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医学の進歩にお役に立てば
山口大学白蘭会 大迫 良臣
 
 大正十五年六月七日、台湾台北市福住町五番地で出生、これが私の戸籍の記録です。人並みに大きな声で泣きながら生まれた、と亡母は言っていました。それから二才の時、郷里の鹿児島に帰り少年時代を過ごした。昔は子供の時から躾が大変厳しかったように記憶しています。そのお陰で尋常高等小学校の八年間を一日も欠席せず、卒業式で皆勤賞を頂いたことを覚えています。賞状は今でも宝として大事にしています。
 小さいときから丈夫だった私は、十八才のとき七つボタンにあこがれ特攻隊員を志したが終戦になり果たせなかった。今でも先輩たちが首に白いマフラーを巻き粋な飛行服姿で征った雄姿が瞼に焼きついています。そして戦後、ご縁があって宇部市に移住し食糧難の時代をガムシャラに生きて来ました。爾来健康だけが取り得の私でした。
 ところが晩年大腸癌に二回も罹りその都度手術を受けましたが、七十五才の今日迄生かさして頂いております。このことは神仏のご加護と諸先生方のご尽力、近代医学の賜と深く感謝しております。
 この上は生老病死の人生の理にそって静かに寿命を全うできますよう念じています。山口大学病院には永年大変お世話になっております。心より厚くお礼申し上げます。
 予後については、医学の進歩に些かでもお役に立てばと献体を決意しました。家族も賛同してくれました。少しでもご恩返しができますれば幸甚に存じます。何処からか「命より大切なものがあるよ」・・・と声が聞こえて来るようです。
 合掌
 
千葉白菊会 大渕まき子
 
 白菊会会報十五号を拝見しながら、私が献体と言う言葉を初めて聞いた時のことを想い出しています。それは十年以上も前の事でしたが、その時は献体の意味がよく解っていませんでした。私は長年のストレスで胃から出血するほどでしたので治療も長年かかりピロリ菌退治したものの、身体は大分異変を起して、ことに左手がふるえ物を持つ事が出来なく、病院で診てもらったらパーキンソン病と言われ、目の前が真暗に成り、次週娘と一緒に行き、今は初期だけど進行すると寝たきりになると話されました。
 私は医学書を読みあさり、先生に献体について初めて相談しました。すると先生はたっぷりの時間をかけて献体の話をして下さいましたし、ほとんどの医師が献体登録をしている事などを話して下さいました。
 平成十三年療養をかねてこの地に来て、千葉白菊会に入会させて戴きました。そして昨年は総会開催のご案内を戴き、自分のこの目でしっかりと見てみたく出席しました。
 私の想像以上に立派な慰霊祭、そこで先生方、若き医学生の真心を感じとることができました。
 今はひとりで心安らかな日々を送り、身体のほうもとっても元気になり、庭に野菜を作り、毎週水曜日には現在の私にできるただひとつのボランティア(着付)をしています、もっと早く御礼の便りを出すべきでしたが、手のふるえと筆不精で大変おそくなり申訳けございません。
 この命あるかぎり生き、いつの日か達成できますことを願いながら乱筆のペンを取りました。
 各会員様、事務局の皆様どうぞご自愛下さいませ。
 
山口大学白蘭会 岡村 初音
 
 母が父を亡くした年を、ひとつ越えました。
 会歴を拝見いたしますと、あれは白蘭会が設立されて四、五年目の頃だったでしょうか。弟と二人暮らしになった母が、里帰りした妹と私に、献体に関する書類を見せてくれたのです。母の影響で中学生の頃から奉仕活動一筋の生活をしていた私は、その時から献体は、人生最後の当然の奉仕活動と心に決めておりました。
 「ぼくは大将になりたかったのに・・・」幼くして亡くなった兄が夢の中でこう言いました。兄の身替わりのようにして生まれてきた私は、そんな兄の分まで生きることがすべての原点でありました。ずい分ひよわだった幼い頃の私を、いつくしみ育ててくれた親祖先への限りない恩を思う時、人様に何かお役に立つことをせずにはいられません。厳しい環境をのり越える場が沢山ありましたお陰様で、いつのまにか丈夫な身体をいただくことができました。つつがなく最後のご奉仕にたどりつけますように、嫁、妻、母、祖母、ボランティア、と、一人五役を一日一日大切に進行させてまいりましょう。
 おわりにこの場をお借りして主人に「どれひとつとってもお金にならないことばかりでしたが、そばに置いていただいたことに、心から感謝申し上げます。」
 青春時代を過ごした懐かしい宇部の地でしばらく休めるのも嬉しい限りです。
 
山形大学しらゆき会 奥山 正紀
 
 「形あるものは必ずこわれ、生あるものは必ず死ぬ」これは自然の摂理。人は死から逃れることはできない。子供の頃村のお寺で地獄極楽の絵をみた。花園で遊ぶ天国に比べ剣の山を鬼に追われ血まみれになって上る地獄の人々。どうすれば極楽に行き、どうすれば地獄に行くのか。これが理解するようになったのはずっと後のことだった。有機体はすべて枯死すれば腐敗分解して土になる。土に生れて土に還る。死は生きることだ。虚弱児童だった私がよくもこう長く生きられたものだ八十八年の歳月。与えられた天寿を心安らかに全とうすべく美しく老いることそして「日々是好日」を心掛けている。いま夫婦別骨とか姑と嫁が別墓を願っているとか。憎しみを死後も持ち続けるつもりなのか。死は無、そして生に連なる。
 医学の進歩に役立つならばと大学の研究室に献体を申し込んだ。以来毎年慰霊祭に招待される。己の終末を一度は見ておこうと出かけてみた。立派な祭場は沢山の花で飾られ大勢の大学関係者、遺族達の参列のもと厳粛な雰囲気のもとで法要が営まれた。これが年々行なわれるなら、三十五日だ、四十五日だ、やれ三年忌、五年十年と徐々にうすれ行く近親者による法要よりはるかにすばらしいと、気も安らかに帰った。
 
東京医科歯科大学献体の会 鴨志田 信
 
 人も車も往来が少ない裏道は私の好む道路で、いつも利用している。道幅は意外に広く、ゆっくり歩けて知人にもめったに会わない。両側の住宅には樹木や花が多く閑静なたたずまいである。
 エプロンのポケットに財布を押し込んだだけの軽装のまま郵便局にはがきを買いに出た。だが局の時間切れになりそうで少し急ぐ足取りではあった。
 急に転びそうな予感がしてきて、次にはもう前のめりに膝をついていた。悪路ほどではないが少しは小さな凹凸や破れはある。でも、つまずくほどではない。誰も見ているわけではないが私はあわてて立ち上がった。少しひざをすりむいていた。履物は、リハビリ用の平たい靴で、これは過日の献体の会の総会へ参加するのに乗り物の乗り継ぎが多いので用心して履いて行った楽なものである。
 私は、もう一度その路上に足を投げ出して座り込み、転びの原因を考えてみた。考えつかない。やっぱり老化かと納得、立ち上がろうとしたとき、自転車を飛ばして来た青年がぽんと下りると私の背後に廻って、
 「転んだの? 立てないのね」
と、云いながら私の肩をつかんでぐいっと引き上げてくれた。反射的に「ありがとうございました」と、お礼の言葉が出た。転びの再演をしているつもりとは言えない。青年はまた自転車を飛ばして去った。その後ろ姿をぼう然と見つめながら、私はなにか白昼夢をみたようで思考がまとまらない。自転車の後影はもう見えない。不意に私はがくぜんとした。そうだ、杖を持って出るのを忘れたんだ。
 
財団法人不老会 河口 邦代
 
 私の不老会入会(献体登録)の動機は不純で、うしろめたい気がする。
 それは、人の世の『おつきあい』という名の横暴。葬儀で時間を割いて、しかたなくつきあっている人達の言動にふれてから、自分の葬儀を出したくないというところから始まった。
 母の従姉妹で、不老の先輩Sさんの葬儀をしなかった生きざまが、輝いてみえ、大きく共感でき、決心しました。
 どれ程煩わしい世の中で人として生きていることか。死してもまだ、縛られるには抵抗があった。私につながる全ての人に自由に生きていってもらいたい。誰かの世話には、できる限りなりたくない。墓にも入りたくない。
 そして入会した。
 私は、自分の肉体が灰になるだけで消えるのではなく、骨にして家族に返してくれる前に、医学の分野で役立つのなら、どれほどメスが入っても大丈夫だと思えるようになった。
 誰にも迷惑をかけたくないと心から望んでいるが、死んだ時と、散骨は、自分では決してできない。それが残念である。
 好きな山に散骨してもらおうと思っていたら、アメリカの友人が「私は海に撒いてもらうわ」とメールしてきてから、寒さに弱いから、雪のモンブランよりも暖かいサンタモニカの海の方がいいかな、と迷っている。
 どうしても、人は一人では生きられない存在であると思うと、少し悲しい私である。
 私の希望が叶うかどうかは、さだかでもないわけではあるが、当面、私は自分の葬儀はしないでほしいとだけ家族には伝えてある。そして、三年後骨となった私を引き取ってほしいとも言い、散骨をしてくれるよう依頼はしてある。
 死して自由になり、自然の中におさまれたら本望である。
 
白菊会日本大学松戸歯学部支部 北野 笑子
 
 春まだ浅き日の「朝日新聞」夕刊「惜別」の欄に「献体の普及に尽力 倉屋利一さん」という見出しの記事がご生前のおだやかなお顔のお写真と共に記載されて居りました。多くの方が読まれた事と思いますが私も毎年白菊会の会報でお名前や御消息の記事を拝見して居りやはり特別な思いで読み、篤志解剖全国連合会の発会迄のご信念ご苦労に敬意をもって御冥福をお祈り申し上げました。その中に「死後の処置を肩代りしてくれる」との誤解から登録する人も居る事を嘆いて居られたと書かれて居りました。私もいつぞや顔見知りの方が「私献体しようかと思ってるの、面倒くさくなくていゝぢゃない」と云われた時そんな気持で献体しようと思われる方があるとは思いませんでしたので聞き流して居りました。多分もう今は献体の事は忘れていらっしゃるのではないでしょうか。・・・
 一昨年の暮近く知らないお名前の方から喪中の切手が貼られた白い封筒が届きました。聞きましたら学生時代からの親友で地方に嫁がれその後も折にふれ楽しい文通をしていた方のご長女からで十二月九日に他界されたおしらせと共にご生前彼女自身の文面による印刷された葉書が同封されて居りました。
 「献体の道を知りました時これこそ自分以外の人の為に私に出来る唯一の道と思い登録しました」(以下略)そして最後にご自筆で「家人の手間をへらす為少しでも宛名を書いておこうと心がけて居ります」(一九九九年)そう云えば「手がふるえて字が書きづらくなりました」というお手紙を頂いたのがその頃だったと思い出しました。私の宛名の書かれたお葉書を手にして涙がとまりませんでした。同じ心で献体の道を選んでいながら一度もそれにふれずに知らないまヽお別れした事が残念でなりません。
 彼女は時折地方新聞に文章を投稿されていられた様で一周忌にそれをご長女がまとめてコピーされ送って下さいました。その最後の投稿文に「献体登録カードを手にした事によって自分の存在価値を証明するあかしだ」という事を書かれて居られます。その点私の方がもっと単純だったかもしれませんが会員証とバッヂを手にしました時これでもう何時でも最期を迎えられると云う心の安らぎを覚えました。私が白菊会に入会するに当り家族に同意を得ました時私自身が献体を希望した事をきちんと書き残しておいて欲しいと云われましたので「お別れの言葉」としてしたヽめ署名捺印しておいてあります。が私もそろそろ親友に見習って宛名書きをしておこうかと思って居ります。
 
宮崎大学白菊会 木村 博行
 
 喜寿を過ぎ、毎日楽しく元気で過ごしている。
 かつて五十歳代の頃、急な腰痛とともに歩くことも困難となった。原因は加齢による、腰椎椎間板の衰えと、外部から「力」が加わると痛む老人性の腰痛症であった。
 朝起きると、腰部から太ももの裏側と、ふくらはぎにかけて響く痛みがあったが、動き回っているうちに痛みを忘れるという症状が続いた。
 痛みがとれると温熱療法などで腰を温め筋肉の緊張をときほぐすようにすると効果があった。足が動かなくなり寝たきりになったら大変だと思い、加療とともに日常も正しい姿勢を保ちつつ歩くことを続けた。疲れて腰を曲げたり、不自然な姿勢になると痛みを感じた。その状況に応じて三十分から六十分間位を目標に、歩くことを続けている。
 人間の老化は足から始まる、と言われている。歩くことによって五臓六腑の機能がよくなり、特に胃の調子がよくなった。かつて起き抜けの朝食など見たくもないという有り様であったが、今はおいしくいただくようになった。その原因は継続して歩いていることの証左といえる。
 人間にとって「歩く」ということが「究極の健康法」といわれるがよく理解できる。
 最近歩く中高年者が多くなり、更には山登りが盛んになってきている。山歩きのため、あちこちのいろいろな山に出掛け、自然と語り、山の花や巨木などとの出会いを重ねながら、カメラにその姿を収める。とりわけデジカメでのトリミングは、その出会いの感動を二度も味わうことができて楽しい。
 平成二年、六十五歳から山歩きを始め、十年間で二百回は頂上に立つ、と目標を立てた。平成十二年、七十五歳でその目標を達成することができ、ささやかながら健康と、達成感の喜びを得た。これもさきに出版された「みやざき百山」はもとより「日本百名山」などを含めて、県内五十三山、百五十八回、県外三十五山、四十二回、合計八十八山の二百回、となった。苦難や喜びなど、いろいろあったが、岳友に助けられ、各地の山の行事などに参加できた賜物である。
 こうして健康で歩いていられるが、いつ、如何なるアクシデントに遭遇するか分らない。これからも続けたい山歩きのために、高年にもかかわらず「日本山岳会」の一員に加えていただき、宮崎支部に所属することになった。「みやざき百山」を十数年かかって、有数の山を精査し、みずから執筆、出版に努力された山の経験豊富な支部長をはじめ、山の先輩として元気盛んな中高年男女岳友とともに、登った山が多くなり、北は北海道利尻山、札文岳、北アルプスの穂高連峰、立山、中四国は宮島弥山、大山、石鎚山、剣山など思い出が多い。
 こうして目標をもって元気で歩けることに感謝しつつ、二回目、六十九歳の折、富士山頂で再度御来光を受けた幸運の喜びをきっかけに、「究極のボランティア」として宮崎医大白菊会に献体登録をした。
 献体は、正常な遺体のみが学習の対象になる。
 これからは日常生活はもとより、交通事故や、山の遭難など、不慮の事故に出会う機会も少なくない。これら受傷事故で、折角の献体の意志が無駄となることは悲しい。
 健康のためにと歩き始め、山登りまで続け得ることができたからには、安全第一に、次の目標である八十歳での富士登山と、無事に献体の成願成就の暁には、山の「頂」から天国へ向って歩き続けたい。







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