ところで、それまで日本にアメリカの船は一度も来ていないのだろうかということになると、決してそうではありません。モリソン事件という事件があり“モリソン号”という船が日本近海に近寄り、浦賀沖にやって来て、このときは日本の大砲の威力で追い払われたという事件があります。これが1回目とします。2回目は、ビットルという艦長の船が浦賀沖にやってきます。このときは港を開けろという意味ではなく、補給や給水を頼みに来たのですが、このときもまた追い払われた。これは1846年の話だそうです。
さらにその3年後にグリーンという艦長の船が長崎にやって来ました。このときは難破した捕鯨船のアメリカ人がオランダ船によって10人ばかり救われ、それが長崎の港に連れてこられて保護されたという情報があり、そのアメリカ人を引き取りにということで長崎の港にアメリカの船が入ってきた。このときはわけのわからない交渉になり、そんなに簡単にアメリカ人を引き取るわけにはいかなかったというようなことでゴタゴタがあったようです。こういう人たちからも話を聞き、ペリーはこういう認識を持ったということを書いています。「日本人は非常に快活な国民であるらしい。ところが肝腎な話になると、特に幕府というところの政府の役人は皆、口を閉ざして語らない。全然喋らない。とにかくわからないから、上に聞けと言うだけです。そして何かと言えば、とにかく長崎に行けと言う。長崎に行っても全然埒があかない。だから長崎に行く必要はない。強引に江戸湾に入ったほうがいい」というようなことを、ペリーはこういう人たちから学んだようです。つまりペリーはこういういろいろな話を仕込み、どうせある程度強行突破するならば江戸湾に直接行くべきであろうということで、ペリーの計画は直接、江戸湾に向かうということに決まったようです。
しかしながら、江戸湾というのは、こういういろいろな本を読んでも名前も書いてあるし、場所も書いてあるし、だいたいのことは書いてあるのですが、海の深さはどれぐらいあるか。入口はどのぐらいどうなっているか。浅瀬はないのかというようなことは一切書いていません。日本は鎖国の国でそんな情報は出しませんから、さっぱりわからない。そこでペリーの江戸湾突入もそのことを警戒しました。
ペリーの持っている地図で、観音崎と千葉県の富津とを結ぶ線、これよりさらに江戸湾に入ると、日本人がカンカンになって怒る。同時にこれより先に入ることは非常に危険である。なぜならば、何もわかっていないから、手前でとどまる。そこでペリーの地図には観音崎のいちばん先端をルビコン岬と書いてあるそうです。これはご存じだと思いますが、ルビコンを渡ったというローマのシーザーの伝説がありますが、これを渡るともやは引き返せない。戦争になる可能性もあるということで、ペリーは観音崎の先端をルビコン岬と名をつけて、これ以上は入らないと決めて来たようです。
ここまで準備をきちんとして、ペリーは艦隊を率いてやってくることになり、自分は東海岸のノーフォークの港を嘉永5年、前の年ですが、11月24日に出港します。そして喜望峰を回って、東シナ海、インド洋を回って、香港の港に入るわけです。これが嘉永6年の4月7日となっています。
ところが香港の港に入ってみたものの、肝腎要の自分の部下となる大艦隊がおりません。わずかにペリーが連れてゆく予定の“プリマス”と“サラトガ”という帆船の2隻がいる。肝腎要のいちばん最近できた、自分が旗艦にしようと思っていた“サスケハナ”という、いわゆるいちばん最新鋭の黒船ですが、これが上海の港に行っていていない。何をしに上海に行ったのかと言ったら、香港にいたアメリカの外交官が中国の本土で太平天国の乱が起き、上海の港にアメリカ人を保護するために出向いたのですが、そのときに“サスケハナ”に乗って行ってしまった。
それでペリーはカンカンになったりなど、いろいろな話がありますが、結局、全艦隊を引き連れるとすごいんです。“サスケハナ”、“ポーハタン”、“ミシシッピー”、“マケドニアン”、“プリマス”、“サラトガ”、“バンダリア”、“サザンプトン”、“レキシントン”“サプライ”という10隻の大艦隊になるはずだったのですが、そういうわけで本国からまだついていない船がたくさんでした。
そうかと思えば、上海の港にもっていかれ、香港にいない船もたくさんあるということで、ペリーはカンカンになりながら、外交官と大喧嘩をして“サスケハナ”だけ取り戻してきて、自分の旗艦にした。結果的には“サスケハナ”“ミシシッピー”“プリマス”“サラトガ”という手持ちにいる4隻だけを連れて日本に向かうことにしました。日本に来るまでの間、ペリーは香港を根城に、琉球つまり沖縄、那覇の嘉手納湾あたりを全部調査します。さらに足を延ばし、小笠原諸島の父島、母島あたりを調査します。その調査が済んでから再び香港に戻り、香港からようやく4月7日に出港するわけです。
さてペリーが日本に来たときの彼のやったことです。司令で与えられたとおり、威厳は存分に示せ。自分たちがいかに偉大で強力であるかということを日本人に徹底的に知らせろ。ペリーは面白い男で、ペリーがいよいよ遠征と決まると、新聞記者やいろいろな人が一緒に乗せて行ってくれと言ったそうです。シーボルトまでが「乗せていってくれ」と言ったそうですが、そういう文化人は一切お断り、そんな者は役に立たん。これはわが海軍の手だけでやるということで、ペリーはそういう人たちは一切乗せません。
自分たちの海軍だけ、自分がメキシコ戦争でベラクルス包囲戦をやったとき非常によく働いた部下たちだけを日本に連れていく。ほかの奴は連れていかない。ただしこれが面白いところなのですが、私たちは戦争に行くのではなく外交であるから、日本人をおおいにもてなす必要があるだろう。そこで、うまいフランス料理を食べさせる必要がある。だからフランスの料理のうまいコックを2人乗せていく。それから宴会などがあって軍楽隊が必要であろう。そこで軍楽隊を何人か乗せていく。イタリアの軍楽隊がいちばん演奏がうまいというので、イタリアの軍楽隊を乗せていきました。さらにこの記録は永遠に残さないといけないというので、当時の写真技術がそれほど信用がおけなかったのでしょう。そこでハイネという絵描きさんを乗せる。さらに写真が巧いと言われている、写真館を開いていたブラウンというカメラマンを乗せる。必要なところはちゃんと手を打つんです。ですからいま現在『日本遠征記』というペリーの本がありますが、あの中に出ている絵は全部ハイネさんの絵だし、写真は全部ブラウンさんの写真です。そういうのがきちんと収まって、彼の『日本遠征記』という見事な本ができあがるわけです。
このへんがペリーさんの偉い人であるところで、さらに通訳は大事であるというのでオランダ語と英語と日本語ができる通訳と中国語と日本語ができる通訳とアメリカ語とオランダ語ができる通訳、とにかくいかなる場合にも応じられるように通訳というものを香港で探し求め、これを雇って行く。そういうような万全な手を打ち、ペリーさんは日本に乗り込んで来ました。
ペリーの肩書きはどうであるかと言うと、正式にはアメリカ東インド艦隊司令長官、コマンダー・イン・チーフ・USイーストインディア・スクアドロンというのが彼の正式な肩書きです。ところがこれだけでは威張ってばかりいて、外交的なニュアンスがないというので、この東インドの次に中国日本海域というのをつけて、チャイナ・アンド・ジャパンシーズ、ですからイーストインディア、チャイナ・アンド・ジャパンシーズ・スクアドロンと広げ、自分が全部やっているということを見せる。これが第1回目の来航です。
翌年第2回目のとき、ペリーはまた来ますが、そのときにはさらにその上に日本派遣特命大使と勝手につけた。スペシャル・アンバサダー・トゥ・ジャパン、これを肩書きにつけたと言います。黒板がないので残念ですが、日本語の翻訳には「亜墨利加合衆国特命欽差大臣専到日本國兼管本國師船現泊日本海提督ペリー」という長い名前、これだけではわからないと思いますが、日本語の漢文訳をするとこういうことになるわけです。こうやって、堂々と自分がいかに最大の権限を持っているかということを見せつけたわけです。
ペリーが日本との折衝を通じて曰く「日本人というのは、どの国の国民よりも形式と儀式とを重視する国民である。日本人が外国人に偏見を持っているという話はオランダによって誇張されすぎている。それに幕府は都から遠く離れた地点での」、都というのはこの場合、東京、江戸です。「抵抗を阻止できるほど強力でない」、つまりいまの幕府はたとえば薩摩、あるいは長州が叛乱を起こしたときに、これをがっちりと押さえ込むほどの力を持っていないということも見抜いているようです。
「日本人は蒸気船に大驚愕した。大砲、砲弾を見て恐怖心にかられて、友好的な態度を取るほかはなかった」というふうに、まことに日本人を見抜いたと言うか、見下したと言うか、見破ったと言うか、とにかく実に偉そうなことをペリーは書いているわけです。ということでペリーが日本に来た話は終わりなのですが、ここまではいままでに一般的に言われていることです。たいていの本を読んでも、これほど詳しくはないでしょうけれど、ある程度、これに近いことは書いてあります。
ではペリーはそれだけの者であったか。それだけの目的で、つまり友好的に港を開くことだけが目的で日本に来て帰ったのであろうか。それに成功して、ペリーは世界史に名を残す大提督になった。それだけで十分なのであろうかと言うと、必ずしもそうではないと言うことを今日は特ダネとしてご紹介申し上げたいと思います。
ペリーは1853年、また1854年にも日本に来ましたから、日本との強引な国交を開いてから2年後の1856年の話です。3月6日に大論文を書き、これからの太平洋において、アメリカがいかに行うべきかということを説いたものがあるわけです。最近になって翻訳されたようですが、この翻訳があまり上手ではありませんので、何が書いてあるかさっぱりわからない翻訳ですので、私がこれをわかりやすくまた再翻訳しました。これからちょっと読み上げてごらんにいれます。長いのですが、それにまた、いまお話ししたようなことの繰り返しがかなりあるかと思いますが、興味があるかと思いますので読み上げてみます。何を言いたいのかと言いますと、ペリーの航海日記の中にも、こういう一文があります。
「日本との友好関係達成には、たぶん時間がかかるであろう」、これは航海日記ですから、終わってからの話で書いているわけです。「そこで琉球と小笠原諸島の領有、自分の領土としてもってしまうことが大変重要である」と日記にも書いています。つまりこのことなんです。ペリーの意図は、たしかに港を開くという平和的に友好的と言っても大砲で脅しをかけての友好ですから、こんな友好はあまりないのですが、一応港を開くということにあったのです。実はその裏側には「琉球と沖縄と小笠原諸島というものをアメリカ領土とする」という狙いがあったということをこれからご説明します。
1856年3月6日の論文は、ものすごく長いものなのです。長いものですから、全部読むのは大変なのですが、私がいちばんいいところだけ書き抜いて来ましたので読み上げます。
「アメリカの商業的な繁栄に共感を持つすべてのアメリカ人の誇りと、憧れである偉大な汽船を最初に浮かべた男たちに対して、政府は惜しみない金額を提供した。その浪費への非難がアメリカ全土に聞かれ始めた。これは誠に遺憾である」、つまり海軍縮小に対する異議をここでも申し立てています。
「いまや政府が無分別にも国庫から」、つまり国の財産から「金を出したと多くの人は考えてきた、その金額をすでにもう十分返済して余りあるほど、われわれは国庫に返している。そのことを認識してほしい。貿易に用いられている商船団の大半は、国にとっても大きな価値を示している。常時、400隻をくだらない非武装のアメリカ船舶が鯨を追い」、このときは400隻と書いていますが、先ほどのメルヴィルさんはもっと大きな数、700隻と言っていましたが、1856年ごろにはもう400隻だったのでしょうか。
それともメルヴィルさんが大きく書いたのかわかりませんが「常時、400隻を下らない非武装のアメリカ船舶が鯨を追い、四方八方で貿易にいそしむ太平洋は、素晴らしい速度と数門の大砲の優位を持つ軍艦によって、しっかりと守られているのである。」太平洋での運航の現場から、英国、つまり太平洋をそのまま直接突っ切ればということです。「英国やフランスの港からの距離の遠さ、そして時間のかかること、それに比べればカリフォルニアやオレゴンの沿岸に横たわる合衆国の港の近さは、もはや数での不均衡を行うほど優れた特性を持っている」、つまり太平洋はアメリカの将来のために最も重要な場所であるということです。
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