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解剖実習を終えて
日本大学歯学部 横塚 怜奈
 
 二年も後期を迎えついに解剖実習が始まった。私は一年生の頃から解剖実習について時々考えることがあった。その頃は、まだ解剖の知識が何もなく単に解剖実習に対する抵抗を感じていた。自分に解剖実習をやりぬけるのかどうか、という疑問も抱いていた。そして二年の前期になり、解剖の講義をみっちり受けることによって私の中で、解剖実習に対する考えは変わった。今まで、文字や絵でしか学んでいないことを実際に目で見て触れて自分の手で剖出することができる機会は後にも先にもこれが最後で、このような貴重な体験を決して無駄にはできないと思った。そして、いよいよ解剖実習が始まり、私がまず始めに自分の中でたてた誓いは、献体してくださった方々に決して失礼のないように「解剖実習はどんな時でも集中して行い、より多くの知識を身につけるよう努めること」、「最低限予習は絶対に欠かさないこと」だった。この誓いだけは何をやってもいつも中途半端な私が、唯一最後までやりぬくことができた。それはやはり根底に、献体してくださった方々への言い切れない感謝の思いがあったからである。
 解剖実習が始まって間もなく私達は築地本願寺で解剖体追悼法要を行った。式が終わり、献体してくださった方のご家族の方々をお見送りした時、私は一生忘れることのできない心に残る言葉を献体してくださった方のご家族からいただいた。それは「よろしくお願いします」というたった一言であったが、私の胸にはいつまでも響き、毎週の解剖実習の時間に必ずその言葉を思い出し、四ヶ月間毎週一回まるまる一日をみっちり使う決して楽とは言えない解剖実習を他のどの実習よりも集中して行えた。
 一日の解剖実習が始まる時と終わる時必ず黙祷を行った。私はこの黙祷の時始まりならば「今日もいろいろな事を学ばせていただきます。自分なりに精いっぱいやりますが、もし失礼にあたる様なことがありましたらごめんなさい。よろしくお願いします」、終わりの時は「今日もとても勉強になりました。ありがとうございました。また来週もよろしくお願いします」と心の中でご遺体に話し掛けた。一日の解剖実習が終わった時は、家に返ると自然に復習の時間になっていた。今日一日学んだことが映像として頭の中に鮮明に蘇るのである。その事により解剖実習が終わった今でも臓器の位置や構造、神経や脈管の走行はしっかり知識として頭の中に残っている。
 私は解剖実習を行うにあたって最も大切なことは「予習をしっかりすること」であると思う。予習をしていないと、せっかくご遺体が様々なことを私たちに教えてくれようとしても頭の中を右から左に流れていき、知識として残らずご遺体に対してとても失礼にあたると思う。何よりも献体してくださる方々のご厚意を無駄にはせず、しっかりと学んだことを自分の知識にしていくことが学生にできる唯一のご遺体に対する恩返しであると私は思う。この貴重な体験を忘れることなく、今後も立派な歯科医師になれるよう、がんばりたいと思う。
 最後にご献体していただきました方々、またご献体していただいた方々のご家族の方々、解剖実習にたずさわる諸先生方、解剖の機会を私に与えてくださった様々な方々に心から感謝の気持ちを込めて、本当にありがとうございました。
 
日本歯科大学歯学部 横山久美子
 
 はじめに、私達学生の為に自らの体を献体して下さった方々とその御遺族の皆様に心から感謝申し上げ、御冥福をお祈り申し上げます。
 解剖学実習が始まった頃、私は剖出した御遺体を「見る」ことが重要だと思っていました。先生がおっしゃった部位を剖出し、観察する、の繰り返しでした。しかし御遺体は私達が「勉強する」ために献体して下さったことに気が付きました。御遺体を目の前にしている実習中だけ真剣になるのではなく、講義中は勿論のこと、自主勉強を一生懸命することに意味があるのです。そんなことは当り前なのに、なぜもっと早くに気付かなかったのか悔やまれます。今回の実習は反省することばかりです。本当に自分は御遺体から学び尽くせたのだろうか。
 生と死については本当に深く考えさせられました。生と死はどう区別されるのか、どの程度違うのか。生物学的には生と死は区別されるでしょう。しかし、死後に人格が消えてしまうとはいえないと思いました。確かに目の前の御遺体は動きません。しかし、私達にいつでも、私達が医学・歯学を修め社会に役立って欲しい、と語りかけて下さっているような気がしました。
 自らの体を使わせて下さった方々のためにも、多くのことを学び、立派な歯科医師になりたいです。初めて解剖学実習室に入った瞬間、御遺体のお顔、そして実習をすべて終えた瞬間の気持ちを、一生忘れません。
 
弘前大学医学部 横山 拓史
 
 今日、医学は目覚しい進歩を続けています。人類は、過去に不治の病といわれた多くの難病をも克服してきました。元来、医学は人体の解剖に端を発しました。人体の構造を理解することが医学の根本であるからです。そして現代でも医師の根本は人体の構造を知ることに他なりません。私達医学科生も一人前の医師となるため人体の構造を理解する必要があります。そのために解剖実習があります。
 私は今日まで三十五回の解剖実習を行いました。時には失敗もありましたが、この解剖実習で多くの知識と経験を得ることができました。解剖実習が始まったころは、この実習で得られるものがどれほどのものなのかあまりわかりませんでした。しかし解剖実習が終わった今では、私が医師を目指すうえで欠かすことのできないとても大きな財産を得ることができたことを確信しています。私は一人前の医師を目指す過程において解剖実習を経験できる、恵まれた環境に生まれたことを感謝しなければなりません。
 世の中にはたった今も病気、怪我で苦しんでいる人が多く存在します。そのような人々を救うため、今後私はこの解剖実習で得た知識、経験を最大限に生かして更に医学を学び、医師を目指します。私が医師になるため、将来の医学のために献体してくださった方々とそのご遺族の方々に深く感謝いたします。ありがとうございました。
 
東京医科歯科大学歯学部 和田淳一郎
 
 『解剖学実習なしで医学は成り立たない』。慰霊式での学長の言葉を反芻する瞬間が増えた。テキストに描かれた、限りなく三次元に近い二次元の像は、整理されていて非常に理解しやすく、人間の体の素晴らしいネットワークを分かりやすい説明と共に教えてくれる。しかし、もしこれで得た知識のみに頼る医師がいるならば、とても恐ろしいことである。
 御遺体は私たちに、テキストでは絶対に知り得ない人間の体の複雑さ、また一人一人が、その方の生前を想像して私たちが思う生き様に負けないくらいの個性的な体を持っているのだということを教えて下さった。どの御遺体を見てもまったく同じということは何一つない。テキストの図で理解できる程簡単なものではないのだ。生涯学び続けなければ、いや、そうしたとしても満足な治療を施すことができるか疑わしくなるまでに、人間の体は複雑だった。
 しかし、この実習で得た最も大きな財産は、医学がこんなにもたくさんの方々に支えられているのか、私はこんなにも大きな責任を背負っていたのか、という衝撃と、献体して下さった方々とその御遺族の方々の強い志であった。解剖をすることで感情が麻痺してしまうという人がいるが、全く逆である。御遺体と触れていくうちに、命の尊さを肌で感じ、本当に私が人々の体を治療できるのかという不安さえ覚えた。
 これから歯科医師となって向かい合うであろう、たくさんの人々一人一人が、あまりにも個性的で、あまりにも複雑で、そしてあまりにも尊い命をもっておられるのだ、私はその一人一人に全身全霊をかけて奉仕せねばならないのだ、と強く思う。これからの人生を今回の解剖で出会った方とその御遺族の方々への感謝の意を込めて、一人でも多くの方に捧げたい。
 
山口大学医学部 和田 春子
 
 三ヶ月の肉眼解剖実習を終えて、いろいろな思いが湧きあがってきます。献体していただいた方の思いに十分答えられるようなことが自分にできるのだろうか、体力的にも精神的にも三ヶ月間耐えられるのだろうかという不安から始まり、自習を進めるたびに体験した感動や驚きなど、また三ヶ月間の肉眼解剖実習を締めくくる納棺、火葬のときに感じた特別な人との別れの寂しさなどです。
 初めての実習の日はとにかく不安でいっぱいだったことを思い出します。解剖学の教科書をどうしても開くことのできない自分がご遺体を前にして何ができるのだろうかという思いがあり、自分にはできないと決め付けていたような気がします。しかし、授業の最初に先生がおっしゃった「ご献体された方は最初の患者さんであり、すばらしい先生であり、教科書であるということを忘れないで下さい。」という言葉を聞き、また実習室の入り口に書いてある「ultimate gift(究極の贈り物)」という言葉を見て、「自分にできるかできないかではない、しなければならない、得られるものはすべて得なければならないのだ」という一種の覚悟が生まれました。それからは全力で解剖を行おうという気持ちが強く、時にはつらいと思うときもありましたが、最後まで全力投球できたと思っています。
 実習を進めるたびに感じる感動や驚きは本当に大きなものでした。今までの講義などで習った文字からの知識を実際に自分の目で見て何度も確かめました。また写真からでは理解しづらい人体の立体的な構造を触り、手にとって、いろんな方向から見て理解しました。そして家に帰り、文字で書かれている教科書を読むと、頭の中にご遺体で実際に見たものが浮かび、実習前とは比べようのないほど理解しやすかったことを覚えています。別の班のご遺体を見せてもらい、また教科書のものと比べて気づく個体差というものを目の当たりにし、教科書どおりにはいかないということを実感しました。このことは自分が医師になったときに大切であり、忘れてはいけないことであると思っています。
 納棺、火葬が近づくにつれて、献体していただいた方に対し、この方にも私と同じ年代のお孫さんがおり、言葉を交わし、睡眠をとり、食事をしていたのだということを頻繁に考えるようになり複雑な気持ちになりました。最後の実習の時、もうこの方には会えないのだという気持ちが強く、寂しさを覚えました。それは家族とも友達とも違いますが、それに優るとも劣らない特別な人に対する気持ちでした。最後の黙祷では言葉にできない感謝、これから医学を学んでいくこと、医師として世の中に出ることに対する決意を自分なりに献体していただいた方に精一杯語りかけました。
 最後に、今回献体していただいた方、これを支えていただいている白蘭会の方々に、患者さんの気持ちがわかる、患者さんの望む、心技ともに優れた医師になることを誓います。ありがとうございました。
 
獨協医科大学 渡邉 彩子
 
 約4ヶ月にわたる解剖実習を終え、様々な思いで溢れています。たくさんのご遺体が待っておられる実習室に初めて入った日、恐れにも似た厳粛な緊張感に包まれ、生涯忘れられない一日となりました。初めは、あまりに崇高な志を前にして足がすくむ思いでしたが、可能な限り多くを学ばせて頂き、ご遺体の遺志に報いようと日々、実習に勤しんできました。
 実習をはじめる前の黙祷を捧げる時には、献体された方が、そう決意された日と、自分が医師を志した日を思い、お互いの志のもとに今日も宜しくお願いします、とお話をさせて頂きました。
 実習は、自分の知識の浅さ、書物と実物の違いを痛感する毎日であったと思います。また、ご遺体の個人差は想像を遥かに超えるものでした。そして、人体構造の立体としての認知や、各組織ごとの質的な違いなどの実習を通じて初めて体得した内容は、決して忘れられない程、私達の手の感触や残像として残っているのです。どうしても剖出できず、友人や先生方と図譜をもとに格闘した夜を思い出します。諦めそうになる時は幾度となくありましたが、探求を続ける友人の姿に励まされながら、何とかやり遂げてきました。振り返れば、臓器や神経のひとつひとつに沢山の思い出が残っています。
 そして、解剖学的な知識のみならず、ご遺体の教えて下さる、見返りを求めない奉仕の姿、人間の生命の尊さと死の尊厳は、将来、患者さんの生命を託される医師として自分は足る人間なのだろうかという問いを私達に日々与えて下さるものでした。
 ですから、私達は決して解剖することに馴れたり、ご遺体に対して失礼な態度をとることがないように心掛け、ご遺体から教えて頂くという気持ちを最終日まで持ち続けられたのだと思っております。
 ご献体をして下さった崇高なお心を無駄にする事の無いよう、現在の理想と情熱を失わずに人間性豊かな医師となることをここにお誓い申し上げます。







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