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幻の手術
聖マリアンナ医科大学山百合会 井上 武夫
 
 平成十三年八月、東京のある学会場でじろじろと私を見る男がいました。田舎風の顔で見覚えはありません。休憩時間に、井上先生ですかと声をかけられた。実は、瀬戸内海の或る町の○山病院で、私の後輩が手術の結果がうまくいかず困っています。私たち○○大学出身の医師では先生の手術M法が出来る者はいません。助けてくださいと言う。悪い気はせずいい気持ちであった。その数日前に、S大学にその患者のレントゲンフィルムが送られ見せられたが、定年後の身であるので私は手術をやらないと断り、大学も出来る者がいないと患者を断りました。その後、手術の要点を書いた文献を二人の先生に送り、励ました。
 手術が成功すれば患者は一生助かると思い、私は手術に手を出さないが、傍にいて本に書けない要点についてアドバイスは出来ます、それでよかったら行ってもよいですと連絡しました。○山病院の医師は来てください、手術をしますと返事をくれました。二十年以上やってきた手術であるので克明に思い出され、アドバイスは可能と考え、都合によっては手術に入り一緒にやってもよいと思いました。約十年間手術をしていないので不安になり、指の動きが最近悪いので曲げたり伸ばしたり訓練し、また眼鏡も確認しました。医師と電話、FAXで連絡をとるが、何か一つ舌足らずというか、短すぎるというか、もどかしさがありました。用件は満たしているが、木で鼻を噛むというか、連絡に不満のようなものが残りました。
 手術日も決まり、宿も予約しました。医師は町の観光地図や食べ歩きのマップを送ってくれるなど、親切な面も見られました。そうだ、せっかくのチャンスだ、もう行く機会はないかもしれないと思い、瀬戸大橋を渡ってみようと観光旅行を予約し、夢はふくらみます。この頃、呆けたと思うこともあるので、家内を同伴することにしました。
 病院から少ないですが謝礼が出ますと連絡があったが、はじめから人助け、ボランティアのつもりであったので、迷うことなく断りました。三年前、自分の仕事、医業を通してボランティア、金をもらわないことをしたくなりました。地震だ、火山の噴火だ、ユニセフ、キリスト教海外医療協力などに積極的に数年前より寄付をしてきたが、医者として無償で働いたことはありませんでした。三年前ある老人ホームの尿失禁をなくそうと、聖マリアンナ医大の理事長の紹介状を持ってボランティアとして入れていただいたが、結局無駄でした。尿失禁は人の尊厳にかかわるもので、無くしたいと思いましたが、女性のボランティアが時間ごとにおむつを替えるなど組織が出来上がっており、よそ者の私が偉そうにうまく出来るかわからないのに口を出すことではないと思い、退散しました。医療のボランティアは簡単ではないと知らされました。患者に注射して人を殺すこともあるわけですから、手続き、法律、医師法などクリアしないとできません。そんな訳で、今回は手術で人助けが出来るかもしれないと、ひそかに喜んでいました。
 手術の日が迫った頃、その医師から「患者は東京で手術を受けたいと言います。東京にこの手術が出来るドクターがいますか」と電話があった。私は「いませんよ」と返事をした。その後、電話はなかったが何かあったと感じ、今になって迷うのかと思いました。
 自分の書いた手術の文献を読み返し、手術場を想像し、うまく行くと確信を持ちました。心の準備は完全、旅支度をはじめました。ところがである。二日前に、電話で「患者が病院と喧嘩して、強制退院(病院から退院させられること)になりました。手術は中止になりました」と知らせてきました。理由とかもう少し詳しい説明もなく、例のごとく舌足らずの狐につままれたような気がしました。
 変な気分でしたが了解し、電話は切れました。詳しいことは手紙で知らせてくれるだろうと思いました。すぐに切符、宿、観光のキャンセルをし、がっかりして幕を閉じました。
 その後、詳しい報告を待っていましたがそのままで、手紙、FAXもなく、短いあの電話で終わりとなりました。一ヶ月以上、電話、FAXを数回やり取りし、緊張もしましたが幕引きはおかしなものでした。
 後でゆっくり考えました。(1)私に功名心はなかったか。瀬戸内のある大学の出身者が誰も出来ないこの手術、また、関東地方でも必要性が少ない(大事故で起こる病気のための手術)ので、技術が受け継がれず、やる医師がいないこの手術を教えてあっと言わせてやろうという気持ちがあったことは確かである。人助けもあるが、動機に不純な点があった。その上、相手の医師の実力も知らずに一緒に手術をやることも無謀である。いろいろの点で無理な手術になるところであった。功名心が先に出て、理性、平静の心が失われたのであろう。(2)キリスト教では、計画したことが駄目になったり、努力したけれどなにかの弾みでそれが中止になったりする時、これは神の考えではなかった、神様の計画ではないから、やめるのもよいではないかという考えがあります。神は人間が読めない先のことまで見透されるのである。中止になってよかったことは沢山あります。この例のような、やや不純な、どこか無理があることは、結果が悪いことが多い。私は残念だったけれど、中止になってほっとしました。若し、手術がうまくゆかなかったらと思うとぞっとします。病院と喧嘩して出されるほどの患者ですから、ごたごた問題が起こると思われます。中止も悪くないと思いました。
 世の中のこと、人生の出来事にも当てはまります。仕事や計画が頓挫すると、神の考えと違うかなと見直すことも大切です。中止する時でも、神の考えに従う気持ちを持ちたいです。
 私の生まれた島根県の西部は浄土真宗が多いです。仕事の失敗、病気など理不尽なことは業と言って、納得するようにします。業は仏教の言葉で宿業と同じです。自分の力ではどうにもならない因縁によって起こるというのです。村人は「約束ごと」とも言います。われわれが知らないだけで、仏さんはこうなると、前から知っているというわけです。
 キリスト教の考えに似ています。私の母は「これは業だけ」と言って、苦しいことにうろたえませんでした。私は五人兄弟の末っ子で、上四人は結核で戦中、戦後に亡くなりました。あれは昭和十八年のことです。姉の死が近づくと、死装束に着せる白い着物を、物の無い時だったので寄せ集めて縫っているのを見ました。今になって考えると、母は悲しくて泣きたかっただろうに、泣き喚いた記憶はありません。死後も愚痴をこぼした記憶もありません。娘の死を受け入れたと思います。仏教の業という考え、諦観?というか、真宗の考えが大きく影響していると考えます。母は熱心な信者ではありません。寺へも殆ど参りません。しかし、村の人達から沁みこんだ、何かが身についたものと考えます。
 今回の手術が中止になったいきさつが、あの三十秒か一分の電話ですむものでもないので、電話なり手紙なり詳しい話を待っていましたが、それきりでした。前から、電話もFAXも短くて舌足らずと思っていましたが、なんの報告もないので驚きました。この一件から見て、人間として物足りないのに、医者がよくも務まるなあと思いました。これでは患者への説明も納得してもらえないと思います。喧嘩して退院するのも無理はありません。
 このような事件の処理の仕方は、大学における講義や医局で上の人の教育では出来ないと考えます。こっぴどく叱られたり、いろいろ経験して反省し、肝に銘じて努力して身につけるものです。基本は他者に対する配慮、気配りです。
 昭和二十八〜九年頃の失敗談です。当時、外国の文献を読むのは大変なことでした。研究に必要な文献を新潟大学の楠教授[故人、大先生です]に教えて頂きました。当時、三十歳ぐらいの私は礼状を出しませんでした。多分、忘れたと思います。楠教授から私の教授に、「井上はけしからん。礼状もよこさん」と言われ、私は教授にしっかり叱られました。それ以来、礼状を忘れないように気をつけています。叱られてよかったです。若いもんは、ものを知りませんから叱られて成長します。彼は今回、誰も叱りませんから、成長の機会を逃しました。私は叱られた話を医局の若い医師にしたことはありませんでしたが、話しておけばよかったと、今回のことで反省しました。
 もう医者をやめようと思う年になって、瀬戸内のほうへ行って手術を教えようなどとんでもないことを思いつき、苦い思い出となりました。
 
ともしび会 歌房摩
 
 私は、六人姉弟の次女として、大正八年十二月八日に生まれました。子供の頃から病弱で、娘時代には肺を患い、両親の心配の種だったようです。戦後まもなく、長姉は結核を患い、食糧事情の悪い中、幼子四人を残し三十三歳の若さで亡くなりました。四人の弟達も戦死(二十四才)、事故(三十三才)、病気(ガン=四十三才)で三人迄も亡くしてしまいました。私と言えば、五十才で胃ガン(手遅れ状態)で胃と十二指腸を全摘出手術(岡山医大の柳本先生)。
 七十五才で胆のう切除と肝臓と腸の癒着で肝臓の一部切除手術。苦しみと高熱との戦いで「年貢の納め時」との思いのなか、先生、看護婦さんの早朝、夜中をいとわずの手厚い看護、気配りで二ヶ月余りで無事退院致しました。八十才での目の手術。いずれにおいても、治療に当たって頂いた先生初め関係者の方々、医療のお陰げと感謝の気持ちは忘れられず、医療のお役に立ちたいと献体を決心しました。子供達(二男一女)からの反対も、私の「恩に報いたい」との強い願いは届き、承諾を得、今日に至っております。晩年には、一人残っていた末弟もガンで亡くし(平成六年)、親姉弟をすべて亡くした私が、病弱であった私がこの年まで生きてこられた命の不思議、生かされてきた喜びを今さらの様に感慨深く思います。
 今、私は老夫(八十六才)と二人で自然を満喫しながら暮らしております。正月、ゴールデンウィーク、お盆には、子供、孫たちが集まり、にぎやかであります。生きていく事は大変ですが、回りの人達によって生かされている事の喜びをかみしめ、心静かに送日の毎日でございます。
 
産業医科大学医聖会 内田啓次郎
 
 葉山会長から医聖会会報になにか文章を、との要請がありました。文章を書くのは苦手でお断りしたのですが、「医聖会の現存会員は約1500名いるが、建築家は貴方一人と思われるから、その方面から観る視点で書いてくれると興味を感じてくれる方がおられると思うよ・・・」と言われて断りきれず、なんとか責務を果たすことにしました。
 建築家という仕事が有ることを中学生の時知って、大学の建築科を出てこの仕事に入ってから43年、(技術系の)サラリーマンから家庭の事情で郷里の北九州市に戻って自分の名前で始めてから35年に成ります。建築家という仕事は依頼によって(時には自分の方から提案することも有りますが)建物を設計そして工事監理することを主たる業務にしていますが、私はもっと大きく「生身の人間が自分を取り巻く環境(住環境と言って良いと思いますが)を自分にとって都合の良いものに『気持ちの良いものに・・・』創り出すあるいは創り換える仕事」だと考えています。北九州市という土地柄、以前は工場(関係)の仕事が多かったのですが、近頃は医療・福祉関係が多くなりました。それと私の仕事のもう一つの大きな分野である住宅の仕事でも新築は少なくなり、増築・改築・改修の仕事が増えてきて、これもやはり時代の大きな流れに沿っているんだなと思っています。私の仕事で皆さんの目に止まるところにあるものは八幡東区七条に在る北九州市市長の市長公舎です。
 3年前、八幡西区友田に『宗寿苑』という介護老人保健施設を企画・設計・監理して竣工させてから、ずっとその『お守り』(メンテナンス・アフターサービス)をやっています。私自身も2年前にいわゆる『高齢者』の分類に入りました。それと、「北九州市すこやか住宅推進協議会」の会員(委員)でもあり、高齢者の住宅の改修に携わることが多いので、いやでも高齢者の生態(その方を取り巻く家族の事情)に触れることが多々あります。
 我々は歳を取って『眼』が悪くなると『眼鏡』を掛けて補い『耳』が悪くなれば補聴器でそれをカバーします。それと同じように住みなれた住まいもいろいろ不具合が出てきます。排泄、衛生の分野では便所・浴室(入浴という行為が衛生上のみならず精神衛生上いかに気持ちの良いものかは、当今の『温泉ブーム』が示すところです)に。作業の分野では台所。出入りでは玄関・勝手口・階段・部屋・廊下の小さな段差、これらの問題箇所は建築的には充分解決可能で、それによって『住み慣れたマイホーム』に住み続けていくことが出来るのです。
 勿論、それにはそれなりの費用が掛かります・・・。このような場合、我々経験者が良かれかしと思って提案しても、それに積極的なのは御夫婦の場合ではさまって夫人の方で旦那さんは消極的なのです。老健のような施設においても新しい住環境に積極的に解け込むのは大体女性で、男性は同性同士でも交流はせずポツネンとしています。男というものが、いかに過去の遺産(?)にしがみついているかを見せられる思いです。元気な高齢者に御婦人が多い所以です。
 時代の趨勢(経済効率優先の)として、これからは、ハンディ(肉体的な)の在る人(あるいはハンディが生じてしまった人)を集めて(あるいはまとめてと言うべきか?)面倒をみることが要請されるようになると思います。このような施設においてはその運営者あるいは設計者(建築家)がいかに善意ある姿勢で臨んでも、結果として出来上がったものは個々の利用者にとって、どこか『不満』があるものにならざるをえません。これはこのような施設を二箇所ほど企画・設計に関係した私が痛感していることです。
 「住み慣れたところで老後を(出来たら最後まで)過ごしたい」というのは誰しも願うことだと思います。その為の建築的な「ノウハウ」は相当蓄積されてきました。こういう『もの』を上手に利用して住み慣れた我が家に出来るだけ長く住んでいただきたいと思います。それを旨くいかなくしているのは当人を取り巻く『家庭の事情』にあるように思うことが多いのです。このことを論じると『紙数』が膨大になってしまうので止めますが建築家の仕事の限界を感じます。
 高齢者一人ひとりが『気持ち良く』住んでいくことにもっと貪欲になって良いのではと思います。







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