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1994/06/17 毎日新聞夕刊
[歴史万華鏡]お田植え、ご養蚕 ルーツは古代中国の帝王儀礼
編集委員・岡本健一
◇明治以後、勧農・殖産で復活
 「お田植え」と「ご養蚕」が先ごろ皇居で行われた。この「お田植え」は昭和二(一九二七)年春にはじまったと伝えられたので、「古くからの皇室行事」と思っていた人々には、意外な印象を与えたようだ。
 宮内庁に確かめると、先帝の即位直後の昭和二年、農業奨励のためにはじめられ、水田も皇居内の生物学御研究所のそばに設けられた。皇居・紅葉山での皇后の「ご養蚕」の方はこれより早く、大正三(一九一四)年にさかのぼる――という。
 貞明皇后(大正天皇の皇后)がご養蚕にとりわけ熱心であったことは、年配の人たちなら覚えておられよう。学習院時代から蚕が好きな「虫めづる姫君」で、「国民(くにたみ)のたづき安けくなるときをひとり待ちつつ蚕こがひ(蚕養い)いそしむ」と、最晩年まで養蚕に励まれた(大日本蚕糸会『貞明皇后』)。
 もっとも、「お田植え」も「ご養蚕」もすでに明治の先例があったらしい。『宮中歳時記』(入江相政編)によると、南北戦争の将軍として有名なアメリカのグラント前大統領が明治十二(一八七九)年、皇居に参内したとき、皇室の新嘗祭(にいなめさい)と親耕・親蚕(お田植え・ご養蚕)は「宇内(うだい)絶美の祭典」とたたえた、という。
 それ以前の皇居、つまり京都御所には水田の痕跡も記録もない。なにしろ、平安京では水田耕作が禁じられたくらいだから、まして宮中の水田などあったとは考えにくい。民俗学の柳田国男も、皇室の特徴は「親しく稲作をなされざりしこと」(「稲の産屋」)といった。
 ところが、奈良時代にはたしかに<親耕・親蚕の礼>が行われた。正倉院に伝わる宝物「子(ね)の日の手辛鋤(てからすき)」と「子の日の玉箒(たまばはき)」が、その証拠である。天平宝字二(七五八)年正月三日の初子の日に、美しく飾った唐鋤(からすき)と玉箒を使って、お田植えとご養蚕はじめの儀礼が行われたのだ。
 ――ちなみに、大伴家持が「初春の 初子のけふの 玉箒 手に取るからに 揺らく玉の緒お」と詠んだのは、このときのこと。
 古代史の井上薫さん(大阪大学名誉教授)によると、奈良後期の孝謙天皇の治世、それもわずか三年間だけ行われた。仕掛け人は時の太政大臣・藤原仲麻呂。ハイカラな唐文化にあこがれて、唐の新制度をつぎつぎ取り入れた人物だから、このお田植え・ご養蚕も「唐かぶれの仲麻呂のお膳(ぜん)立て」とにらむ。
 独身の女帝・孝謙は、当然、女性用の玉箒を使ったはず。では、男性用の唐鋤を使ったのは、いったいだれか。井上さんは大胆に推理する。「ひそかに皇位につこうとした仲麻呂だ」と。
 しかし、間もなく女帝の寵愛(ちょうあい)は冷めて僧・道鏡に移り、仲麻呂は失脚する。<親耕・親蚕の礼>がわずか三年で途絶えたのは、こうした事情による、という(「子日親耕親蚕儀式と藤原仲麻呂」)。
 <親耕・親蚕の礼>は、さかのぼれば中国古代の周王朝に行きつく。帝王は諸侯を率いて、親(みず)から籍田(せきでん)(儀礼的な農耕田)を耕し、王后夫人は女官を率いて、桑を摘み蚕を養う。これが帝王・王后の重要な務めだった。
 大嘗祭(だいじょうさい)など皇室の祭祀(さいし)にくわしい岡田精司さん(元三重大学教授)は、指摘する。近代天皇制のなかには儒教的・中国的な規範がずいぶん取り込まれている。たとえば、明治以降の「一世一元制」は、明・清代の制にならったもので、江戸時代以前にはなかった。お田植え・ご養蚕も同じだろう、と。
 現代のお田植え・ご養蚕が中国古代の制度をモデルにしたことは、明らかだろう。農は国の基幹産業、蚕もまた、殖産のシンボル。そこで、明治以後、古典的な<親耕・親蚕の礼>が、近代的な勧農・殖産の装いをまとって復活した、と考えられる。
 儒学全盛の江戸時代、「名君」の理想像は古代中国の諸侯(王)に求められた。諸侯が天子にしたがって<親耕の礼>をつとめたように、わが大名たちもまた、水田耕作のパフォーマンスを行い、勧農の手本を示した。岡山・後楽園には藩主お田植えの小さな水田(井田)がいまも残る。皇室のお田植えがその延長上にあることは、見やすい。
 
 
 
 
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