宇和海1 宇和島
段々畑(だんだんばたけ)とイワシのいる海
●石垣のできた時代
字和海は、小さな岬が細長く海に突き出しているところで、岬は切り立った山になっている。ところが緑の木の下をよく見ると、そこは段々畑のあとであった。階段状の畑は、1つずつ石を積み上げた石垣となっていて、何十段もつらなって頂(いただき)にいたっている。これほど高く急な石垣をいつ誰がつくったのだろう。
石垣がつくられたのは江戸時代から。字和海ではイワシが多くとれ、肥料に加工すると高く売れるので、漁師たちはイワシを追って、岬の先へ先へと村をつくっていった。かれらが、自分たちの食糧を得るために段々畑をつくっていったのがはじまり。さらに明治時代になると人口が急増して、段々畑の造成が最盛期になった。段々畑はますます高く頂までいたり、農作業は重労働になっていく。
今日、漁師たちはイワシの不漁から真珠の養殖、さらにハマチの養殖へとすすみ、段々畑で自分の食糧をつくらなくても生活できるようになった。段々畑の重労働も昔ばなしになり、石垣も緑におおわれて、岩山にもどっている。
●石垣とサツマイモ
宇和海沿岸のように岬がかたい岩盤でできたところは、表面の土が浅い。日照りが続くと土は乾き、大雨や台風がくるとたちまち土が流されてしまう。それを防ぐのが細かく仕切られた石垣の畑であった。
江戸時代の終りごろ、段々畑の夏はサツマイモ一色になる。主食になるだけでなく、乾燥に強い植物でしかもツルがのびて土の流失を防いでくれる。そして冬は麦畑となる。石垣とサツマイモと麦は字和のイワシ漁師には、なくてはならないものとなった。
昭和30年代の由良(ゆら)半島 撮影・原田政章
昭和30年代の由良(ゆら)半島 撮影・原田政章
宇和島港の航空写真(2001年4月)
(拡大画面:511KB)
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宇和島市遊子(ゆす)水ケ浦の段々畑(2002年)
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