1997/08/27 産経新聞夕刊
「宮ケ瀬ダム」順調に貯水 水源地の犠牲忘れないで /編集委員 石橋成彰
この夏、三つも台風が上陸して、各地の水ガメはひと息ついている。「渇水」や「節水」の言葉も聞かれない。現金なものである。
新参の「宮ケ瀬ダム」の貯水も順調だ。神奈川県の丹沢の山懐に、一昨年完成した今世紀最大の重力式ダムで、堰堤の高さは百五十六メートルもある。貯水率は四〇%にまでなった。
宮ケ瀬のダム湖畔に、落合悌一さん(七三)を訪ねた。妻のたみさん、長男の澄雄さんと一緒に、観光用の山草園と農業を営んでいる。
落合さん一家と会うのは、十八年ぶりのことだった。
あの時−。村は、ダム建設計画から十年を経て移転の補償交渉が始まっていた。一村一家の団結を誇った村が動揺し、複雑に揺れた時期だった。
村を去ろうとする人、村おこしに賭ける人、岐路の村の村長、補償金を待つ老女、故郷消失に戸惑う子供たち・・・。そんな村の表情をルポしようと思った。
当時の宮ケ瀬の集落は三百十五世帯。落合さんと川瀬さんと山本さんとで百九十世帯を占めた。何だかダムの立地を示唆するような組み合わせ、と思ったりしたものだ。
落合さん一家は、渓谷沿いで養鶏業をしていた。にぎやかな鶏舎の中で、落合さんは「私は宮ケ瀬に残ろうと思う。養鶏は無理かもしれないけれど、それでも」と話してくれた。
仕事の合間に、丹沢に棲む動物の写真を撮った。「ダムができれば生態系も変わる。宮ケ瀬の記録を残そうと思って」と。
ハクビシン、フクロウ、ニホンカモシカ、ムササビ、イタチ・・・。たくさんの写真があった。
−ずいぶん長い時間だったねえ。計画から補償、移転と、節目の「待ちの時間」が長過ぎたんだ。それが村の人の心を傷つけた。
貯水が始まって、徐々に家並みが沈んでいく。それはもう、忍びなかったよ。でも、もうふっきれた。集落が完全に湖底に沈んでからはね。
私の養鶏場も、ほら、この写真を残すだけ。
いまは、湖畔の二つの代替地区に五十世帯ほどが、移り住んでいる。
村を出た人が時々やって来る。けれども、帰るところがない。寂しそうなんだね。その一方で、湖畔の村のまとまりも、なくなってしまった・・・。
湖の見える縁側で、落合さんはいろんな思いを交錯させて、この十八年を話してくれた。
ダムの完成には、着工から約十年、計画からは実に二十八年を要した。
落合さんの住む「水の郷」は観光地区になっている。土産店や飲食店が並び、ビジターセンターもできた。大吊り橋も架かり、公園の工事も進んでいる。
かつて石川達三は小説「日蔭の村」で、小河内ダム開発の波に沈む村の断面を描いた。故郷を離れて慣れぬ生活に苦しむ人たちと、期待通りにはいかない観光立村のビジョンを。
新生宮ケ瀬は、東名と中央道とを結ぶ車時代のレジャー基地、都心から五十キロ圏の近郊都市型リゾートを目指す。湖畔の整備が終わり、満水になる来年夏以降が、正念場になる。
落合さんは、栽培した山野草を観光客らに販売する。もしその草花が増えたら山に返して、そんな願いを込めて手渡す、といった。
「もう年だから」と、写真撮影はやめた。四十年以上追い続けた「カワウソ」は幻のままで終わる。落合さんが撮った動物たちの写真は、ビジターセンターに展示された。
「やまびこ大橋」から湖面をのぞく。木造の小中学校も、日露戦勝の記念橋も、中津川渓谷も、外国人居留者が避暑にきた唐人河原も、みんな水の底だ。駐在所はあの辺りかな、と指で差しても、もう定かではない。
取材した村人も、すでに亡くなったり、隣町に越したり、老人ホームで余生を送っていたり・・・。消息の分からない人もいた。人生の転換を強いられた人たちの十八年もまた、さまざまだった。
都市化、工業化、ライフスタイルの変化で、水需要は増え続けている。農業用水などの転用にも限度がある。
急峻な地形と短い流路。わが国の地理的条件から、渇水対策は河川の上流にダムを作り、水を貯めるしかない。
といって、ダム建設は立地が限られる上、膨大な歳月と多大な費用がかかる。宮ケ瀬ダムの総工費は三千九百七十億円だった。
何よりも、水源地の住民に生活の場の放棄という犠牲を強いる。こうした人の理解と協力なしで、水源の確保はできない。
宮ケ瀬ダムの建設は「二十一世紀への贈り物」をキャッチフレーズに進められた。故郷をなくした人たちからの贈り物だ。洪水調節、発電、水道用水確保などの多目的に利用され、水道用水は一日最大で百三十万立方メートルの取水が可能という。
文明は、慣れるとなかなか元に戻れない麻薬みたいな怖さがある。水資源も赤信号がでるまで、心行くまで使ってしまう。
わが国は年々少雨傾向にある、という。渇水、節水の大合唱が聞こえる日も遠くない。
省エネとは“がまん”をすること。次世代のためにも、平時からの節水と省エネを習慣づけたい。自戒を込めて。
(いしばし・なりあき)
※ この記事は、著者と発行元の許諾を得て転載したものです。著者と発行元に無断で複製、翻案、送信、頒布するなど、著者と発行元の著作権を侵害する一切の行為は禁止されています。
|