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 「そして軍事力の使用は日本や中国、そして中間の島々をわれわれにより身近なものとし、事実われわれの隣人とすることができるならば、それは素晴らしいことであり、何をおいても達成すべきことではないだろうか」。これぐらい大々的に太平洋の価値及びアメリカ海軍の価値を、まず警鐘をならし、次に貿易の問題に触れます。
 「われわれ米国と日本とのかかわり、そしてその他の東洋の人々とのかかわりが、ただちに大きな商業的な利益をもたらすということはあり得ない。」まだ日本は遅れた国ですし、中国もまだいろいろなことがあって、大変遅れた国です。ですから直接にはそんな金儲けはできないだろうということです。ただ中国に関しては「巨大な国であるから、いまのところ輸出は輸入の8分の1にすぎないが、いずれにしても将来性はおおいに期待できる。特に注目される鉱物資源が一つある。それは石炭である。石炭は中国のほぼ全土で発見でき、おそらくは日本全国でもそうであろう」、このころは石炭がいかに大事だったかということをそのまま物語っています。
 3番目は中国への話がありますが、これは略します。キリスト教宣教師の問題が4番目に書いてあります。「日本に関して言えば、この国の人々の偏狭なる精神について、いろいろと書かれたり、言われたりしているが、彼ら日本人はほとんどの点で非常に洗練され、道理をわきまえた人々である。この点では中国人よりもはるかに優秀な資質を持った人々である。したがって信仰に関しても中国人よりは容易に胸を開くと思われる。事実、私は世界のどこよりもヨーロッパですら日本人のように気取りのない優雅さと威厳を持つ人々に出会ったことがない」。このへんは日本をほめてくれているんです。当時の幕府の役人がいかに丁重であったかということだと思います。
 「日本へ、あるいは琉球列島へ、宣教師を送り込むのが好都合になるまでは、少し時間がかかるであろう。これらの国々と名誉ある、そして友好的な理解が成り立つような、信頼できる人々を、キリスト教を教えるよりも先にまず送り込むほうがよろしいであろう」、これがペリーという人が並みの軍人ではないということを示すような話ではないかと思います。
 5番目は「アメリカの企業に新しい道を」、「太平洋には、いつか未来において、幸福に繁栄する社会を持つ運命にある美しい島々が多く存在する」、つまりいまは貧しく、また大したことはないけれど、将来においては繁栄する社会を持つであろう。そういう島々が方々にある。「これら諸島の多くはわれわれの知る限り、その現地人の完全な所有にあり」、つまり、そこのネイティブがもっている。「ほかは外国からの侵入者によって共有されている、あるいは外国からの侵入者の両方で共有している場合がある」、「またいくつかは、かつて人の居住があったかもしれないが、いまのところ所有者の痕跡すらない島々もある」、つまり太平洋に浮かぶ将来性のある島の中には、昔はいたかもしれないが、いまは誰も住んでいない無人島がたくさんあると書いてあるわけです。そして次が小笠原諸島です。
 「小笠原諸島は特に私が関心を持っているところである。土壌の質や生産手段からすると、ほかの多くの島々よりはるかに劣っている点がある」、現状においてはです。「しかし、その地理的な位置と健康的である点」、この健康的というのはどういう意味かわかりませんが、気候がいいということなのでしょうか。地理的な位置というのはわかります。非常にいいところにあるということです。「決定的な利点を持っている。いい港と言えるのが一つある。海洋国にとっては、それを所有することが最も価値のあるところである。」これらの諸島は、もちろん小笠原諸島です。「小笠原諸島はアメリカ西海岸と日本、琉球、そして中国との間の航路上にあり、捕鯨船の中継地として便利なところである。その隣接する海は、ヒゲクジラの何種類かが頻繁に訪れるところである。さらに言えば、函館、下田、那覇との友好的で利益ある交流の確立を、おそらく容易に」、ここを領有すれば、ここから函館、下田、那覇との友好的な利益、あるいは交流を開くことが容易にできるであろう。函館、下田、那覇といった、これらの地はいずれも石炭の陸揚げや貯蔵、積み出し、あらゆる便利性を備えている。立派な波止場などの構築が出来上がっています。
 小笠原にはさらにサトウキビ、ヤマイモ、タロイモ、サツマイモ、トウモロコシ、キャベツ、タマネギ、ダイコン、カボチャ、メロン、バナナ、パイナップル、ライムなどさまざまな食料品を生産している。さらには紅茶、コーヒー、大麦、小麦、タバコ、綿花、ブドウなどの生産も可能である。
 問題はこの先です。「この小笠原諸島は、すでに居住している数所帯の移住者から取り上げる。または金で購入することはもう可能である」、つまり現在、小笠原は誰も領有しているところはない。実はイギリスが手をつけているのですが、イギリスは本気になって手をつけていませんので、いまのところどこの国の所有でもない。居住者は少しいるが、その連中から取り上げたり、あるいは金で買うことは可能である。これは彼が香港から調査に行った結果、それをしっかりと見極めたのだと思います。「手近な国の日本、琉球諸島、台湾、また、それほど離れていない中国とも、ここを中心に活発な貿易を開くことが可能であり、いずれは地球上のこの地域の海を往来することになるであろう汽船のためにも、石炭の貯蔵庫や波止場を築いておく必要がある」、つまり小笠原にです。
 こうはっきり書いているところは、明らかにペリーは小笠原というものをアメリカが領有すべきである。早く手をつけるべきであるということを、かなり早くに提唱しているということがよくわかります。そして、「小笠原にはまだ宣教師の基地としても有用な基地となるであろう。日本や琉球諸島といった、もっとも興味ある諸国の人々を新たにキリスト教に転宗させるのに適した時期が訪れしだい、ここからこれらの思慮ある人々をどんどん送り込むことが容易である」、つまり宣教師さんを全部小笠原諸島に集めておいて、チャンスがきたら、どんどん日本や沖縄に送り込むことが大事であると書いています。
 小笠原諸島の地理と歴史について触れています。「この諸島の本来の名称は小笠原島である。ボニンアイランドと言いますが、本来の名称は小笠原島である。通常は無人島、つまり人のいない島と呼ばれている」、これは本当でしょうか。小笠原諸島が無人島と呼ばれたことがあるのでしょうか。ペリーが書いているのです。「私の研究では、ここでは本来の名称を採用したが、通常は無人島と呼ばれているのである。小笠原または小笠原諸島というのは、これら諸島を最初に訪れ、最初にその地図を作成した航海者の名前にちなんで与えられた名前にすぎない。アメリカ大陸の南部が200年ほど前に発見されて以来、発見したメガラニヤ、マゼランの名前で呼ばれているのと同じである」、こんなことはどうでもいいのですが、こういうことまでペリーは調べているようです。そして英国が最初にここに上陸したという話をちょっと書いたのですが、いまはまったくそれには手をつけていません。
 そして、最後10番目にアメリカの植民地にするということに対する異論がある。それについて語る。「アメリカの移住地、または植民地にすることに対しては反対論がある。それらの議論は、何らかの合理的な議論に支えられているものではない。私はそう思う。実際商業国においては、商品を運搬する船舶が必要であるがごとく、植民地は必要なのである。西部の荒野であれ、太平洋の遠く離れた島であれ、冒険者たちが行くであろう有用で道義的な目的のもとに、その生まれたて、つまり未開の移住地が将来繁栄する村落に成長することは確実であり、それほど時間のかかる話ではない。西へ、北へ、南へと、アメリカの人々は何らかのかたちで、その支配区域と国力を拡大するのである。おおいなる太平洋の島々を、彼らの大きな」、彼らというのはアメリカ人のことです。「大きな腕の中に抱き寄せ、アジアの東海岸にまで至らしめるのである」、つまりアジアの日本や小笠原諸島や琉球諸島を東海岸にまで至らしめるという意味です。
 「結果、将来の大きな競争相手」、これはロシアなのですが、「これと対決しなければならなくなるかもしれない。この問題については世界が自由であるか、それとも奴隷であるかが、かかっている。専制主義か、合理的な自由主義かがかかっている。私は事態の進展に伴い、この戦いは遅かれ早かれ起こらざるを得ないものと考えている。そして勝利も確実と考えている」、このようなことをペリーは1856年3月6日の大論文、これはこの3倍か4倍ある大論文です。これは私がいいところだけ省略してきたのですが、これを長々と書いています。
 つまり私たちは日本の立場で考えますと、徳川260年の鎖国という泰平の夢を破り、そして近大日本への第一歩を踏み出した事件として、黒船来航を受け取るわけですが、実はアメリカにとっては、私たちが思ってもみなかったような魂胆というか、密かなる意図があったということは確かです。
 ただし、これは今朝、調べようと思っていたのに忘れてしまったのですが、おもしろいことにペリーが香港を出港して日本に向かったその前後のいつかなのですが、大統領が替わるのです。ところが次の大統領は、侵略主義反対、モンロー主義厳守の大統領でした。したがってペリーに対して、日本出港をとりやめろという通信を送ってきたのです。
 ところが通信というのは当時は電波がありませんから、海上をものすごく速い船で来たのだと思うのですが、香港に届いたときにはペリーの艦隊はもう出港した後であった。したがってペリーさんはその電報を見ていない。あの電報を見ていれば、とりやめになったかもしれない。そういう話があるのだそうです。本当に大統領が替わったかどうかを調べようと思ったのですが、忘れてしまったので今日は仮説としておきます。ご意思のある方は調べてみていただきたいと思います。
 歴史に「もしも」ということはありませんが、もしもそれが本当の話で、もしその電報が先に届いていたらペリーの出港は大統領命令ですから「待った」がかかるわけです。もし電報が先に届いていたら日本の開国は遅れたというか、どうなったかということは誠に興味あるところだと思います。この点は申しわけありませんが、調べ忘れてきましたので、そういう話があるということだけお伝えしたいと思います。
 ところでペリー黒船来航より150年と言います。私は常々40年史観という史観をもっております。少々いんちき史観なのですが、語呂が合うので、大変おもしろいと思っていつも唱えています。ペリーが来て13年後、つまり慶応元年になります。ペリーが来て、慶応元年までの間に、ご存じのように尊王攘夷運動、攘夷か開国か、あるいは倒幕か幕府を守るかということで日本国内がガタガタと揺れます。
 はじめはペリーの大砲の威力に押されて、徳川幕府が京都の朝廷に許しを得ないで、開国の条約を結ぶ。これがけしからん。朝廷の許しを得ないで、こういう大事な国策を幕府が勝手に壟断するとはけしからんということで、尊王攘夷運動が起きるわけですが、そのときは京都の朝廷は攘夷打ち払えなんです。それで京都の朝廷の意思を無視して幕府がやったのはけしからんということで、ゴタゴタが起きたのです。
 しかし朝廷が攘夷というものを命令してみたものの、長州でも下関戦争をやった。薩摩でも薩英戦争というイギリス相手に戦争をやってみたが、どうしても勝てやしない。大砲の威力にはとても勝てないということで、攘夷は夢みたいな話であるということがわかってしまう。そこから将来、攘夷をするならば、いまは涙をのんで開国をして、向こうの文明を取り入れて日本を強国にして、それから攘夷をやろうということに日本の国策を変え、京都の朝廷が日本の国策を開国と決めたのが慶応元年です。
 慶応元年を西暦に直すと1865年です。つまりペリーが来た1853年〜65年の間、日本ではゴタゴタがあった。その結果、日本は開国と決めた。日本全体の国策を開国と決めた。つまりここから近代日本というものはスタートするわけです。植民地にされない国、世界の列強と伍していける国、そういう国をつくろうということです。そこからいろいろな言葉、富国強兵、臥薪嘗胆などいろいろな言葉が出てきますが、あるいは司馬さんの言葉を使って言えば、坂の上の雲を求めて日本人は精一杯の努力をして国家づくりに励んできた。
 そして近代国家を見事につくり上げて、明治27、28年の日清・日露戦争に勝ち、明治37、38年の日露戦争に勝ち、アジアに日本という近代国家ありということを世界中に知らしめたというのが、まさに日露戦争に勝ったときです。実はこれは勝ったとは言えないような戦争なのですが、とにかくポーツマス条約において条約を調印したときには、日本の勝利は一応確定されたのです。日本という国は堂々たる近代国家に仲間入りし、当時の世界5大強国のうちの一つの帝政ロシアを破ったということから、日本も世界の強国の仲間入りをした。これが明治38年、日露戦争が終わったときとすれば1905年です。
 つまり1865年から国づくりを始め、一生懸命国をつくって、これを近代国家として一人前に仕上げるまでに40年間かかったということです。そして日露戦争に勝った後、日本はうぬぼれ、のぼせた、いい気になった国になりました。夜郎自大という言葉がありますが、すっかり世界中の大強国のような気持ちになり、われらが世界に冠たる大日本帝国なりということを本気に信じたのかどうかわかりませんが、それを口々に唱え、世界中から孤立し、国際連盟から脱退しました。
 そして栄光ある孤立などという言葉をすごくいいもののように思いながら、世界の孤児になり、やがて世界中を相手に戦争をし、せっかくつくった大日本帝国を滅ぼしてしまう。これが昭和20年、つまり1945年8月でした。つまり1865年から国づくりを始め40年間でつくった国を、さらにその先40年間で日本は滅ぼしてしまったわけです。国をつくるのにも40年、国を滅ぼすのにも40年、そしてその次、われわれは戦後日本というものを新しくつくり出しました。占領の期間が丸々6年間あり、したがって1952年から戦後日本は新しくスタートを始めたわけです。







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