1990/11/24 読売新聞朝刊
[社説]象徴天皇の即位儀式を終えて
天皇陛下の即位に伴う「大嘗祭(だいじょうさい)」が、二十二日夜から二十三日未明にかけて、皇居東御苑に造営された大嘗宮で行われた。
十二日の国の儀式「即位の礼」に始まった一連の皇位継承儀式は、これでおおむね終了した。主権在民と象徴天皇制を定めた現行憲法の下で、初めての体験だった。それだけに、皇室に千有余年伝わる伝統行事と憲法の理念を、どう調和させるかをめぐり、さまざまな意見があった。
それらを含めて全体を振り返ると、国と皇室儀式の区分けは、大筋で成功したと思う。即位の礼では、静けさと華やかさの溶け合った伝統美が、百六十か国近い参列者に強い印象を与えたようだ。
大嘗祭は、即位した天皇陛下が今年の新穀を、天照大神と神々に供え、共に食べて国家・国民の安寧と五穀豊穣(ごこくほうじょう)を祈る神道儀式だ。儀式の中身はこれまで公表されたことはなく、神秘のベールに包まれてきた。
政府はこれを国の儀式とせず、皇室の公的行事として公費(宮廷費)を支出した。皇位の世襲制をとる現行憲法の下で、その世襲に伴う継承儀式の大嘗祭には、公的性格があるとの立場だ。
革新、宗教団体などからは、大嘗祭は天皇が神格を得る儀式であり、象徴天皇の理念に反する、公費支出も憲法の政教分離規定に抵触する、との批判があった。儀式の性格をめぐる学説もさまざまで、その一部が外国にも伝えられた。
このため宮内庁は、今回初めて儀式の性格を公表、わが国の古代農耕社会に根ざした伝統的な収穫儀礼であるとして、天皇と神との一体化を明確に否定した。外国記者向けの英訳の見解も出した。
大嘗祭はこれまでも、その時代によって性格が変わってきたし、今後も変化していくだろう。現代の民主社会の理念にふさわしい性格づけは、当然とも言える。
伝統擁護派の中には、古式そのままの儀式を求める意見もある。こうした主張はあまり現実的ではない。伝統文化を後世に伝えていくには、現代に受け入れられる様式を模索する必要がある。
その方向を探った今回の儀式は、賛否双方に不満が残ったかも知れない。だが、自然な国民感情に根ざさない意見は、どんなものであれ、国民の支持は得られないだろう。残念だったのは、双方の主張が全くかみ合わなかったことだ。
過激派のハネあがりは論外だ。どんな厳戒体制の中でも、市民の危険に目をつぶれば、何でもできるだろう。無差別テロや暴力から何が生まれると言うのか。
警察当局にも、三万数千人に及ぶ大動員の盲点を突かれた反省はあるだろう。小さな情報を組織の中でいかに伝達し、現実の警備に生かしていくか、一線警察官の技量の向上も含め、課題は多い。
関連行事はまだ、すべてが終わったわけではない。無法を封じ込めるには、警察当局の努力ばかりでなく、国民の協力と厳しい監視の目も必要である。
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