勢からも十分考えられるという見方が有力になっている。それが現実に展開し始めたのが、六六三年の「白村江の戦い」で日本軍が唐・新羅軍に大敗し、大陸からの侵攻という危機感を抱いてから以後とみる学説だ。
今回の発掘成果は、▽大化改新直後の難波遷都で造営された「長柄豊碕宮(前期難波宮)」が、後の律令的な藤原宮に近い構造だった▽律令制下に税として神や天皇に貢進した食物・贄(にえ)に付ける荷札木簡の書式に似たものが確認された▽天武朝以降に「律令的祭祀(さいし)具」として成立するとされてきた人形代や斎串、土馬、木製遺物などのセットが出土した――などに集約できるだろう。
これらの成果は、肯定論を推し進める材料になりそうだ。まさに遷都直後の難波の宮城で、新しい天皇制による中央集権国家を目指す孝徳政権の官人たちが、律令制に沿った未知の施策を模索し始めた姿をほうふつさせる。「大化改新」の政治改革は以後、緊迫化を増す国際情勢のもと、試行錯誤を繰り返しながらも、半世紀後の「律令国家完成」へとたどり着くのではないだろうか。
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